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思考の踏み込み

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ブッダ25

2014-05-29 05:06:47 | 
ここで少し別の話をしてみたい。

仏教世界とも、D先生の日本の伝統的世界ともまったく関係のない所からのある発信である。



1999年から2009年にかけて、アメリカのジェフリー・ホッピーという人物が "トバイアス" という神霊から啓示を受けたという内容である。

そこでは "神の見る夢" と題して、宇宙の成り立ちと発展の仕組みが説かれるが、これが多くの原始宗教の宇宙創造神話に通じる部分があっておもしろい。

その中でブッダについて触れられている。これは「あめなるみち」という極めて優秀なサイトに掲載されている。
ご興味ある方は検索してみるといい。

このサイト制作者は天才的な語学センスを持っている。
その人物がトバイアスの言葉という原文を翻訳したモノを勝手ながら一部転用させて頂く。

トバイアスは創造神の言葉を語っていく中で、宇宙の歴史を語り人間の存在理由とその歴史的段階を語り、ブッダの登場は特筆すべきモノだったと述べる。

レンブラント作 「トビトとアンナ」
(トバイアスとは旧約聖書外典のトビト記の "Tobit" 。)




" ー ブッダは神の種を発芽させて融合を果たした人間の一人である。ブッダが菩提樹の下で悟りを得たという話が今に伝えられているが、この悟りとは、自分が神であることを根底から認識したということである。そしてこれこそが自分のエッセンスとの融合、すなわち神との融合でなのである。この融合を果たした人間を『アセンデッド・マスター』と呼んでいる。"

 アセンデッド・マスターは現在までに9,000人ほど誕生している。しかし融合にもレベルがあると言ったように、彼らの果たした融合はいずれも完全なものではない。彼らの時代では不可能だったのである。というのは融合のレベルを決定する要素には人類の集合意識が関係しているからで、人類の集合意識のレベルが上がらぬことには、融合のレベルも上がることができないのである。

アセンデッド・マスターが融合を果たした後に、地球に再転生した例はこれまで無い。しかし今後は出てくるだろう。人類の意識が大きく変わったのだから。

 ブッダたちの成功は第二宇宙を歓喜で満たした。

地球環境で神との融合が可能だということが実証されたのである… 。"

ブッダ24

2014-05-28 00:13:54 | 
そこでD先生の研究が生きてくる。

D先生は、日本という国は達人、名人のたくさん生まれる国だった ー という。

なぜかはわからないが、日本の文化伝統におけるあらゆる技芸は高度な身体技法によっているからである。



D先生の研究の中心もここにある。

そしてD先生の研究は達人名人の内容を分析し、そこに至る道筋を凡人達にも照らしてみせる。

"悟り" を目指す必要などない。
ことさらに何かの分野で名を成す必要もない。

"生きる名人" を目指せばそれでよい。

そのためには立つ、歩く、座る、こうした日常の動作を研究し追求するだけでも広大な "道" が用意されている。

そしてそれは身体の統合へと繋がっているから、さらに奥に進みたい者にはブッダのいる場所へも進める可能性まで秘めている。

"聖人君子" という概念はすでにこんにち効力を失っている。
だがD先生の提示した "名人達人" というモデルケースは現代人にとって無理のない生きる指針とはなりえないだろうか?



それは日本人でなければ参入できないものとは限らない普遍性を持っている。

お茶をやるのもいいだろう、武道でもいいし、書でもいい。日常の包丁捌きでも十分だし、子供の抱き方一つでも追求すれば難しいものだ。

条件となるのは全身を使う動作である、ということ。
といっても飛んだり跳ねたりする事ではない。全身を一つにまとめて使う身体技術を追求できる要素を内包した動作が必要だというのである。
内的な動きが可能になれば、外的には静止している正座においてさえ、身体は鍛錬できる。

モノを持つ、運ぶ。それだけでも身体感覚の追求はできる。


ヨガや座禅などがただ座って瞑想を深めるだけのモノだと勘違いしている内はブッダはますます遠く、霞がかって捉え難い ー 。

(ちなみにパソコンの達人というのはよほどでないとなかなか成立しえないだろう。目と頭と腕に負荷がかかり過ぎるから、その偏りは容易には修正できないからだ。
筋量と反射神経が幅をきかすスポーツの世界も少し難しい。D先生曰く、 "筋肉は感覚を固まらせる" 。)


D先生は言う。 ー "少しだけ" 不便な社会の方が、人間にとっては理想だ。


なぜなら全身を使って身体感覚を磨く場が与えられるから。

そして人間の身体はどんなに文明が進歩しても、身体そのものは原始の頃と何一つ変わっていない。
原始的な身体は必ずある一定量の運動を必要としている。

医療がどんなに発展しようと、時代がどんなに利便性を獲得しようと、この身体が原始的であるということを忘れていると本当の健康も、本当に豊かな生活も ー 導き出せないことになかなか気付く者は少ない。

ブッダ23

2014-05-27 00:55:08 | 
古代中国世界は "聖" と "俗" という言葉を造り分業させた。



生きるということはなかなか簡単ではない。綺麗事ばかりいっていられない。俗に染まり、自らの手を汚してようやく "生" を維持しなければならないことなどいくらでもある。

そこで聖と俗をわけ、聖を目指す者はそれに専念させる。俗にあるものは時に経済面から彼らを支援する。

聖に専念したら、生活力など霞を食って生きられる仙人でもなければ、極めて脆い。

こうしたシステムは世界各地で行われた。インド世界の思想階級を尊敬する風潮などはそのいい例だろう。

それは芸術家とパトロンの関係と似ている。

この観点からいくと聖と俗はきわめて対等な関係にあることがわかる。

ところがそれがいつのころからか、聖が俗を卑しみはじめた。
近世までの儒教世界などは肉体労働をする者は知識階級から蔑まれたほどだ。



いつしか聖などは、高みから俗を見下ろして一人悦にひたる存在として俗と隔絶し、聖を志向する者を「聖人面するな」などと揶揄し、聖に向かうことすら困難な状況が出来上がる。

ここで "ブッダ" というタイトルで書いてきたところで多くの者は、自分には関係のないことだと感じているだろう。

聖と俗のシステムはインド世界を除いてこんにち完全に破綻している。
だが、人間の魂は本来 "聖" を求めている。それは止むことがない。

ではどうしたらよいだろうか ー 。



ブッダ22

2014-05-26 00:26:57 | 
しかしそんなに大袈裟に考えることもない。

大事なことはいかに有意義に人生を送るかということだろう。



そのための指針としてもD先生の研究は有効である。

例えば子供になぜ人を殺してはいけないの?と尋ねられたら、なんとこたえるだろうか。

いろいろな理屈や倫理観を説いたところで子供の腑に落ちることはない。
(この腑に落ちる、という慣用語も身体感覚の優れた表現であることにお気づきだろうかー 。)


そうではなくて、正しい身体感覚を持っていれば、人間は人間を殺せる様にできてなどいない、ということに気づかせるだけでいい。
誰も不快な事は普通したくはないからだ。

だからまず子供の教育で一番初めに教えなければならない事は、正しい快と不快なのであるという。
倫理や道徳などは "正しい快" に従えば、自然とついてくるものだから。

従って必要に迫られない限り、人間どころか、食の対象となる動物のすら自ら行うことができる者は少ない。




なのになぜ殺人がおこるのかなどは説明するまでもないが、そこまで追い詰められた者の苦しみを想像できる者なら、人間の本来無垢な姿を知っている者ならば、殺人を犯してしまうほどに闇に追いやられた者の悲しみが見えてくるだろう。

だが中には、ごく普通の者が思想や狂信的なオカルト宗教によって人を殺めてしまうこともある。

その理由をD先生はこう語る。

ー 身体感覚を伴わない思考は "邪悪性" を生む。

おわかりだろうか。

引きこもりの男がある日突然通り魔になる。
部屋で頭ばかり働かせ、気血は上がり身体を使わない。想像しなくともまともな精神を保ち難いことはよくわかる。
その先に邪悪性が芽生えてくるのも必然だろう。

(邪悪性までゆかずとも、例えば本だけの知識や経験の無い内容についてどれだけ素晴らしい事を他者に語っても、ほとんど影響力を持たないという理由も身体感覚という一点から理解することができる。)



この意味で今日の機械文明の利便性に過ぎる傾向は危険である。ボタン一つで事足りるというのは、身体を置き去りにしているからだ。本当に進んだ文明ならばそろそろここに着目していかなければならない。


こうした感覚の狂いを修正する方法としD先生は "禁糖" が有効だと説く。

調味料も含めてあらゆる糖分を断つのである。(味醂は可だそうだ。)
それを数週間続けると正しい感覚が身に付くというが、これはかなり辛いらしい。

それはともかく、いかに正しく生きるか、そもそも何が正しいのか。
それは生き生きと生命を輝かす方向へ向いているか ー 。
そうした基準や手段までD先生の世界観には内包されている。



ブッダ21

2014-05-25 05:05:38 | 
さらにD先生の身体技法を追求していけば、例えば母音を発したとき身体の何処に響くのか、子音ではどうか。
開口音、合口音、半開口音の作用の違いはどうなるか ー 。



こうした研究から言霊学の研究も可能になってくるとおもわれる。

栄養学も身体感覚と結びつければもっと有効な学問になり得るし、閨房術さえ、身体感覚によって研究すれば人生を豊かにし、家庭を円満にする内容を本来持った重要なものであることが見えてくる。
(インドにおけるカーマスートラの研究、チベット仏教における歓喜仏の信仰などはその源泉でもあるが、ブッダの境地からは逸れたものでもある。)


そして15で途中になったままだった、なぜ誰一人二足歩行をやめなかったのか、という問題の答えもおそらくそこにある。

人間が二足歩行によって得たものは、大脳の発達などよりも、おそらく二足歩行による身体の変化にあるのではないだろうか。
(大脳新皮質の発達などはオマケみたいなものだと思う。また厳密には鳥も二足歩行しているから、人間のそれは垂直で中心の出た "立姿" と言うべきだろう。垂直であることは単純に重力もしくは引力の支配ももっとも受けにくい。)



そして四つ足に戻ることが人間性の喪失をもたらすことから逆算すれば、立姿が人間性の獲得だったことは容易に想像できる。

立姿によって得た感覚は高次元の霊的統合を促し、知性を生み、構造的であることから抜け出すことで自我が芽生え、自由という概念も生じた。
(構造的であるということは、ある意味被支配的であるともいえるから。)

その代償として、非構造としての苦を背負ったが、自我の芽生えはそんなことよりもはるかに素晴らしいことであったのだろう。
だから誰一人として、再び地を這う生活には戻らなかったのだ。

こうして考えれば、我々はまだ道半ばであることが分かる。
立姿を獲得した代償への解決をまだ果たしていない。



すでにはるか昔にブッダがその解決例を提示してくれていたにもかかわらず、その手段が誰にもわからなかった。

それがようやく解き明かされはじめている。
限られた天才達だけに独占されるものではなく、誰もが道を求めれば到達できる可能性が開示されはじめた。

D先生の行っている作業はそれほどに価値があると私は思う。
大袈裟でなく、この研究が広まれば人類全体のレベルは一段階上がるだろう。