教養と趣味

私が経験してしてきたことや考えていることに対してご指導を下さい。趣味などを通して有意義な生き方についてご伝授ください。

人間魚雷「回天」基地跡

2009年03月30日 13時17分14秒 | 下松からの写真
下松から写真が届きました。


93式魚雷(高圧酸素を燃焼に使用したために航跡が殆ど出なかった)の回天推進装置の一部:記念館入り口横に展示。


回天基地跡:トンネルを出た付近からの眺め。


回天記念館の裏山(163m)・展望広場にモニュメント「未来の風」


回天記念館への歩道の両脇に烈士石碑(名前と出身県)。


回天記念館事務室の前に展示の人間魚雷「回天」の模型。


回転基地へ直進の岩盤をくり抜かれた回天運搬用のトンネル。


海に突き出た回天基地跡:トンネル入口付近からの眺め。


樹齢350年と伝えられている椿の巨樹:幹周が2m


大津島への乗船場に展示の人間魚雷「回天」の実物大模型:平成18年に公開された「出口のない海」の撮影に使用されたもの。


大津島へ約40分の連絡フエリー(大津島丸):徳山港にて。


二つの魚雷発射口(回天基地跡)


馬島港:モニュメントのある展望広場への登路からの眺め。

ご主人のコメント
昨日、人間魚雷「回天」基地跡、回転記念館等がある大津島に家内と二人で行って来ました。
大津島は周南市の徳山港から南西10kmの沖合に浮かぶ細長い島で、南部は瀬戸内海国立公園に指定されていて景観の優れたところです。
花見を兼ねて桜が満開と思われる来週当たりに行きたかったのですが、来週も再来週の日曜日も予定があるので思い切って出かけました。

徳山港発AM10時のフェリー(大津島丸)に乗船し、徳山湾を囲む仙島、黒髪島等の島々を眺めながらの約40分の船旅は退屈を感じませんでした。
私が数10年前に訪れた時は小さな巡航船でしたが、今では高速艇やフェリーが就航していて、船便も多く大変便利になっていました。

馬島港に降りて、先ず、「回天」を発射場までトロッコで運んだというトンネルを抜けて、岸壁から海に突き出た人間魚雷「回天」基地跡に行きました。
この基地は、人間魚雷「回天」の発射試験場で、平行して二箇所の魚雷発射口があります。

家内は大津島は初めてとのことなので、馬島港を見下ろせる少し高台の回転記念館に行きました。
記念館には、歩道に烈士石碑、東和町沖で謎の爆発沈没した戦艦陸奥の砲身で作られた平和祈念の鐘、慰霊碑、「回天」模型等があり、館内には「回天」に関する遺品や資料が展示してあります。
周囲には桜の木が多くありますが、未だ殆どが蕾状態でした。
桜の開花は例年よりも一週間位早いとの予報でしたが、ここのところ冷え込みが続いているので、結局例年並みか遅れ気味になっているようです。

回天記念館を見学した後、裏山(163m)に向かい魚雷見張所跡を経て頂上(163m)の展望広場に着きました。
ここにはモニュメント「未来の風」が建っており、徳山湾が見渡せます。
この広場で昼食後、山を降りて海岸線沿いの道路を北上し民家の裏にある樹齢350年と伝えられるツバキの巨樹を見に行きました。幹周りが2mほどあるそうで、背丈より少し上当たりで二つに分かれいて花を咲かせていました。

長くなりますが参考までに(回天記念館資料から抜粋)
1.回天誕生
太平洋戦争の末期(昭和18年夏)、日本の敗退が続く中、二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻作戦しかないと人間魚雷を構想。
その後、戦局は更に悪化し、海軍省はついに試作兵器を完成させ昭和19年8月、正式に兵器として採用され、”天を回らし、戦局を逆転させる”という願いを込めて、人間魚雷は誕生した。
これは、魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器で、隊員の訓練基地が大津島に置かれた。
2.人間魚雷「回天」
「回天」は秘密保持の為に、0六兵器と呼ばれた。
回天の母体となった九三式魚雷は酸素魚雷といわれるもので、終戦まで秘密のベールに覆われていた高性能魚雷であった。隠密性に優れ、爆薬を多量に積載することが出来た。各国の魚雷に比べ航続距離もはるかに長かった。
この九三式魚雷の中央部に乗員の為の操縦室等を取り付けたのが「回天」である。
昭和19年6月頃から搭乗員の募集が始まり、彼らは自分の命をかけて祖国を守ろうと全国から20歳前後の精鋭達が集まり、毎日激しい訓練をした。
3.回天特別攻撃隊
終戦までに訓練を受けた「回天」搭乗員は1375人で、その殆どが兵学校、機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者達だった。年齢も17歳から多くても28歳、多数は20歳前後の若者だった。
「回天」による戦没者は、搭乗員、整備員他145名(搭乗員は106名)、没時の平均年齢は21.1歳である。
4.人間魚雷「回天」発射基地
「回天」の訓練基地は全国に4箇所(山口県の平生、光、大分県の大神)あったが、大津島基地が最も早く開設され、更に当時の施設が現在も残っているのも唯一大津島だけです。
大津島では昭和12年に当時の日本海軍が世界に誇った高性能の魚雷、九三式酸素魚雷の発射試験場が建設された。
その後、九三式酸素魚雷を推進装置として使用した「回天」の誕生とともに、新たに訓練基地隊が昭和19年9月1日に開隊され5日から訓練を開始した。
出撃する隊員は、沖合いに待機している「回天」を搭載したイ号潜水艦に乗り移り戦地へ向かった。
5.試練を乗り越えて
訓練開始から2日目の9月6日、黒木大尉と樋口大尉同乗の回天が沈没事故を起こし、最初の犠牲者を出した。
その日海上には波が立ち始めていた。指揮官は訓練の中止を命じたが、若い隊員の気迫に押されて訓練に踏み切り、二人は回天に乗り込んで海中に発進して行った。一時間が経過。浮上予定時刻を過ぎても彼らは戻ってこなかった。
夜を徹した捜索が続けられ、16時間後に発見されたが、すでに二人とも絶命していた。彼らは沈没した艦内で刻々と迫る死とたたかいながら、沈没の状況の報告とともに「回天」の将来に希望を託す2000字におよぶ遺書を残していた。
この報告をもとに「回天」の改良が進められ、次の日から「黒木、樋口に続け」の合い言葉のもとに、訓練が再開された。

神宮外苑(国立競技場)

2009年03月30日 08時08分33秒 | 日記
本日も素晴らしい快晴の朝を迎えましたが、外気は冷たく感じます。
今朝も愛犬(城)を抱いて公園まで連れて行きましたところ、便をしました。
少し元気になったのか、抱こうとすると抵抗をしました。
今朝は食欲もあり見かけは元気なようですが、油断は出来ません。

本日より、NHK朝の連続ドラマ「つばさ」が始まります。
川越市が舞台になりますので、観ようかと思っております。

さて、3月24日(火)に散策をしました、神宮外苑の紹介その2です。

本日は、国立競技場をHPを参考にしながら紹介いたします。

国立競技場の正式名称は、国立霞ヶ丘競技場・陸上競技場だそうです。
東京オリンピックの開会式の会場でした。
実は、その少し前に開催されたアジア大会のために建設されたそうです。
私は、5回くらい入場をしたことがあります。


競技場の正面裏側に当たります


近づいて見ますと、画面上部中央に聖火台が見えます


正面入り口を望む


正面入り口の左側にあります「オリンピック開催」の碑があります


上空写真(HPより)


それでは、HPより「国立競技場の歴史」を紹介いたします。

○日本で初めての本格的陸上競技場の誕生 
 国立競技場の前身は「明治神宮外苑競技場」(以下、神宮競技場)であり、大正13年10月に、日本で初めての、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地であったこの地に建設されました。神宮競技場は、大正8年12月に工事が着工されましたが、その後、物価の高騰や関東大震災の被災者の収容施設になったりで工事が中断され、大正13年3月にやっと工事が再開され、同年10月に完成となりました。
 この神宮競技場は、陸上競技のみならず、サッカー、ラグビーなども行われ、総合競技場として利用されていました。陸上競技では、織田幹雄氏が三段跳で、南部忠平氏が走幅跳で世界記録を樹立するなど、多くの名選手を生み出しています。一方で、第2次世界大戦中に学徒出陣の壮行会が行われたり、敗戦後は連合軍に接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と名をかえて使用されたりと、暗い時代もありました。

○日本の競技場から国際的な競技場へ 
 敗戦から数年後、日本は、「平和な日本の姿をオリンピックで世界へ示したい」として、オリンピック招致の声明を出します。そのための国際的なアピールとして、昭和33年、「第3回アジア競技大会」を東京で開催しました。そのメイン会場として生まれ変わったのが、現在の国立競技場です。
 国際大会の舞台となる競技場の建設は、神宮競技場の取り壊しから始まりました。建設計画の中心人物は、建設省関東地方建設局(当時)の角田栄氏と設計・デザインの片山光生氏。着工は昭和32年1月で、大会を2か月後に控えた昭和33年3月、ついに完成となりました。
 そのアジア大会が成功裡に終了し、東京オリンピックの招致も実現すると、国立競技場は、まさしく日本を代表する国際的競技施設という存在を国内外にアピールしてゆくこととなります。

○アジアで初のオリンピックの開催 
 東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年3月、競技場の拡張工事が開始されました。主な内容は、収容人員増のためのバックスタンドの増設、正面スタンドから見て右側にあった聖火台のバックスタンド中央への移設、グラウンド地下道の新設、電光掲示盤や夜間照明設備の改修などでした。
 そして、昭和39年10月10日、94か国・5,558名が参加した「第18回オリンピック競技大会・東京大会」の開会式が、改装されたこの競技場で行われました。国立競技場で行われた競技種目は、陸上競技、サッカーの決勝と3位決定戦、馬術の大賞典障害飛越で、10月24日の閉会式まで、アジアで初めての聖火は燃え続けました。