goo blog サービス終了のお知らせ 

思考の踏み込み

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ブッダ15

2014-05-20 01:08:16 | 
D先生はこう語る。


ー 人間の構造を丁寧に調べると、それは四つ足動物となんら変わらない。



遺伝子をどんなに研究したって "立つ" ためのDNAなど見つからない。

それなのに人間は立って歩いている。

構造上は四つ足のままなのに、二本足で生きている。

そこに人間の根本的な苦しみの要因があるのではないか ー 。


これは驚くべき説である。

人間は二足歩行を可能にすることによって、大脳を発達させ地上の強者となった。
誰もその二足歩行に矛盾があったなどと考える者はいなかった。

ところがD先生の言葉を借りれば、構造的なことでいうと、二足歩行は明らかな "非構造" であるということになる。

その証拠に重い病の者を、四つ足で生活させると症状が改善されることがあるのそうだ。

なぜなら "構造的" だから。

しかし ー 四つ足での生活は "人間性を喪失させる" のだという。

実際にやってみなくともこれは容易に想像できるだろう。

それ故に、何万年前かわからないが遥か昔に ー ひとたび立ち上がった人類は誰一人として四つ足に戻ろうとはしなかった、とD先生は語る。



いや、赤ん坊ですらハイハイから立ち上がって後、再びハイハイに戻りはしない。
そっちの方が構造に適っていて楽なのにである。

なぜか!?

そのことを考える前に、では二足歩行という矛盾、つまり根本苦にどう向き合えばよいのか?

如是我聞 ー 私はかくの如く聞いた。
次回でお伝えしよう。






ブッダ14

2014-05-19 01:08:25 | 
ブッダは明言している。

「一切皆苦」。





ー この世は "苦" であるという。

ブッダが一番初めに人々に説いた初転法輪という話は "苦諦" ー 苦という真実について説くことから始まっている。

インド世界について前半で触れたが、インドの気候風土について記すことを忘れていた。

インド世界がなぜ深淵な思想世界であることを持続できているのか、という謎の根底に迫ると、単純にこの気候に辿り着くのかもしれない。

最高で50度という気温にも達することがあるというほどに過酷な暑さ。

極端な乾期と雨季。

人が棲息するにはどうにも厳しい環境と言わざるを得ない。
そこで暮らすにはヨガの様な、呼吸法を主とした身体技法によって身体を鍛える以外に無かったのではないか?

その意味でヨガはインド世界ではごく自然発生しただろうと考えられるし、様々な思想、宗教はその過程で附随してきたモノだとみる方が本当かもしれない。

呼吸法による瞑想は、当然人を思索へと深く向かわせるから、インド世界がその方面で突出したのもこう考えればごく必然的なことにも思える。

ただここでインド世界のこうした特殊性の考察に戻るつもりはない。

ここで触れたいのは、インドの風土の過酷さを、どこまで想像できるかということである。

旅行で素通りした程度ではその実態はわかるまい。何事もそこで暮らしてみてはじめてわかることが多い。

ましてブッダの時代は、現代よりさらに衛生状態、医療環境、文化度、食糧生産率、、とあらゆる面で劣悪だったことは簡単に想像できる。

それはやはり ー 人生は苦である、と容認するところからスタートしなければならない程であっただろうことは想像にかたくない。



だが、人間の根本的な "苦" とはそんな環境的な問題だろうか?

温帯で穏やかな気候の、先進国としてモノに溢れた生活をしているはずの現代日本人には "苦" はないなどと誰がいったいいえるのか。

もちろん苛烈なインドの環境よりは恵まれている部分は多いであろう。
だがブッダの説く "苦" とはそんなものではない。

もっと本質的で根源的な問題であると思う ー 。



ブッダ13

2014-05-19 01:07:23 | 
ー ならばお前も何も書かなければいいではないか。
中途半端な情報の出し惜しみなどするな、という批判は甘んじて受けよう。

その理由はすでに10で述べた。
だが、それも言い訳かもしれない。
D先生の事について書きたい衝動を抑えきれなかったというのが本当のところである。

だがこうしたことは繰り返されてきた事でもある。

ブッダも文字に何も残しはしなかった。それは本当の真理は口から伝えなければ伝わらないということを識っていたからだ。
(拈華微笑の逸話はそうした底流から生まれたのだろう ー 。)



言葉と文字は同じ内容でも、必ずしも同じ働きをしない。賢い者はそのことを識っていて昔から日本でもあらゆる技芸において最高の奥義は不立文字、口伝で行われた。

神道における "言挙げせず" という教理などはその極地であり、深い叡智の顕れといえる。

孔子もこの点で同じことが解っていた。だから「論語」は "子曰く~" (孔子先生はこう語られた…) で始まる。

仏典における "如是我聞" も同じである。
「私はかくの如く聞いた…」から始まるブッダの言葉の記憶の収集、それが初期仏典の姿であった。

それはそう語った人々が、意図して文字に残さなかった証だろう。
マニ教の開祖マニは、シャカが著作を残さなかったから、正しい教えが残らず仏教はインドで衰退した、と批評したようだが、いずれが賢明だったかは歴史が証明している。

マニ。

仏教はインドではともかく世界中に広まっている。が、マニ教はこんにちほぼ消え去っている。

D先生の態度もこの系譜と同じであろう。
であるならば我々の様な普通人が、Dの曰く…と少しくらい書くことは許されてもいいのではないかと、勝手に思っているが、できる限りその態度に沿う様にありたいとも思う。

今回はその範囲内で許す限りを書いて見たいが、以上の理由で "D先生" で通させて貰う。
それに、本当に求める人はここでなくとも、D先生に辿り着くことはできるだろうと思うからでもある。

ブッダ12

2014-05-18 01:57:20 | 
ブッダは聡明な人であったと書いた。

それは単なる聖者に留まらず、当時の知識人としても優秀な頭脳を持っていたという意味である。

それはブッダが創り出した幾つかの仏教語からもよくわかる。
それまでにない概念を得た天才は自ら言葉を作らなければならない。



(ちょうどブッダの頃にはサンスクリット語やパーリ語に加え、異民族の流入によって古代インド語であるプラークリット語という俗語が成立しはじめていた。その伝播と共にインド世界は思索の語彙を増やし、自由思想や自由哲学を生む原動力となった。
仏教もそうした中の自由宗教の一つだった。)



だがそのブッダをしても、人々に伝えることは困難であると思わざるを得なかったというのが2500年前の実際であろう。

それほどに言葉などは、世界のごく一部のことしか表現できていない。
それは今日でもたいして変わっていないが、多少はブッダの頃より単語も増え、科学用語や思惟用語も造られてきた。

ようやく ー ブッダが "徒労" と感じた作業を ー 言語でなんとか表せる時代に入ってきた。
それはもちろん、D先生という天才によってようやく可能になったという段階であるが。



D先生の研究が世界で最もアカデミックだという根拠はそこに一つある。

そしてそのD先生はやはり苦悩しながら、しかし慎重にいくつかの新しい言葉を生んでいる。

それだけにこの先生は言葉に対する感覚が極めて繊細である。
だからおいそれとその研究内容を公開したり、著作物を出したりなどしない。

「文字にした瞬間に言葉は固定され、生命を失う ー 」

とはD先生の名言だろう。

D先生がそうした余りにも敬虔な態度でいる以上、私がここでその本名を公開することなどはできない。


ブッダ11

2014-05-18 01:56:34 | 
ブッダはナイランジャナー河のほとり、ピッパラの樹の下で悟りを開いた。



悟りを開いた後、7日間ブッダはそのまま動くことなくその境地を愉しんだという。
(ここからも悟りが身体的変化であることが窺える。)

さらに別の樹の下にゆき、7日間。
また別の樹で7日間。
22日目に二本目の樹 ー ニグローダの樹に戻りそこで28日間も考えたという。

仮にも悟りを開いた者が何をそんなに悩んでいたか。

それは ー この悟りを衆生に伝えるべきかどうか。

伝えても伝わるまい。ブッダの聡明な頭脳なら考えなくとも答えは見えていた。

徒労に終わるとわかり切った事を、いたずらに説いて回るは愚かなことだ。
私は一人この境地を愉しめばそれで良い… と、ブッダが思ったかどうかは分からない。

が、仏典が語るところの悟りを開いてから、49日のブッダの行動を想えば、彼が考えていたことはそれ以外にはあるまい。

ここで一人、その境地を愉しんで終わっていればブッダもインド世界における無名の聖者たちと同じに終わったかもしれない。

しかし、ブッダにはそれができなかった。
彼は伝わらなくとも、理解されなくとも、目の前で苦しむ人々を見過ごして一人解脱の境地で悦に浸るには優しすぎた。

仏典ではここでブラフマー (ヒンドゥー世界の最高神の一人) が顕れて、衆生に説く事を三度に渡って請うた、とある。

ブラフマー(梵天)。

それもあるいは事実かもしれない。

しかし、ブッダ ー シャカがインド世界が生んだ他のブッダたちと違うのはブラフマンの要請というよりも、やはりその果てしない優しさ故であるとみたい。

それは ー 慈しみあわれむ、 "慈悲" という仏教語によくあらわれている…。