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思考の踏み込み

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ブッダ20

2014-05-24 00:26:50 | 
車の免許を取るとき、一応その構造も学ぶ。



しかし医者でもない限り人体の構造など頭に入っている者はいない。
なおかつ医者の知識などは、死者の解剖による物質的知識に過ぎず、生きた人間のものではない。

生きている身体には感情がくっついているし、意志もあるし、悩みも現れている。

生きた人間の身体論を構築し、認識していくというD先生の身体論はこの意味できわめて革新的といえる。



せっかくだから、その一例をもう少し挙げてみよう。

たとえばD先生のいう機能類似性と骨格類似性。

肘が強張ってなかなか緩まない者は、まず膝を緩める。
そうすると、肘が緩む。
これが機能類似性。

或いは、骨盤と後頭骨の骨格類似性。
骨盤を変えるには後頭骨から働きかける方が上手くいくというケースに用いられる。

または指の働き。
小指の線というものは、肘の内側を通って肩を通過し背中から腰と繋がっているが、ここが分断していると手首が締まらない。
手首が決まっていないと、腰が定まらない。

さらに薬指は特殊だとD先生はいう。
薬指に集注すると無駄な力や思考が抜けるという。やってみれば感覚の良い者ならすぐわかる。

こうした指の研究から、密教世界における "印相" の意味が見えてくるだろう。



手は脳の延長だという。
古代インド世界がこの印相をかなり発展させたことに我々はもっと注目すべきだろう。
それは手話の様に何らかの意味を表す形などではなくて、どちらかといえばヨガの多様なポーズの様に、身体に変化をもたらす形であるというのが本来の内容としては近いはずである。

ブッダ19

2014-05-23 00:29:58 | 
私は "天才" と呼ばれる人々をさほどに評価しない。

なぜなら、彼らはあくまでも天分に恵まれた者であって、自己の内容を分析し表現できるものがほとんどいないからだ。(彼らの成し遂げた内容そのものへの評価は別である。)



天才達は人間の可能性の無限であることを我々に提示してみせるという点で、人間社会に対して功績を果たしはするが、その一方で天分に恵まれない圧倒的大多数の者たちの意識から可能性を奪う罪も犯している、といったらいい過ぎだろうか?

人間の身体はもっと開発できるはずである。
例え五体不満足だろうと、寝たきりの体だろうと、"生きている" といういのちの力は計り知れない。

片腕の大リーガー ピート・グレイ。


呼吸を深くし、身体の微細な変化を追求してゆけばどんな状況であれ統一感に向かえるはずである。

まして健康な者がどうして、自らの可能性を狭めてしまう必要があろうか。

D先生の研究はこの問題を解決することのできる、現状では唯一のモノだと思う。

それ故にD先生の下に集う人の中には、オリンピックメダリストもいれば、古武道の研究家もいるし、著名な心理学者もいる。
だが、ほとんどの人は一般のごく普通の人達である。

D先生から何かを掴み、それぞれの人生に活かそうとする人達である。

何も悟りを開こうとか、天才になろうとかする必要などない。
"佳く" ー (この言葉をD先生は好む。よく、と読む。) 佳く生きるには身体をもっと上手に使ってあげることが、絶対条件となることは説明する必要もないことだろう。



車でさえ ー 免許を取らねば乗れないことを考えれば、我々は車などよりはるかに複雑な構造をしているこの、人体というモノを随分と雑に扱ってきたことにそろそろ気付く必要がある。


ブッダ18

2014-05-22 10:13:08 | 
まだよくおわかりになりにくいかと思うので実際に見てみよう。

例えばこの若い禅僧。



腰に意識が入りすぎて、肚に集まっていない。
胸でつかえている。

肘がかたい。
小指が呼吸していない。
重心が左に偏っていて中心が出ていない。そもそも鳩尾が緩んでいない。

こんなことはごく一部のことだが、これではこの若い僧はとても深い呼吸はできないし、恐らく雑念ばかり浮かんでは消えていることだろう。

意志の強さでそれらと闘っても無駄なことだ。

偏りを正し、集めるべき処へ気を集めずに無理をすれば、下手をすれば禅病にさえなりかねない。

古来、坐姿における呼吸法や瞑想法は様々に研究され、伝えられてきたが、多くは形式と精神主義に饒舌なだけで具体的で微細な身体論として説かれたことはない。



"悟り" に辿り着いたとされる名僧や達人は確かにいるが、それは極めて偶然性が高い。

こういう言い方は怒られるかもしれないが、長い鍛錬の末にたまたま身体バランスが統合に向かったか、もともと感覚が優れていたものか、いわゆる "天分" に恵まれた者でなければ、ブッダの提示してみせた世界観には近寄ることさえできなかったというのが実際であろう。

そろそろ我々人類はそうした段階から一つ上に上がっていかなければ、ブッダの苦労も報われまいと思うが如何。




ブッダ17

2014-05-22 10:11:52 | 
けれどもD先生は身体は自己完結することは無いと言う。いや自己完結を求めていないのだそうだ。

矛盾は矛盾のまま受け入れることで、新たに変化してくるものがある。
それを追ってゆくのだという。


だが古来東洋ではあらゆるジャンルを違えず、自己を高める修練におけるカナメとされてきた部位がある。



ー "肚" である。



D先生の身体技法の核も当然そこにある。

臍下の一点に心を鎮め、美に触れたときと同じ様な集中を高次元で導きだせれば、非構造からの "解脱" に近づくことはできないだろうか。

(D先生はその高次元に至る道のりがいかに険しいか痛感しているからこそ、安易には語らない。それよりも矛盾をそのまま受け入れるという法の方が一般向け講話の内容としては無理のない選択なのか、この点は私はまだ咀嚼できていない。)

従って当然だが、肚に関してのD先生の探求は尋常一様でない。

その一部を紹介すれば、肚だけでは弱いというものがある。肚と腰、両方が満たされてこなければ真の安定ははかれないという。

ここまでくるとやはり専門的に過ぎるのでやめるが、肚、即ち臍下のある一点と対応する場所が "天帝" とよばれる眉間だという。



そこはブッダの「白毫」という、光を放ち世界を照らすとされる処である。

仏像においては白く長い巻き毛だとされているが、明らかにこれは身体上の中心的な一点の表現だろう。

それはいろいろな呼称で古くから重要視されていたことからも伺える。

上丹田ともいわれるし、ヨガの世界観では第六チャクラに当たるし、第三の目などと言われたりもする。

大事なことはそれが下丹田と繋がっていないと身体内での統一がはかれないということであろう。

禅の伝統では、下丹田と鼻を正対させると教えられるが、これは明らかに誤伝だと藤平光一氏は語る。



ともかくも、肚に限らず身体内での中心的で統合的な役割を持つ重要な "処" というモノがいくつかある。

それらの正確な位置の見つけ方と、各部処の繋げ方とかいった技術や方法論はD先生の「内観的身体技法」という長年の研究によって初めて我々は理解することができるのである。



ブッダ16

2014-05-21 01:02:04 | 
ー 人体は非構造で分裂的だとD先生は語る。

分裂的とは、手は手で、足は足で勝手に働いていて統合的に連携していないという事のようだ。

だがそれが統一されて、構造的になる "瞬間" がある。
それはどんなときか?
D先生は言う。


ー 花を観たとき。




つまり "美" に触れたとき、分散的な身体は美という一点、即ち他者を含む関係の中で初めて一つの統合を果たす、という。

人間の生活と歴史の中で、芸術が必ずついてまわったのはなぜだったのか?

百花は誰が為に咲いているのか!


そしてその統合を果たしている状態はどんな状態かというと、これは集注している状態であろう。

そこから正しい集注の質の在り方と、そのいくつかの方法を身体技法としてD先生は説きはじめるのだが、そこまではここで記すつもりはない。
(だが少なくとも "集注" というと無駄に力む事と誤認している二流のアスリートあたりには垂涎の理論たるものである。)

ここで仮に ー ブッダの果たした高次元の統合を以上の様な考えから見てみると ー その奥の方に "悟り" という段階があるかもしれない、と予測することはできないだろうか?
(悟りというよりも、身体変化である以上、"目覚め" あるいは "覚醒" と表現する方が正しいだろう。)



問題は他者との関係で一時的に生じる統合を、いかに自己の内で成し遂げ、なおかつ持続させるのかということになるが、そこから先はD先生はまだ語っていない。

というより私はD先生の弟子ではないし、ただの一般聴講者だから耳にしていないだけかもしれない。

それと念の為だが、D先生の研究とブッダを結びつけているのも私のまったく個人的見解で、D先生は一言もブッダについてなど語っていない。

いないが、それは間違いなく繋がるものであるといって差し支えないと思う。それだけの深淵な内容を有しているからだ。