読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

新藤兼人監督「花は散れども」

2008-09-30 17:17:08 | 映画
 95歳の監督が昔を懐かしんで作った映画。「花は散れども」、あーあ。 
 新藤監督が2、3年前に日経新聞「私の履歴書」に回顧録を書いていらっしゃったときには、ひょっとしてもうすぐお亡くなりになるのではないかと思ったものだ。「私の履歴書」を書いてすぐに亡くなる著名人が結構多いからだ。極貧の中病没した母を懐かしみ、恩師を懐かしみ、結核で夭逝した最初の奥さんを懐かしみ、そして自分に人生を捧げてくれた乙羽信子を懐かしんで、最後は「最近はお母さんのことをよく思い出す。お母さんに会いたい。」などとめそめそと書いていらっしゃったので私はあきれた。まあ、未だお元気のようなのでめでたいことだ。

 思い出したのは黒澤明監督の晩年の作品「まあだだよ」。これは内田百と教え子たちの心温まるエピソードを描いた映画だが、「随筆で読むならともかく、映画にしちゃいかんよ」と私は思った。百はドイツ語教師時代のことも少しは書いているけども、とてもよい先生とは思えない。海軍だか陸軍だかの士官学校で椅子に座って生徒に教科書を読ませているうちに眠ってしまって、はっと気付くと、生徒たちが自分を見つめたままシーンと静まり返っていることがよくあって、『いったいどれだけの時間が空白だったのだろう、ここの生徒たちは礼儀正しいから声をかけたりはしないのだ』などと書いている。さらに法政大学の教授時代には毎夜学生たちと飲んだくれて高歌放吟、近所の墓地から卒塔婆を引っこ抜いてきたりとむちゃくちゃなことをしていて、今だったらきっと「あきれた大学教授!」と週刊誌が書き立てるに違いない。それでも教え子たちが慕って集まり、宴会を開いたり、何事かあれば馳せ参じてきて、先生を助けるために奔走したのだ。これは人徳ってばかりじゃない。そういう時代だったんだ。

 「花は散れども」でもそう思った。あれはまあ、いい先生だったかもしれないけど常識の範囲内だ。修学旅行で映画のロケ現場で大暴れしたりすれば、ふつうは懲戒処分でしょ。昔はスルーだ。普通の先生でも戦前だったら「いい先生」で、「たてまえ」が「たてまえ」として通用し、言葉には一字千金の重みがあり、やさしい女の先生だったらみんな「二十四の瞳」になってしまうのだ。実際はほとんど何もしていない。実家が没落した主人公が中学に入れるようはからってくれるわけでもないし、縁談を世話してくれるわけでもないし、戦争を経て不幸になった教え子たちを助けてくれるわけでもない。それでも「いい先生」なんだ。そういう時代なのだ。みんな貧乏で、そこでしか生きていけない。先生だって共働きのくせにずっと下宿住まいで、小さな家を持てたのはやっと退職してから。それも実家から田んぼ一枚相続し、それを売ったお金で買ったのだ。そこでしか生きていけないし、他に比較の対象もないから先生の言葉は絶対で、それを信じるしかないのだ。個人の能力とかほぼ関係なく、普通の人なら誰でも先生になれば(容易になれる)「いい先生」として生徒の人生に足跡を残せる時代だったのだ。

 それを「昔はよかった」みたいな脈絡で今の教師に要求するのは的外れだ。時代が違う。情報量が違う。社会の複雑さが違う。それを「昔のように」戻したいなら、北朝鮮のように鎖国をすればいい。出国を禁止して。

 だから、まあこの手の映画は老監督の回顧録として記録的な価値はあるかもしれないけど、それだけのものだ。「今の教育に対してどうこう」なんていう批評は的外れだ。


 ところで、私の父は師範学校を出て中学の教師を定年まで勤めた人だ。私は小さかった頃、父は体育の先生だとばかり思っていた。なぜなら父の学校に連れて行ってもらって運動場で遊んでいたら、生徒たちがわーっと出てきて「体育の先生の子供だ」と言ったからだ。
 ところが、小学校に上がって念のために確認してみると、「今は国語を教えている」という。それでずっと国語の教師だとばかり思っていたら、高校の同級生で父の教え子という人が「社会の先生だった」と言う。混乱して確認してみると「もともとは社会科の免許しか持ってなかった」って言うのだ。「国語の免許は取ったかどうか覚えていない」らしい。
 数年前、近所のトレーニングジムでエアロバイクを漕ぎながら隣の年配の人と話をしていたら、なんとその人も父の教え子だということが判明したが「美術の先生だった」と言う。あんまり解せないので実家に帰った折に確認してみたら、「そういえば一年だけ美術を教えたことがある。その時の生徒だろう」と言う。「どうしても教員の都合がつかなくて、校長に頼まれていやいや音楽を教えたこともあった」そうだ。「ピアノなんか弾けないのに、どうしたの?」と聞くと「ピアノのうまい生徒に弾かせたり、指揮をさせて歌って、あとはレコード鑑賞をしていた」ということだ。それでも授業が成り立っていて、昔の教え子はみんな「いい先生だった」と言っているらしい。ちなみに教科の無免がなくても教えなきゃいけないみたいなのは僻地にはよくあることで、私の大学時代の同級生は赴任するなり「国語と体育と家庭科を持たされている」と言っていた。その人は病気になってまもなく辞めた。「無免許許教員が教えなくてもよいように教員配置を増やしてくれ」というのは日教組が何年も要求して実現したことだったはずだ。

 私の父なんかは、学校を出るなり瀬戸内海の小島の中学に赴任し、そこで毎日授業が終わると生徒に舟を出させて暗くなるまで釣りをし、保護者が野菜を持って来てくれるので宿直室で魚をさばいて鍋にし、連日近所の人と酒盛りをしていたらしい。「天国だった」と言っているが、今だったら懲戒免職だろう。父は偏屈でおこりっぽくて今ならさしずめ「暴力教師」だ。なのに昔の教え子は懐かしんで家を訪ねてくる。昔は非行もない、学級崩壊もない、偏差値もない。生徒と釣りをして遊んでいても「教育」になったのだ。

 父の教師人生が暗転したのは、市の中心部の大きな中学に転勤してからだ。当時は校内暴力が吹き荒れていた。「たてまえ」が通用しなくなっていた。これは別に日教組のせいじゃないだろ。毎日夜の12時近くに帰宅して、暗ーい顔でご飯を食べ、寝ている間も大声で寝言を言ったり、がばっと起き上がって「おお、あれをしとかんといかん」と言ってまたパタッと倒れて寝たりしていた。警察からしょっちゅう「生徒を補導した」という類の電話がかかるので夜中でも出て行くし、家族よりも警察とのコミュニケーションの方が緊密であった。

 おととしだったか、実家に帰ると父が藤原正彦「国家の品格」を読んでいて「これはいい本だ。」というので「バカいうんじゃねえ!」と私は怒った。典型的な質の悪いナショナリズムの本じゃないか。みのもんたの「朝ズバ!」で中山元国交大臣が薩摩藩の「郷中教育」について言及していた。ふーん、そういうのを理想とするなら、自民党政権が代々やってきた農村社会の破壊をもとどおり修復して、階級制を復活し、国を鎖国して情報遮断するんですね。