読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

腹が立ったこと

2008-09-11 15:48:40 | 日記
「その時歴史が動いた」
 最近頭にきたことがあって、やっと忘れかけてたのに、昨夜のNHK「その時歴史が動いた」(シリーズ 日本降伏 後編帝国最大屈辱ノ日ナリ~9月2日・降伏文書調印~)を見ていたらまた思い出した。
 
 1945年8月15日、天皇の玉音放送で敗戦を宣言したものの、軍内部では一部の集団が徹底抗戦を唱え不穏な動きをする。皇族が説得に赴いてやっと収拾。政府や軍上層部の会議では、「降伏」という言葉は屈辱的だから「降服」にしようなどと枝葉末節にこだわり、だれが降伏文書にサインするかでもめて責任のなすりつけあい。東久邇宮総理大臣は記者会見で敗因の一つに「国民道徳の低下」があるとして
「この際 私は軍官民 国民全体が徹底的に反省し懺悔(ざんげ)しなければならぬと思う。全国民総懺悔することが わが国再建の第一歩であり わが国内団結の第一歩と信ずる。」

という。いわゆる「一億総懺悔」だ。ふざけんじゃねえ!
 この「一億総懺悔」論は為政者(特に天皇)の戦争責任をあいまいにし、国体を護持するために議論を封じようとする意図があった。さらに責任の所在を「みんな」というひと括りにしてしまうため、個人の戦争協力に対する責任までもうやむやにしてしまったのだという。(あー、このあたり参考になる)

 そうか、「国民道徳の低下」が最近の目を覆いたくなるような不愉快な世相の原因だ!なんて言う奴らはつまり、責任の所在をあいまいにして逃げようとしているわけか。それでわかった。



 腹の立つこと
 先日町内6校PTA合同の「教育講演会」なるものがあって、その講師がまるでそのとおりのことを言うのだ。最近の食品偽装のオンパレードは「天の目」つまり倫理道徳の価値基準がなくなってしまったために起きているのであって、学校、家庭でもう一度「物事の理」を教えなくてはならないという。要するに「道徳教育強化」論だ。後半は食育の大切さ。しかし結論部が間違っている。

 あまりのくだらなさに頭にきた。くだらないダジャレと細切れのトリビア的小ネタ。10年以上時代遅れだ。10年前なら正しかったってわけじゃないけどだまされる人はいただろう。でも今はくだらないだけでなく、自己責任論につながって有害ですらあると思う。何よりこんな死にかけたような元教育者をこの近辺にPTAが何度も呼んでいるらしいってことに絶望した。腹がたったので、講演の間中アンケート用紙にぎっしりと批判的感想を書いていて、後で提出した。

 最近また新たに発生した食品偽装問題を見てもわかるように、今起きていることは、グローバル化に伴う価格競争、経済状況の悪化で企業がもはや節約や人件費削減だけでは持ちこたえられなくなっているということだ。生きるか死ぬかというときに倫理道徳など説いても効果ない。それにそもそも、じゃあ昔は倫理道徳が徹底していたから悪どいことはやってなかったのかって言えばそれも疑問だし。ともかくいい加減すぎる。こんなことしか言えないような人が有名高校の校長を何年もやってたのか。あんな人に講師料を払うのか。もったいなさすぎ。うちの学校の校長先生の方がよっぽど現実的で具体的で進歩的なことを言う。私が今までに聞いた講演の中でもワーストの部類だ。最近のPTAはこんな講師にだまされるようになってるのか。腹がたつというのは講演そのものだけでなく、PTAがおかしいんじゃないかっていうのもあるのだ。

 5年ぶりくらいにPTAの役員になったら、委員会で全然言葉が通じなくてびっくりした。最初は言い方が短絡的すぎるのかといちいち用語の解説を交えて説明するのだがそれでも通じない。そもそも誰も一言もしゃべらないのだ。まるで「しゃべったら負け」みたいな切迫した顔をして押し黙っている。おかしい。10月に講演会を開くのでテーマと講師を決めようと討議を重ねたが埒が明かなかった。「こんな話が聞きたいとか、最近興味がある分野とか、自分が悩んでることとか、なんでもいいから言ってみて」と聞いても黙っている。「私はねメディアリテラシー教育とかネットトラブル対処法について親子で聞ける講演なんかもいいんじゃないかと思うけどだれか詳しい人いないかな」と、いくつかテーマを上げても黙っている。(「本校の生徒もネット犯罪に巻き込まれた」という報告が理事会であったのはその2ヶ月後くらいだったから全然無関係な話というわけでもないのに。)うんともすんとも言わない。まいった。私の言っていることが理解できないっていうのでもない。みんな私よか賢いし、現役の小学校の先生もいる。なのになぜ進まないかと言うと、何か喋って責任を取らされるのを恐れているようなのだ。そもそも討議して自分たちで何かを決めて自主的に実行していくという習慣があまりないらしい。前例踏襲か、上から割り当てられたことを淡々とこなしていくようなことしかできない。前例にすごくこだわる。そして、意見を言うときに小声で私の耳元で囁いたりするのだ。ちゃんとみんなに言えよ。小学生か!

 なぜ今年はこんなに違和感を感じるのか、つらつら考えた。ひとつは私自身がインターネットで多くの情報に触れ、以前だったら絶対読まなかったような本も読むようになって成長したこともあるだろう。だけど、5年経つうちにPTAを構成する人たちの側が変化してきたってことの方が大きいように思う。以前はまあ、一人や二人はわからなくても積極的に意見を言う人がいた。かなり年輩の人で、末っ子が小さいので延々PTAやってますみたいな人や、ボランティア、生協の役員、婦人会などいろんな組織で場慣れしてる人もわりといた。年々そういう貫録のある人が減ってきてるのだ。と、同時に社会のいろんな問題に対する関心が薄くなって視野が狭くなってきている。人前で意見を言うのを極端に怖がるようにもなっている。なんだ、これ?

 会議ではかばかしい議論ができないので後で個別に電話連絡をして根回しをする。その点でもおかしいのだが、以前は「あの人とは親しいから私から言っとくわ」みたいにグループがあったのだがそれがない。「伝えといて」と言っても伝わらない。仕事が忙しいってだけじゃないらしい。変だ。情報伝達の効率が悪い。

 で、やっとこの頃わかったのだ。「素粒子」ってそういうことだったのか。人が砂粒のようにバラバラでまとまりがなく、互いに孤立感を抱いている世界。うっわー!

 最近はさ、自民党の議員だって「日本は危機的状況にある。かつての経験則が通用しなくなっている。これから国をどういう方向にもっていくか、みなで真剣に考えなくてはいけない」などと言うのだ。なのに大人が(PTAが!)こんなんで、議論もできない状態じゃどうしょうもない。

「決断主義」

2008-09-09 23:52:49 | 雑誌の感想
 ほぼ4カ月ほど前、この日記を中断する直前、映画「ノーカントリー」のコイン投げのシーンが気になってずっと考えていた。そして思い出したのはウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」だった。
 ナチの軍医はソフィーに2人の子供のうち、どちらかを助けてやるから、どちらにするか選べという「選択」をさせる。「選択」をしないならばどちらもガス室送りだというのだ。そしてソフィーは選択し、一生その罪を背負って苦しむ。

 また、その頃テレビでたまたま見た「デイ・アフター・トゥモロー」という映画の1シーンが頭にこびりついて離れなくなった。前代未聞の大寒波で閉じ込められた息子たちを救出に行く途中、主人公の友人がガラスドームを踏み抜いて宙吊りになる。ガラスはミシミシと音をたて、今にも割れそうだ。主人公は必死に助けようとするがこのままでは3人とも落下して死んでしまう。なのに決してあきらめようとしないので、宙吊りになった友人が自らロープを切って落ちるのだ。アメリカ映画はずるいと思った。こんなとき主人公は決して自分から友達を見捨てたりはしないのだ。

 コインを投げて自分で自分の運命を選択させるという「ノーカントリー」の殺し屋は、否応なしの選択を強いる存在だ。説得も懇願も通じない。モスの妻が言ったように、その選択に意味もない。だけども生き延びるためには否応なしに選択することを強いる状況というものが存在するということをこの映画は言っているのだろう。たぶん・・・。私にはできないけど。

 私にはできないけど、できる、できないの問題ではなく、選択したものにだけ生き延びる可能性が残されているということを言っているのだ。

 そうして、なんだかすごく暗い気分になっていたら、朝日新聞社「一冊の本」6月号に、宇野常寛×宮台真司「怠惰な〈批評〉を乗り超える」という対談が載っていた。批評紙「PLANETS」編集長、宇野常寛が「SFマガジン」に連載している「ゼロ年代の想像力」について宮台が解説してる。宇野さんはこの連載の中で「決断主義」ということを言っているのだ。
宮台 宇野さんの主張は大きく三点にまとめられます。第一は、2001年以降、とりわけ9・11以降、小説、映画、マンガなどを中心に、文化を支える想像力のあり方が変わった、というもの。それを「〈セカイ系〉から〈決断主義〉へ」という言葉で表現されています。(中略)
 第三は、第一点と関連しますが、決断主義という思潮の中身に関わります。多数の価値観が並存し、どの価値観も優越性や普遍性を主張できない状況にあって、「僕は●●をしない」という選択の拒否、例えば「ひきこもり」という選択をすることが、望ましい生き方だ、あるいは少なくとも擁護できるというのが「セカイ系」の発想でした。ところが、それでは生き残れない、だからどの価値観を選ぶかについて、究極的には根拠がないと知りつつ〈あえて〉選び取れ。それが宇野さんのいう「決断主義」です。99年の「バトル・ロワイアル」や03年から連載が始まった「DEATH NOTE」に代表される「サバイブ感」、決断を保留したり拒否したりすれば現実に生存が危うくなるという感覚が前面に出てきているのだとします。(中略)
 宇野さんはこうした現実認識以外に表現の選択肢がありえないのだと主張されます。そこで必要なのは「よい決断主義」と「悪い決断主義」の区別で、前者をどうサポートしていくかだけが問題なのだ、とおっしゃる。
 宇野 (前略)現実は生きること自体が、究極的には無根拠であるにも関わらず特定の価値にコミットすることを意味する。つまり、誰もが決断主義者という振る舞わざるを得ないわけです。そして誰もが価値観同士が争うバトル・ロワイヤルのようなゲームから逃れられない。セカイ系にしたって「何も選択しないで引きこもる」という選択をしているにすぎないし、ニート論壇はゲームのルールに無関心なまま、自分たちにとって気持のいい不平不満を延々とたれ流しているだけ。どっちも無自覚に決断主義者になってゲームにコミットしているだけの話です。(中略)
 これに対して、僕は連中の無自覚なやり方では小泉を止められない、と主張しているわけです。小泉的動員ゲームの弊害、暴力性を取り除きたいなら、まず誰も決断主義的な動員ゲームから逃れられない現実を受け入れた上で、その運用方法を検討するしかない。それにこういう無自覚なプレーヤーは、ゲームの元締めにとってはとても都合がいい存在で、非常に御しやすい。彼ら「無自覚で愚鈍な決断主義者」たちの「安全な噴き上がり」が(彼らとしては批判しているつもりの)小泉現象を延命させたわけです。小泉にしてみればこんなに御しやすい安全な敵対勢力はないですからね。

 「ノーカントリー」を観た後だったから非常によくわかった。
宮台 ネオコンの源流の一人、ダニエル・ベルも言っていたように、抗うにせよ掉さすにせよ社会政策に関わる以上、恣意性の操縦やカウンター的操縦にコミットせざるを得ません。どのみちネオコン的であらざるを得ないんです。そこにあるのは、頭のいいネオコンと悪いネオコンの区別だけです。
 それを前提に「どうすれば私たちが殺されずにすむか」を考える。そういう意味のプラグマティズムが広がりつつあります。こうした認識は、グローバルには先端的な政治哲学者の間で常識になりつつあります。でも日本では稀。ところがそうした思想が、政治論議とは畑違いの宇野さんの文化評論において現れたことに、驚いています。

 ところで、最近移民問題に関して思うのだが、私たちには「移民を入れる、入れない」という選択肢があると思っているのは間違いだ。かなり前から、たぶん10年以上前から官僚の中に「移民の受け入れを推進しよう。ただしおおっぴらにやると世論がうるさいから移民という言葉を使わないでじわじわと入れていこう」と考えていた人たちがいるはずだ。だってさ、10年前に小学校PTAの人権学習会(半強制)で、文部省かどこかの作った「日本も国際社会に対応するために外国人労働者を受け入れましょう」という教育ビデオを見せられたおぼえがあるもの。日本では「男女共同参画」だの、「ワークライフバランス」だの、そういうのは市民の要求によって取り入れられるのではなくて、お上の方から啓蒙的な通達が降りてくるのだ。いつだって。だとしたら、「移民の受け入れ?絶対いや!」なんて言ってたってしょうがないんで、できるだけそれに適応し、またトラブルが起きないよう事前に予防するというのが賢い市民だと思うな。なんせ、私らよりはるかに賢い官僚がすでに国の方針としてひそかに定めているらしいのだから。
宇野 宮台さんは、ニート論壇がどうなれば有効に機能すると思いますか?
宮台 いくつか方向性が考えられます。一つはかつての人民戦線などにおける「連帯」概念が参考になります。「連帯」ほど日本で誤解されている概念はありません。日本では企業別組合が組合内あるいは組合間でまとまる意味にしか使われません。サンジカリズムの伝統における「連帯」とは、労働者が学生と連帯したり高齢者と連帯したりすること。すなわち立場の異なる者どうしが、目的のために共同行動することです。
 なのに日本の連合は、1999年の派遣法改悪に際して正規雇用労働者を守るとの理由で賛成し、非正規労働者を切り捨てました。疑問に思った私は、前会長の笹森清氏に質しました。「ヨーロッパでは組合員が組合員以外とつながるのが「連帯」です。連合にとって「連帯」とは何かを意味しているのですか?」と。笹森氏は「派遣法改悪は、私の在任期間中最悪の失敗でした。連帯がそういう意味だったことを最近知りました」と答えました。これが日本の労働運動なんですから、やはり公共性を欠いたものだと言わざるを得ないでしょう。
 ニート論壇も、ニートの連帯を呼びかけているプレカリアート論の段階ではどうにもなりません。自分たちと相いれない立場の人間と交通の回路を開く方向性が必要です。
 カール・シュミットの友敵理論を持ち出せば、政治動員には、共同体の外に敵を設定する―敵を設定することで友を構成する―必要があります。敵はいつも必要です。でも敵を排除してはいけない。敵と交流することで、前提としていた事実性が変わるからです。
 その意味で、一水会の元代表・鈴木邦男さんの振る舞いが参考になります。彼によれば、排除すればするほど右翼は先鋭化します。だったら、その場で暴力を振るわないと約束する限りで、どんどん話し合いの場に呼んで発言させればいい。ガス抜きにもなるし、互いのステレオタイプや思い込みも修正されやすい。そうした動態が大切だと言うんですね。
 システム理論的には、境界線が存在すること―境界設定―はいつも「仕方ない」が、境界線をたえず揺るがせることが公正や正義という観点からは「望ましい」、となります。

 ふーん、ガス抜きといえば、例の赤木智弘氏だ。最近「ロスジェネ」創刊号を読んだのだが、浅尾大輔氏が赤木氏との対談の中で「敵は正社員じゃないでしょ」と一生懸命説得していた。赤木さんはいろいろ言った後で「まあ、どっちでもいいですよ」なんて言う。要するに誰でもいいけど殴りたいほど追いつめられてるんだぞということを言いたかっただけなんだなあ。テポドン飛ばす北朝鮮と一緒じゃん。
 浅尾氏は「たかじん」のゲストに呼ばれたときも「フリーターはなまけもんだ!努力が足りん」みたいなことを平気で言う自民党の鴻池祥肇議員(「打ち首」発言の人)などに対して、淡々と実例をあげて説明し、非正規雇用の悲惨な実態を訴えて大いに評価されていた。「たかじん」では、とかくバカバカと言い合って個人攻撃になりがちで、三宅さんなんかその癖がついたのか他の番組でもときどき人の意見を遮って無作法に自己主張したりするけども、そういう人に声を張り上げて対抗してもだめなんだな。あんなふうに冷静に相手の意見を聴き、淡々と具体的に自分の意見を述べることが有効なのだとよくわかった。

宮崎駿監督「崖の上のポニョ」

2008-09-08 23:57:01 | 映画
 「崖の上のポニョ」公式サイト 
夏休みに中3の息子と見に行ったら、座席は超満員だった。しかも半分くらいは小学生以下の子たちだったので息子が「この映画って、もしかしてチビッ子向けなのか?」と居心地悪そうにしていた。いやいや、大人が見ても十分楽しめる奥の深い作品だったよ。帰ってきたら無性にハムが食べたくなったので2、3日はハムたっぷりのサンドイッチや厚切りハムのせチキンラーメンばかり食べていて、だからこの映画には日本ハムとか日清食品が協賛するべきだと思った。

 みんなポニョがかわいいというけれども、私はかわいいのと怖いのと半々くらいだった。だってポニョのせいで津波が起こって町が水没してしまったのだ。被害総額何千億円だろう。あそこがたとえば鞆だとしたら福山市内のどのあたりまで水がくるだろうか。きっとお城の北側や東側の山を除いてみんな床下浸水してしまうだろう。そんなことより、人工衛星が次々に墜落して、月が地球の引力に引かれて接近しつつあるのだ。地球存亡の危機ではないか。それを心配しておろおろしているのがポニョの父親である藤本だけだというのがおかしい。私が一番おもしろいと思ったのがこの藤本さんだ。

 この人は人間の世界に愛想を尽かして、苦労の末めでたく魔法使いになれたという興味深い経歴の持ち主だ。ポニョが「ハム~!」と言うと「何、ハム?あんな危険なものを!」と目を剥く。大丈夫、リサさんは抜かりなさそうだからきっと生協の発色剤・保存料・人工調味料無添加のハムだったと思うよ。

 彼はなんだか怪しげな「命の水」みたいなものを精製している。それがポニョのせいであふれ出てしまったら、見たこともないような太古の海中生物が泳ぐ海に変わってしまう。きっと汚染された陸上の世界に見切りをつけて海中を甦らせようとしていたのだろう。すごい技術だ。なのにポニョは「ポニョ、閉じ込めた。悪い魔法使い」と言う。ああ、子供のことを案じてやったことがまるで理解されないのだ。

 そこで私は宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」を思い出す。試写会の時に宮崎駿監督が途中でロビーに出てきて、不機嫌な顔で「見ていられない」「私は父親として見てるんですよ」とおっしゃったのをテレビの「『ゲド戦記』製作記」みたいな番組で見た記憶がある。あっ、そうか、「ゲド戦記」は「世界の均衡が崩れて」虚無がはびこり、息子が父を殺すのだ。「ポニョ」の方は子供が世界の均衡を壊してしまって、父があたふたと走りまわる話なのだ。子供のためを思って、追いかければ追いかけるほど子供は父親を憎んで逃げ回る。

 その点、母親はおおらかなもんだ。「あの子の自由にさせましょう」という。「でも、もし受け入れられなかったらポニョは泡になってしまうじゃないか」とあわてる藤本さんに「あら、私たちはもともと海の泡から生まれてきたのよ」なんて軽く言う。きっとこのグランマンマーレは、月が地球に激突して人類が滅びてしまっても「あら、私たち生き物はみんなもともとは海の泡から生まれてきたのよ。もう一度最初からやり直せばいいじゃないの」なんて言うのだろう。そう言われればそうなんだよなあ、と私はひとりで想像して納得してしまっていた。だけども、世界が水没してしまったら、私はとてもサバイバルできそうにないし、第一泳げないから最初に溺れ死ぬに違いない。

 今年は集中豪雨が多かったからなんだか映画の水没シーンをたびたび思い出してしまった。

デジャヴといえば

2008-09-07 23:59:18 | 日記
 最近、娘がまた猫を拾ってきた。真っ白で先住猫ピーの小さかった頃にそっくりだ。なぜ白ネコばかり落ちているのだろうか。これぞほんとのダブルホワイト。
 もっとも、今ではピーの方はすっかり貫禄がついて、外をほっつき歩いてばかりいるから毛色もまだらになっていて、とてもホワイトとは言い難い。困ったのはピーが新入りを敵対視して、家に入らなくなってしまったことだ。ああ、キャッピーの二の舞か・・・。餌も「キトン」に「アダルト」に「ペーハーコントロール」と買い分けて、いろいろ気を使わなくてはならない。
 夜中に猛スピードで子猫が走りまわるのとか、襖や障子がバリバリにされるのとか、パソコンの前で邪魔されるのとか、犬が猫エサを盗み食いして猫がやつれるのとか、いろいろとすでに解決済みと思っていたことがまた最初からやり直しになのでデジャヴを感じて眩暈がしてくる。


 もひとつデジャヴといえば、福田総理の辞任表明であるらしい。ニュースのキャスターがデジャブを感じると言っていた。
 だけど私は全然そうは思わない。安倍さんは安倍さん。福田さんは福田さんだ。第一みんな「辞めろ、辞めろ」と大合唱してたじゃないか。「辞めてくれてありがとう」と感謝するのが筋というものだ。9月2日の朝日新聞社会面に「また放り投げ退陣」「生活不安置き去り」と、バカでかい見出しが出ている下の方に「困った人の心に明るさ」と、小見出しがあったから「ああ、やっぱり喜んでる人、いるじゃないの」と思ったら、それは亡くなったペシャワール会の伊藤さんのことであった。
 私としては、自民党が「死に体」のまま解散総選挙に追い込まれて民主党圧勝というのが理想的なパターンだと思っていたから福田総理にはできるだけ延命してほしかった。麻生さん→ポピュリズム的人気→自民党持ち直しというパターンが一番いけない。だけども民主党圧勝→スキャンダル噴出、政策の失敗、海外の信用低下、株価低迷→「やっぱり自民党しかないのか」みたいな最悪のパターンも十分ありうるので何がよいのか悪いのかいま一つわからない。きっと映画の「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」みたいに「塞翁が馬」なのだろう。

 公明党の「定額減税」については、
 「過去の地域振興券ってやつを提案したのも公明党じゃありませんでしたっけ。あれって景気対策に効果ありましたっけ?私の周囲の主婦たちは『くれるというならもらっておくけども、みみっちいったらありゃしない』とたいへん馬鹿にしていました。世紀の愚策って言った人もいたんじゃありませんか?私はあのとき、『こんな愚策を提案したのは公明党だったってちゃんと記憶しておこう。二度としないように』と思ったのです。」
と言いたい。これこそがデジャヴじゃないか!
 まあ、くれるというものならもらっておくけども、そのぶん政府と政治家というものへの不信感が増すだけで、使ったりしない。今個人ができることは「住宅ローンの圧縮」「家計の固定費を減らすこと」「食品の値上がり分を節約によってカバーすること」「旅行をしない。できるだけ車に乗らない。遠出しないこと」だ。だから減税してくれても貯金するか住宅ローンの繰り上げ返済に回す。(ローン圧縮のために借り換えた金融機関が、今年から1万円単位、手数料無料で何度でも繰り上げ返済ができるようになったのだ。)
 公明党の支持者は、そんなことも考えられないようなバカばっかりなのか!あくまで減税を主張するならちゃんと後で効果を検証しろよ。そして、失敗したときには責任を取れよ!

 いろいろ考えてもわからないことばかりで、「きっと、もうあれもこれもできるという状況じゃなくなったんだろうな」と思う。たとえばうちの家だったら、今一番大事なのは子供の学費を確保しておくことで、そのために貯蓄していくとしたら車の買い替えや旅行や造園や家電製品の買い替えは控えなくてはならなくなる。10年前の試算ではあれもこれもできたはずなのだけど少し計算が狂ってきたのだ。きっと国の財政も、あれもこれもと欲張ってできる状況ではないんだろう。だったら何を一番優先し、何を後回しにするのか、優先順位をつけて「このままでは日本の将来はこうなる。だからこのような方向に戦略を変えなくてはいけない。そのために今これをしなくてはならない。」と国民にはっきりと説明してほしい。政治家は。選挙を控えてうやむやにするのではなくて、「歳入の確保のため、消費税を上げます。しかし、生活に困窮するような人たちのためにこのような対策をとります。」と、一度ちゃんと説明してみればいい。それでヒステリックに「消費税反対!」とかつての社会党みたいなことを言う人はバカなのでほうっておけばいいと思う。

押井守監督 「スカイ・クロラ」

2008-09-06 23:04:42 | 映画
 最近、何を考えていたときだったか忘れてしまったけど、「戦争をしたい人は、そういう人同士でどこか空の彼方とか砂漠のど真ん中とかで殺し合いをしてほしい。もお、一般人の頭の上に爆弾を落としたり、女子供を殺したりするのはやめてくれよ。」と思っていたら、「スカイ・クロラ」はまさにそのようなシチュエーションの映画であった。

 公式サイトの予告編で語られているけれども、戦うのは「キルドレ」という「永遠の子供」たちだ。彼らは美しい。感情や欲望をあらわにすることはほとんどなく、性格は純粋で、思考は単純明快即物的。ただ「飛びたい」がために飛ぶのだ。いつか戦闘機が撃墜されて自分が死ぬことを知っているが、それを恐れたり悲しんだりはしない。殺し合いをするという実感もなく飛んで撃ち合う。映画の冒頭に空のシーンがたっぷりと出てくる。すい込まれそうに澄んでいて、雲が流れる様子がとても美しい。彼らは地上では生きられない。大人の世界ではとても適応できないだろう。だから飛ぶ。飛ぶために生きている。飛べなくなったらとても生きていけない。

 最初は「思春期の姿のまま永遠に生き続けるだなんて、うらやましいことだ」と思った。だけど実際はとんでもないことだった。戦争を請け負っている二大企業は、戦闘技術を受け継がせるために戦死したパイロットを何度でもよみがえらせるらしい。どうやってかわからないが、クローンとか電脳情報のダビングとか、そんな高度な技術があるのだろう。名前と顔形は違っているのに受け継がれる癖やときどき起きるデジャヴ。薄々みんな気づいている。なによ、これって地獄じゃない!
 何度も何度も戦って死に、何度も何度も始める。

 沈着冷静な草薙水素(スイト)が上司に食ってかかるシーンがある。本部がわざと敵機襲来警報を遅らせ、こちらに被害を出させようとしたときだ。エースパイロットである函南優一が赴任してきたため戦況に偏りが生じ、ゲームとしておもしろくないのでそんなことをしたらしい。パイロットはただのゲームの駒か。「かけがえのない命」とか「平和の大切さ」とか、そんな言葉は大人の世界ではただの欺瞞にすぎない。水素はこう言う。
 「戦争はどんな時代でも完全に消滅したことはない。それは、人間にとって、その現実味がいつでも重要だったから。同じ時代に、今もどこかで誰かが戦っている、という現実感が、人間社会のシステムには不可欠な要素だから。そして、それは絶対に嘘では作れない。戦争がどんなものなのか、歴史の教科書に載っている昔話だけでは不十分なのよ。本当に死んでいく人間がいて、それが報道されて、その悲惨さを見せつけなければ、平和を維持していけない、平和の意味さえ認識できなくなる。・・・・・空の上で殺し合いをしなければ生きていることを実感できない私たちのようにね」

 (この台詞を引用したいがためにパンフレットを買った。)
 いかにも押井監督らしいセリフだと思う。実際、原作にはこんなセリフは載ってない。原作のシリーズ前半は草薙水素の物語で、エースパイロットとして飛んでいた頃の彼女の心象風景がよくわかるのだが、その透明感のある純粋さに圧倒される。空に溶け込むような硬質の美しさだ。だけどうらやましいと思うと同時に、「こんなじゃあ絶対、一般人と一緒に社会で生きていくことはできないだろうなあ」とも思った。適当に嘘を言ったり、人の機嫌を取ったり、愛想笑いをしたり、偉い人にヘコヘコしたり、それって人間関係をうまくやっていくために仕方がないんだよ。一々あなたみたいに「腐っている」とか「ドロドロだ」とかって嫌悪感を覚えていたら生きていけないんだって。まあ、そういうことができないから「永遠の子供」なんだけどもね。

 これってだれかに似てるなあと考えていたら、やっと辿り着いた5冊目の「スカイ・クロラ」の各章に、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」の引用があって思い出した。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だ。なるほど押井監督好みだ。草薙水素って名前だって、ユーイチの前任者ジンロウの名前だって、押井作品にちなんでいるじゃないか。きっとこの作品は原作の森博嗣から押井監督へのひそかなラブ・コールだったに違いない。
 だけども映画の映像は、驚くほど細部まで作り込んであって、こんなリアリティーのある映像は押井監督くらいしかできなかっただろうとも思う。
(原作は映画みたいにすっきりしてなくて謎が謎をよんで終わっちゃうんで、ぜひ次の「スカイ・イクリプス」を買わなくっちゃ。)

 原作と映画とのもうひとつの違いは最後のシーンだ。水素はユーイチを殺さず、ユーイチはこう言い残して、無敵のパイロット(ティーチャー=大人)に戦いを挑んで行く。
 
 「それでも・・・・昨日と今日は違う。今日と明日もきっと違うだろう。いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつも通る道だからって景色は同じじゃない。」
 
これが押井監督からのメッセージだ。
 映画を見ながら私は、キルドレのように何度も生き返って同じような生を繰り返すなんて無間地獄のようだと思ったけど、考えてみれば人間はみんな何度も生まれ変わって同じような生を繰り返しているのではないかとも思った。(島田雅彦「徒然王子」の影響?)だったら何も彼らだけが悲惨なのではなく、人間はみんな悲惨なのだ。あのパイのお店の前に腰かけて毎日毎日何かを待っている老人のように。だからこれは現代の「生きている実感のない」若者たちだけじゃなくて、生きることに疲れたすべての人へのメッセージなのだと思う。

 そうなのかもしれないなあと思った。エンディングの後にふろくがついている。ユーイチの後に新しく赴任してきたパイロットが水素に挨拶をするシーンだ。空は青く空気は澄んで緑は美しい。その美しさは胸に沁み入るようだ。人生はそんなに悪くないかもしれないと思えてきた。

 そして、2日ばかりたって、北京オリンピックの開会式当日、ロシアがグルジアに侵攻したというニュースが入ってきてがっくりきた。デジャヴ・・・・。ライス国務長官の批難声明もなんだかデジャヴであった。
 やっぱり無限地獄かもしれない。