100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL28 明治の統計集1  「下閉伊郡勢一班」 (1) 概況

2014-08-13 17:03:55 | 明治の統計集(下閉伊郡)

明治の統計集 1

(岩手県沿海四郡聯合物産共進会記念写真帳附属諸表から)

「下閉伊郡勢一班」 その1(概況)

上表は、VOL1で紹介した本写真帖(岩手県沿海四郡聯合物産共進会記念写真帳)附属諸表です。明治末期の沿岸4郡の各分野の統計資料が40頁に亘って事細かに掲載され大変興味深いものがあります。写真紹介の合い間を縫いながら、旧字体や尺貫法の表記で小さく見にくいので、現代のそれに直して少しずつご案内します。

まず手始めに、附表1頁目の「下閉伊郡勢一班」から、概況を紹介します(数値は明治43年現在)。

※1 出始めから疑問符を付けて申し訳ありませんが、この資料の各郡役所の位置を示す緯度経度は間違っています。明治新政府が採用した準拠楕円体に基づく経緯度の体系は日本測地系といい、現在の世界標準の準拠楕円体に基づく経緯度の体系「世界測地系」とは異なっています。但し、余りにも表記数値が異なり過ぎますので他にも原因があると思いますが、なぜかは全く分かりません。因みに、この表記では宮古郡役所は遠野市の山中になります。またVOL10で記述のとおり九戸郡役所の位置を間違えたのもこれが元でした。

※2 広袤(こうぼう)  正直何と読むのか分かりませんでしたが、調べると「こうぼう」と読み、「広」は東西の、「袤」は南北の長さの意で、広さ・面積のことです。また里・丁・方里の尺貫法をメートル法(赤字)に直しました。

※3 町村数は、下表のとおり幾度の合併を経て大きく変わっています。 

※4 戸数・人口は、核家族化の影響で1戸当たりの人口が大きく変化しているのが分ります。なお人口は、現在は明治末期を上回っていますが、このまま少子高齢化が進み地域の活力が減退すると、明治期より少ないことになることは確実です。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


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