100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL33 番外編 明治のバス「盛宮自動車」

2014-09-15 14:11:44 | 明治の統計集(下閉伊郡)

番外編 明治のバス「盛宮自動車」

-明治の宮古を乗合自動車が走った話-

 

 今回は「明治の写真帖」には掲載がありませんが番外編として、明治の三陸宮古で乗合自動車(今のバス)が走ったことをご紹介します。写真は、撮影年月日不明ですが、背景の建物はVOL4.で紹介した下閉伊郡物産館兼公会堂(後の宮古町役場⇒宮古市役所)です。

 時は、本写真帳帖が刊行された明治45年(1912年)のことです。前年の明治44年に宮古の実業家・政治家の菊池長右エ門氏(元宮古市長菊池長右エ門氏の祖父、衆議院議員)が、原敬らの勧めにより、閉伊街道に自動車を入れる運動を展開し、同45年6月に岩手県で初めての試運転が行われ、沿道は黒山の人だかり大変な騒ぎであったといわれています。

 明治45年8月にに同氏が発起人・代表者となり、宮古を中心に出資者を募り、資本金5万円で盛宮自動車株式会社を設立し、3万6千円を投じてイタリアフィアット社製の客車2台、トラック2台を購入して、翌大正2年(1913年)に運行を開始しました(この4台が東北最初の自動車登録)。一説には当時の日本で乗合自動車が走っていたのは東京と宮古だけとも云われていますが、確かなことは分かりません。

 さて宮古盛岡間の旅程は、明治中期までの徒歩・人力車による3日がかりから、前述VOL33の乗合馬車で12時間となり、さらにこの乗合自動車の出現で6時間と急速に短縮されましたが、悪路ゆえの受難が相次ぎました。

 原敬はその日記に「宮古盛岡間二十六里、自動車開通したるは誠に便利なれども、運転上不注意の点ありと見え、開通後これにて三回の椿事なり」と記しています。3回の椿事とは、大正3年(1914年)の転落事故(新渡戸稲造博士一行重軽傷10名)、翌4年には1名の死者が出て、更に同5年にも政友会一行が乗った車がまたも転覆して14名の重軽傷者が出た事故をいいます。さすがにこれでは「盛宮自動車に乗るのは命がけ」との声も上がるのもむべなるかなです。

 同区間は積雪により11月から4月まで運休せざるをえず、また閉伊川の洪水や度重なる事故で、厳しい経営が続き、運賃も最初は3円50銭だったものが、12円50銭さらに15円と値上げしたものの赤字は解消されず、ついに盛岡の出資者は手を引いてしまいました。しかし菊池氏ら宮古の経営陣は、原敬から鉄道開通までの運行を託されたこともあり、空気入りタイヤ(今では当たり前ですが)自動車を導入したりしながら、昭和9年(1934年)の盛岡宮古間鉄道全通まで、地域交通に力を尽くし使命を全うしました。

 なお冬季間は乗合自動車運休の為に、車両は大阪に出稼ぎに出て小荷物運搬車に姿を変えて活躍したそうです。(下がその写真、宮古のあゆみから)

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


最新の画像もっと見る

コメントを投稿