100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL29 明治の統計集2  「下閉伊郡勢一班」 (2)  人事

2014-08-19 16:37:00 | 明治の統計集(下閉伊郡)

明治の統計集 2

(岩手県沿海四郡聯合物産共進会記念写真帳附属諸表)

「下閉伊郡勢一班」 その2  (人事/明治43年)

なぜこんなことまでもが?と今では思えるものまでもが、記載されたとても興味深い表です。

※1 「郡官吏」とは、当時の岩手県下閉伊郡の公務員を指すわけですが、奉任・判任とは何でしょうか。調べてみたら官吏は戦前の大日本帝国憲法下では天皇が直接または間接に任命し、下表のとおり親任官、勅任官、奏任官(そうにんかん)の高等官と、判任官に区分されていました。なお敬称に「閣下」を付けるのは親任官と勅任官のみで、もしドラマなどで奉任官を閣下としていたら間違いです。また兵隊は徴兵によっていたので官吏としては認められず、警察官も警部・警部補が判任で、巡査部長・巡査は判任待遇とされていたようです。

 因みに当時の「郡」は現在と異なり、府県と町村の中間に位置する行政・自治団体としての機能を付与されていました。但し行政の煩雑化を招くので大正12年に郡制は廃止されました。

※2 「愛国軍人会」とは、今では耳にすることは無い言葉ですが、明治33年の北清事変を機に創立され、戦没将士の遺族の救護等の慈善活動を行っていたようです。会員には地方の名士夫人が名を連ねていたようです。特別会員とは高額会費納入者でしょうか…。ともかく図表に掲載されるのを見るとそれなりの影響力はあったようです。

※3 「赤十字社員」 明治時代の日本赤十字社は、皇室が熱心であったこともあり、また日清・日露等戦争があったことで想像以上に活動が盛んで、社会的地位もあったことが伺えます。なお特別社員・名誉社員は一定額・期間を納めた人に与えられたそうです。

※4 「産婆(さんば)さん」現在の助産婦さんのことで、明治32年(1899年)に規則と登録制となっていますので、このように登録人数が判明します。広大な地域の割に少ない人数ですので、緊急の場合には登録者以外の助けが必要であったと思われます。

※5 「蹄鉄工」 個人的に一番気になった職種です。「馬」は明治末期において三陸のみならず日本全体でも未だに最大かつ最重要な交通・輸送手段でした。その大切な馬の蹄の保護に、江戸時代までは藁沓を被せ、明治になって蹄鉄技術が導入され、さらに戦争に馬が活躍したので蹄鉄工が重視され、明治23年(1890年)に免許規則を制定して蹄鉄工は国家資格(昭和45年廃止)となりました。それほど重要な職種なので本表にも掲載されています。

※6 「産業別従事者割合」 圧倒的に、農業・漁業の第1次産業従事者が多く75%を占めているのは分かりますが、次に商業者が10%あるのは以外でした。ところで自由業とは何を生業としていたのでしょうか?

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


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