思考の踏み込み

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前田智徳32

2014-08-28 06:14:54 | 
分散の終わりにやって来る虚無感を補うためには、より強い刺激を求めるしかない。
それには暴飲暴食とか飽食とか、ひどくなればドラッグや、歪んだ性癖や殺人、ひいては戦争にさえ辿りついてゆくものである。




古来、賢人達はそれでは世の中物騒で仕方ない、何より人間として生きる "喜び" はそんなものではないんじゃないかと、いろんなことを試してきた。

宗教における "信" や、芸術における "美" 、科学や思想哲学でもって "真" を追求する事も同じであろう。

そこには "凝縮" へと向かう方向性がある。
それは集中力といってもいい。
(正確には凝縮へと向かう力のことを集中力というのだが。)

もっと端的に言えばそれは呼吸の質を変えていくことであり、身体を統合へと向かわせるということである。

人間の創造的な行為の本質を洗い出せば、全てそこに辿り着く。
いにしえの人々が相当に呼吸法を研究していたのはその為であろう。




ところが、この凝縮へと向かう力と出会うことは普通に生きているだけだと中々難しいものだ。

何より問題なのは人間の身体の構造が、本来分散的で、単体では統一できないという根本的な矛盾を背負っているということである。

この事は「ブッダ」で詳しく書いたので簡潔に進めるが、その矛盾を解決する方法は一つしかない。
それは自己の身体の外側に、ある一点を設けてその一点との調和を生み出すという事である。

その一点に集中したとき、身体には "凝縮" へと向かう力が生まれ、本来分散的な構造にあるそれが、統合へと向かうのである。

そこで生まれる "快" を "凝縮の快" と私は呼んでいるが、これは分散の快などは問題にならない喜びを与えてくれるものである。

睡眠などはその極地である。




人が横になって寝るというのは分散的な行為であるが、真に深い眠りに入れた時、目が覚めると凝縮の感覚で満ちている。

人が何故眠るのか?

これは科学的にも今だに謎とされるが、その本質は毎日生死を繰り返すためである。

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