読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

「論座」10月号から

2008-09-20 12:14:38 | 雑誌の感想
昨日のつづき

 このブログサービスはカテゴリー毎の表示が可能なので、昨夜「本の感想」の過去記事をさらっと読み返してたら、どうも昨日の「論壇誌や文芸誌で吹き上がっている、時代に取り残された中間管理職知識人」ってのがどういう方面の人を指すのかわかった気がしてきた。やっぱり読んだものをメモっておくって役に立つなあ。この記事(田口ランディ「生きる意味を教えてください」)と、次のページ。あと(太田光・中沢新一「憲法九条を世界遺産に」)の憲法談義関係だ。右は「新しい教科書をつくる会」とかその周辺で、左は憲法9条死守の昔風知識人ってことか。私は
憲法改正を実現するには左翼平和運動家の前にまず「日米同盟堅持」の保守と対決して倒さないといけない。そのための政権交代。
と書いたが、宮台はブログで、まず9条死守の左翼の方を倒さないといけないと書いていた。
 そーかー、私はまっ先に倒されてしまう側かー、と思った。そーだろーなー、私なんか、朝日が当たって体温が上昇してくるまでぼーっと岩場に座ってるガラパゴスのイグアナなんか見ると非常に親近感をおぼえるもんな。しょーがないな。朝日新聞にさえバカにされてるし。

 で、この方面のことだとすると、「決断主義」っていうのはつまり、「憲法問題を曖昧なままにしておくことはもはや許されないので、改正という方向でいろんな状況をシミュレーションして議論する」ってことか?

「論座」

 「論座10月号」に柄谷行人×山口二郎×中島岳志の座談会
理念、社会、共同体 現状に切り込むための「足場」を再構築せよ
が載っていた。
 
 ここで柄谷氏は「憲法9条にはカントの思想が生きている」と言っている。
柄谷 カントは1795年に国際連邦を構想しました。よく世界連邦は設計主義だと言われますが、カントの考えでは、世界連邦は、統整的理念としての「世界共和国」に近づくための第一歩にすぎないのです。彼の考えは、まずヘーゲルによって嘲笑されました。実際に強国が存在しないと、国際連邦など機能しない、と。イラク戦争の際、アメリカのイデオローグは、カント的理想主義を古いと嘲笑しましたけど、彼らは古いヘーゲルのまねをしていることに気づかなかったのです。しかし、カントの理念は滅びなかった。強国がヘゲモニーを争った第一次大戦の廃墟の上に、国際連盟ができたのです。さらに、第二次大戦後に国連ができた。日本の憲法9条もその一環です。これを否定しても、結局はカントの理念が徐々に実現されるだろうと、僕は思いますね。

柄谷 僕は別に国益ということから発想しているわけじゃありませんが、憲法9条を掲げていくのは、国益にかなうと思います。憲法9条でやっている限り、将来的にまちがいはない。たとえば、日本は国連の常任理事国に、憲法9条を掲げて立候補すればいいんですよ。それなら、圧倒的に支持が集まると思います。
中島 僕は保守に向かって「今は間違いなく、9条を保守すべきだ」と言っています。なぜならいま9条を変えると、日本の主権を失うことに近づくからです。これだけ強力な日米安保体制の下でアメリカの要求を拒否できるような主権の論理は、今や9条しかないと言ってもいい。アメリカへの全面的な追従を余儀なくされる9条改正は、保守本来の道から最も逸れると思います。
山口 9条を巡る議論は、先ほど話が出た政治の官僚化の、いちばん極端な現象なんでしょうね。100年、200年というスパンで見れば、軍事力が有効性を失っていることは明らかですから、思想的な文書としては9条は絶対に正しいし、歴史の方向はこちらに向かっているんだという自信を持てばいい。ただ、日本の政治の議論としては、現実的な安全保障の政策を言わないと信用されないという変な磁場というか、呪縛みたいなものがあるわけです。しかし、9条を守れと言っている政党が政権を取ったからといって、即自衛隊解体、即安保解消なんてできないことはわかっているい。内田樹さんじゃありませんが、そこは矛盾があってもいいんです。進むべき趨勢として9条を認識するかどうかだと思います。

 「憲法9条を世界遺産に」みたいじゃないか。

例の赤木さんの件
山口 「論座」に掲載された上の世代からの応答なんて全く読むに値しない、ピント外れな反応ばかりです。このような寄る辺ない、希望のない若者をつくりだしたことに対する自分たちの責任という意識が皆無だったのが驚きでした。
 「闘えばいい」なんて全くナンセンスな反応もありましたが、アトム化された個人ではどうしようもないんですよ。それに手を差し伸べて、ある種取り込むというか、あるいは居場所なり拠点なりを与えるのが、先ほど言っているような中間団体です。高度成長期の頃までは、たとえば創価学会のようなところがアイデンティティーの役割を果たしてきた。しかし80年代後半から90年代以降は、セーフティーネットとしての中間団体がなくなってしまった。そのことに対してすごく無防備でしたよね。それは政治学の怠慢だと思います。
 だから、現代の日本でここまで貧困問題が起こっている、あるいは実存的な危機状況にさらされているという問題提起を若い世代がしてくれたんだったら、それをきちっと受け止めなきゃいけない。落ちぶれたりといえどもある程度力を持っている中間団体が、少し外縁を広げるというか、メンバーシップの壁を崩していけばいいんです。たとえば解放同盟が人権擁護全般に関する「よろずカウンセリング」を引き受けるとか、労働組合が不利な状況で働いている人間を支えるとか。少し枠を広げるだけである種のセーフティーネットにはなれるでしょう。

 「アトム化」とか共同体の崩壊とか、みんなおんなじことを言う。私も2、3年前までは地域や田舎の親戚との人間関係がとても煩わしくて、なくなってしまえばいいと思っていたけども、内田樹氏がよく書いているように、実はそういう繋がりは「セーフティーネット」の一種で、今後は、そういったものをいかにたくさん持っているかということが個人の含み資産になってくるのかもしれないと思った。。そう考えたら、最近は親戚の葬式や法事や結婚式や開店祝いや盆や正月や出産や入院や老母の迷子や何かでいちいち右往左往するのもあまり苦にならなくなってきた。(いやまあ、親戚多すぎるんじゃないかと思うこともあるけど)

「アトム化」
山口 近代主義というのは、所与なり自然を拒絶して、作為で社会関係を構築していくという、丸山眞男以来のモデルがあります。土着的なものや共同体は息苦しい。そこから解放されて自由になるんだという発想で政治的にも近代化を求めていた。人間が個人として自立して権利の主体になって・・・・・ということをずっと追いかけてきたわけですが、どこかで足元を掬われてしまいました。
 作為によっていろんな関係を構築し直せばいいんだと、高度成長期以降は地方交付税と公共事業で人為的に共同体を支えてきたという側面があるわけですが、それをどんどん減らしていく。それを改革だとみんな勘違いしていたわけです。
 その結果出てきたのは、本当にアトム化された個人であって、政治学における近代主義者が考えたような、自立した権利の主体でも何でもない。本当に不安定で方向性のないアトムで、カリスマ的なリーダーが出てきてテレビで煽ると、砂鉄が磁石にくっつくようにワッーと動いていく。そういう政治の動きが90年代以降始まりました。私自身も、個人主義というか、個人を基盤とした民主政治というモデルをずっと追いかけてきましたから、この数年間、自分がやってきたことはいったい何だったのかという壁にぶつかった感じがありましたね。
 逆にいうと私も、中島さんの影響なのか、保守化した部分がかなりあるんです。(笑い)。政治参加の単位としてコミュニティーや社会がないと、これは危なっかしいなということはすごく感じています。

 じゃあ、個人がどういう形で政治参加していく社会を目指すべきか。冒頭の論文
「砂のように孤立化していく個人をどう救うか デモクラシーと集団を考える」川出良枝 東京大学教授(政治思想史)
ではデモクラシーを「多元主義」と「共和主義」という二つのタイプで説明している。

 「多元主義」モデル ― 地域のコミュニティーや各種の集団(利益集団、宗教団体、エスニック・グループから趣味のクラブまで)の活動が活発で、そのような社会的ネットワークに参加することで公民権運動のような市民からの政治的な働きかけをしていくタイプのアメリカ型デモクラシーと「共和主義」モデル ― 個人が民族・宗教を超えて、中間集団を介することなく直接国家と結びつき、公共利益を追及していくというタイプのフランス型デモクラシーがあるのだが、「スカーフ事件」の大論争によってその難しさがあらわになったように、グローバル化の進む今日ではもはや、自由で平等な個人が出自にとらわれず、理性的にデモクラシーに参加するという前提の共和主義は困難であるとして、
多元主義モデルを基礎とし、市民社会のさらなる活性化をめざしつつも、諸集団をゆるやかに統合する外枠として共和国が遠景のように控えている、そのようなあり方が、これからのデモクラシーのモデルとなっていくのではないか。

という。また日本については
 日本においては、長い間、個人が集団に埋没するような形での集団主義が横行したことは事実である。そのため、集団のしがらみからの解放は、しばしば、無前提に歓迎される傾向がある。しかし、個人と集団は、必ずしも常に「あれか、これか」の関係に立つわけではない。アメリカの例が示すように、個人がその利益と権利を追及するために積極的に社会的ネットワークを形成し、それを武器として活用するという方向性も十分あり得る。もともと十分に恵まれた強い個人がさらに数の力を頼んでますます強い自己主張を展開するというのは、なるほど、いささかげんなりさせられる光景ではなり。しかし、既存の社会的紐帯がただほどけていくだけで、その後には、かつて集団に守られて自ら判断することを停止していた弱い個人が、仲間づくり、ネットワーク作りのスキルをもつこともなく、ただ砂のように孤立していくという状況が今の日本にみられるとしたら、それは、デモクラシーにとって著しく危険な状況である。デモクラシーにとって集団は敵ではないという命題を正確に、また、真剣に考えるべきなのは、まさに現代の日本においてであると言えよう。
「アメリカの例」ってのはボストン、ダドリー地区のコミュニティー再生運動「私たちの街にゴミを捨てるな」運動みたいなの。

あー、疲れた。たった4,50ページ読んだだけなのに疲れた。しかも、目新しいことじゃない気がする。

 「中吊り倶楽部」宮崎哲弥&川端幹人の週刊誌時評は「週刊朝日」に移るかもしれないそうなのでとりあえずよかった。年内に連載をまとめた本が洋泉社から出るそうなのでぜひ買おう。