100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL18 明治の鍬ケ崎湊(現宮古市鍬ケ崎町)其の2

2013-09-29 14:39:38 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 

鍬ケ崎湊の風景(現宮古市)其の2
「三陸汽船」

この写真は明治41年に宮古・塩釜間の三陸航路に就航した三陸汽船の4隻の木造貨客船の一つ東北丸(145t)と思われます。(但しこの写真は本写真帖に掲載されていません。参考の為に用意しました)

平成の岩手県三陸沿岸の各都市は、「国道45号」と朝ドラ『あまちゃん』で有名となった「三陸鉄道」及び「JR各線」で結ばれています (但し東日本大震災の大津波により一部区間休止中)。
しかし明治後期まではVOL2で紹介した本写真帳附属の地図のとおり、鉄道はおろか道路も整備されておらず、大量輸送には江戸時代と変わらぬ海路に頼らざるをえませんでした。明治30年に東京湾汽船が東京から進出し塩釜を経由して宮古港に至る航路を開設しましたが、独占資本の法外な高額運賃設定で、これに反発した釜石鉱山田中製鉄所を始めとする地元資本家が共同出資で明治41年に立ち上げたのが三陸汽船株式会社です。

航路開設に当たって岩手県は補助金を出し、その代り岩手県内12港、宮城県内2港へ寄港することを義務付け、第1航路を塩釜・宮古間、第2航路を宮古・久慈間として就航しました。云わば今の「三陸鉄道」に当る三陸沿岸の待望久しい動脈です。その後東京航路や北海道航路も就航し、その拠点となった鍬ケ崎港は賑わいました。

当時の定期航路は次のとおりで、本社は釜石にありましたが、航路は宮古港を中心に組み立てられていました。これは本写真帖付属の明治43年における三陸沿岸各港の下記貨物取扱データ(後日詳細を本ブログに掲載します)を見ると、既に本格稼働していた釜石鉱山田中製鉄所を抱える釜石港が移出入とも全体の半分を占めていましたが、製鉄所関連の物資(鉄鋼材:移出、石炭:移入)を除くと、宮古港が全体の4割を占め拠点性が高かった故と思います。なお東京湾汽船は明治44年に撤退し、三陸汽船に凱歌が上がりましたが後日談があります(後記余聞参照)。

時代が進み、鉄路が三陸の地に達するようになると(宮古・盛岡間の山田線開通は昭和9年/1934年、大船渡・一関間の大船渡線は昭和10年/1935年、釜石・花巻間の釜石線は昭和25年/1950年)、人も貨物もあっという間に鉄道に奪われ経営は悪化し、戦時中の昭和18年(1943年)に会社は解散してしまいました。
所属船舶は、軍に徴用されて殆どが太平洋の藻屑と消えてしまいました。

 三陸汽船の航路
≪宮古航路/毎日1便相互運行≫ 塩釜港~気仙沼港~脇ノ沢港(陸前高田)~細浦港~大船渡港(盛町)~越喜来港~小白浜港(唐丹)~釜石港~大槌港~山田港~宮古港(鍬ヶ崎)
≪久慈航路/明治44年就航≫ 宮古港~野田港~久慈港
≪気仙沼航路/≫ 塩釜港~石巻港~十五浜港(雄勝)~志津川港~気仙沼港
≪東京航路/月1便:明治45年就航≫  宮古港~小名浜港~銚子港~東京港(築地)
≪北海道航路/月2便≫ 宮古港~八戸港~函館港~室蘭港

 余聞(3)「三陸汽船の裏話」

三陸汽船の進出により、暴利を貪っていた先行の東京湾汽船との間で激しい競争が始まり、船賃は約1/3以下となり、上述のとおり明治44年(1911年)に東京湾汽船は所有船舶を三陸汽船に売却し、ついに三陸の海から撤退しました。
このことを関係県町村史で『東北の現地資本が巨大な中央資本に一矢を報いて打ち勝った』と賞賛している例があり、私も最初は明治の三陸商人なかなかやると思っていましたが、実際はそうではありませんでした。東京湾汽船は確かに船舶を三陸汽船に売却しましたが、と同時に三陸の地元商人らの株を買い取り三陸汽船の筆頭株主となり、そして設立時の取締役らは退任し、名を捨て実を取る戦略により三陸汽船は事実上東京湾汽船に乗っ取られたのが真相のようです。



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