旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

北国街道紀行4 上田宿~坂木宿~戸倉宿

2012-10-13 | 北国街道紀行

「上田宿」
 北国街道を歩く第4日目、さすがに10月半ば、信州の朝はやや肌寒さを感じる。
08:00上田城跡公園をスタートする。城の北側を西進する北国街道は、城下の外れで
松本街道と追分となる。別所温泉を経るので、道標は「北向観音道」と標されている。
その後直ぐに枡形に折れて外堀の役割を果たす矢出沢川を渡る。
明治時代の富豪丸山家の邸宅は、買い取った上田城の石垣を積み直した上に建っている。
道は更に枡形に折れるが、今度は「せん加うし道」と善光寺に導く道標が北国街道を示す。

 北国街道を西進してR18上田バイパスを潜る手前に一里塚公園がある。
ここの道標に「右北國往還、左さくばみち」とある。左は農道ですよとはウイットに富む。
更に長野新幹線の高架を潜って山裾に達すると塩尻。その名の通り塩流通のターミナルだ。

高田から上ってきた日本海の塩と、利根川を遡り倉賀野から下ってきた太平洋の塩が出会う地だ。
塩の商いで潤った集落は、石垣積みの立派な家が並んでいる。

 しなの鉄道西上田駅で妙高市北国街道研究会の一行と合流する。
今日は同会の第5回北国街道散策会「街道の難所を辿る」のツアーで、地元坂城町の
坂木宿ふれあいガイドの会の田原氏が同行し解説がなされる。

 西上田をでると早速その難所が眼前に現れる。
千曲川両岸の段丘が迫り狭窄部をつくる地形、北国街道が通る右岸を塞ぐ「岩鼻の嶮」だ。
岩鼻の崖下を千曲川が洗うため、川が大水になると街道は通行不能となった。
崖の中間には通称 “六寸街道” という幅20cmに満たない迂回道が設けられたそうだが
現在は廃道となっ
ている。

岩鼻の嶮を越えると「鼠宿」。ここは松代藩の私宿で本陣・口留番所・物産会所が置かれた。
丁度岩鼻が上田領と松代領の境界にあたり、口留番所における穀物・酒・漆などに対する
取締は関所なみに厳しかった。宿場の上田寄りには会地速雄(おうぢはやお)神社があり、
万葉集防人の歌の句碑と去来の句碑がある。大岩に囲まれた本殿は見応えがある。

「坂木宿」
  岩鼻を抜けた街道は千曲川の流れとともに北に向きを変え、3km程で「坂木宿」に入る。
北国街道は南西に開けた扇状地を、まるで城下町のように5回直角に曲がって行く。
それ故、南から入って南に抜ける、曲がるたび勾配の上り下りが逆転する構造になっている。

明治期の養蚕、昭和期の精密機械で比較的豊かな坂城町は、街道時代の旧い物は
殆ど立て替えられてしまったとガイドの会の蒲原顧問は残念がる。
昭和30年代までは街道の中央に用水が流れる情緒ある町並みだったそうだ。
それでも今はふるさと歴史館になっている旧本陣表門など幾つかの町家が残っている。

 

 宿場を出る最後の直角には嘉永6年(1853年)に建立された善光寺常夜燈が残っている。
坂木宿を出ると難所「横吹八丁」岩鼻同様に左右の段丘がせり出した狭窄地形になる。
この狭窄部を吹き抜ける横なぐりの風に悩まされたことから横吹。
八丁とは河岸を歩けない分、急峻な山腹を開削した道の延長、八町=870mから付いた。
年中強風が吹きつける街道随一の難所は、前田公といえども輿を降りて歩いたと云う。
加賀藩は参勤交代行列が岩鼻・横吹八丁の難所を越えるとその旨国許に飛脚を飛ばした。

横吹を巻いて抜けると視界が開け、数キロ先の対岸に戸倉上山田温泉が見渡せる。
戸倉は2キロ離れて上下二村に分村したため、月の二十一日までを下戸倉が、
以降を上戸倉が問屋業務を務める合宿となった。
上戸倉はR18から外れ旧道の静かな佇まいの中、本陣小出家が本陣門や松の老木を残す。

「戸倉宿」
 やがて北国街道はそのままR18に上書きされて、下戸倉は旧いものは残っていない

寛政元年建立の水上布奈山神社、境内にある稲荷社の灯籠は宿の飯盛女が奉納したもの。
一対の片方には飯盛女52名の名が、今一方には雇い主14名の名が刻まれている。

本陣跡を過ぎると戸倉駅入口に唯一とも言うべき茅葺の旧家がある。
築250余年のこの建物は清酒「雲山」の坂井名醸、通称下の酒屋と言われる。
現在は直営ショップ・蕎麦処・資料館として旅行者を迎えている。
第4日目は「上田宿」から「坂木宿」を経て「戸倉宿」まで18.3km、7時間の行程となった。



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