ダライ・ラマ14世の来日記念講演に行ってきました!
はじめてインドのダラムシャラーでご尊顔を拝してから10年近くがたち、
その後チベットのラサを訪れた際、可能な限りのチベットの人たちとダライ・ラマ法王についてお話をしました
涙を流しながら胸元のペンダントをこっそり開けて見せてくれた方もいました
わたしはいつでも著作を読んだり写真をながめたり祈ったり、そして遠くからお会いすることも叶うのに、
中国に残された多くのチベットの人たちは、どんなに望んでも叶うことはありません
120万というチベット民族が殺害されて50年以上たちましたが、
今日まで100人のチベット人が非暴力を貫き、自由を願って、無言の抗議のために自らの身を焼いて亡くなっています
ダライ・ラマの平和への戦いはずっと続いています 世界中をまわりながら彼はずっと話し続けています
チベットの問題だけではなく、日本の、世界の片隅で日々起こっている不幸な出来事や、つらい目に合っている人たちの小さな声を聞き取り
知ろうとする それを自分や家族に起こったことと同じように感じ、なぜそんなことが起こるのか、どうしたらよいのかを考える
人間はだれもなにも違わない 人を愛し人に愛されるひとりひとりなのだと知れば…
「セムジェン タムジェン ラ デ ワ ヨンガショ」
チベットの人に教えてもらった言葉で、「この世に生きるすべての生物が幸福でありますように」という意味らしいです
彼らは祈るとき、日本人が神仏に祈るときのように「仕事がうまくいきますように」とか「恋人ができますように」とか
「家族の健康を見守っていてください」などと自分や家族のことだけを祈らない
この地上に生きる人も、動物も、すべての生命が心のままに命をまっとうできますように、世界すべての幸福を祈るとき、
「私」という存在は世界の中に溶け込んで、喜びは一体となって広がっていくことを知っているのです
日本人もチベットの人たちのように無心で「セムジェン…」と祈れるようになったら、
きっと日本人の幸福度は物質の豊かさに比例するのでしょう
私は上海生まれの学友もいれば東トルキスタン生まれの学友もいます。人間ひとりひとりは互いに理解し合えるし学び合えるのに「国」単位になるともはや人間の尊厳など存在しないのだなと昨今の悲しむべき国際情勢を見て思います。
日本の場合、神道や仏教以前に縄文的アニミズムが精神的基礎となっている気がします。自然に善悪はなく、その中に神も人もいる。この国にシャーマニズムが入ってきたのはわずか二千年前のことで、もともと神々に願掛けのようなことをする考え方は無かった気がします。神社によってはそれをうまい言い回しで教えているところもありますよ(^^;
http://blogs.yahoo.co.jp/shigehide67/546779.html
命を感じて自然と心のままに沿いながら育つのならば、生きる実感とともに幸福感や道徳にもつながるでしょうけれど、
仏教や神道の思想教育(修身のような)ものもなく、身近に自然もない現代では、目に見えない不確実なものを拝むとか畏怖するとか感謝することも無意味に近く、
仏教といえばお坊さんに払うお金が高いとか、神道といえばお利益とか、一般的な認識はそんな感じだと思います。
二千年も前の日本人の精神的基盤(ってなんだろ?)は崩れつつあります。神社によっては、寺によっては、いろいろな努力もあるでしょうけれど、この時代に純粋な祈りが少ないのは事実で、これからどうしたらよいかということを考えます。
戦争も差別も確実に減ってきているし、世の中は良くなってきていると思う反面、人間の性は大昔も今も結局変わらないのかもと思ったりもします。その繰り返し。