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あえてゾンビ映画と呼びたい「トウキョウソナタ」に涙する

2008年10月15日 | 映画
 黒沢清監督「トウキョウシナタ」は、まぎれもないゾンビ映画の傑作なのだが、ラストでドビュッシーの「月の光」を1曲まるまる演奏するシーンは感動もので、あふれる涙がとまらなかった。

 音大の付属中学を受験した次男(井之脇海。この子役は天才的)がその実技試験で演奏するのだが、演奏が進むにつれて、試験会場にもかかわらず次々と聴衆が集まってくるというシーンで、それだけで次男のピアニストとしての非凡な才能を表現しており、何よりも洋館風な高い天井の部屋の窓にかかる黒沢監督お得意の白いカーテンが風に揺れ、少年のピアノを弾く指がしなやかに鍵盤の上をすべる、その運動感がすばらしい。あえていえば家族の再生への希望を暗示するシーンとして、観るものに安堵感をあたえもしよう。だが、そもそも「月の光」は18歳のドビュッシーが人妻に捧げた曲とも言われ、この映画でもあるいは少年からピアノ教師(井川遥)への愛のメッセージとして機能しているのだと思いたい。教え子の演奏をみつめるピアノ教師井川遥の丸い顔は、まるで月のようではないか。

 家族の再生を描いた映画というキャッチフレーズにだまされてはいけない。確かに4人家族が登場するのだが、これほどいいかげんな物語を平然と映画にしてしまう監督も他にはいない。北野武の「監督ばんざい」のいいかげんさはいいかげんそのままだが、あたかもリアルな現実を描く素振りでいいかげんなことをやっている、それゆえゾンビ映画になっているのが「トウキョウソナタ」であり、微妙に現実をずらしたSF映画と呼べるかもしれない。

 この映画がゾンビ映画であるのは、アメリカ軍に入隊し中東に行って不在の長男(小柳友はブラザートムの息子だと)を除き、夫(香川照之)と妻(小泉今日子)と次男、いずれもがそれぞれが遭遇あるいは選択する犯罪をきっかけに、擬似的な死を経験することでこれまでの人生を一度清算し、新しい出発に向かおうとするからである。長男も一度米兵となって戦場で人を殺す体験をし、別の国際貢献のあり方があることに気づいた旨の手紙を送ってくるので、家族が全員同じ日に再生の道を歩み始めることになる。とりわけ車に轢かれた夫が昏倒した道端の枯葉の中から起き上がるシーンはゾンビそのままではないか。妻の小泉今日子も夜の海岸の波打ち際に、溺死体のように大の字に横たわってしまうのだが、何よりも、いくら才能があるとはいえピアノを習い始めて数カ月でドビュッシーをみごとに弾きこなす子どもはお化けかもしれないのであって、一度死んだ家族が再生するその象徴的場面が、最後の「月の光」のシーンなのだった。

 テーブルの上の新聞紙が風に吹かれて床に落ちるファーストシーン、父と子が帰宅途中に無言で出会う家の近くのY字路、夫の会社の窓に映る風に揺れる垂れ幕のようなものの影のゆらめき、長男が2人乗りのヤマハのスクーターで都内を疾駆するその疾走感、親子喧嘩のはてにみごとに階段落ちする次男、米軍に入隊するため空港バスで出発する長男を見送るシーン(絶対に長距離移動を思わせるバスでなくてはならぬ!)、青いプジョー207CC、カブリオレの開閉する屋根の装置としての運動感、暗い海に光線のように走る白い波の線の動き、海辺に立つ漁師小屋と思しき粗末な建物を照らす街灯などなど、あるものは、これから家族に起こる出来事を暗示する秀逸な場面として機能もしているのだが、ありそうなリアリズムなどどうでもいい大胆さで、映画的な運動感が躍動する「トウキョウソナタ」は、ありえない世界を描きながら傑作を作ってしまう見本のような映画なのだった。観るべし!

 ラストの余韻に浸りながら映画館を出て、夜空を見上げると、クロワッサンな三日月が輝いていた。

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