読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

追加

2008-09-21 23:41:25 | Weblog
 ウィキペディアで「レイテ島の戦い」から次々とリンクを辿って読んでいったのだけど、これはひどいね。レイテ島だってそもそもは軍上層部が「戦況優位」と勘違いして、ここで一気に決戦に打って出ようと戦力を集中したことで大惨事を招いたわけだ。
 その勘違いというのは、台湾沖で米軍の航空母艦他多数の戦艦を撃沈したという誤った戦果報告による。(台湾沖航空戦)番組では台湾沖海戦に出撃した航空兵は訓練期間が半年程度の未熟な者が多く、戦果を見誤ったのではないかと言っていたが、どうだかわかったものじゃない。誤った情報に基づく大勝利を大本営発表してしまうのだ。
アメリカ軍は戦果を赫赫と伝える日本の放送を傍受し、第3艦隊はニミッツが中継した通信傍受情報を受け取り、虚報を信じ込んでいる事を把握していた。そのため、被害を受け、味方の魚雷で処分されてもおかしくなかった2隻の巡洋艦の曳航を命じ、これを囮として、追撃をかけてくるであろう日本軍に更なる打撃を与える準備をしていた。実際、志摩中将率いる第五艦隊が遭難中の日本海軍操縦士の救助及び残敵掃蕩のために派遣されることが決まっていた。しかしこの掃蕩方針も、14日にはアメリカ側に漏れていた。

ああ、なさけない。レイテ沖に結集しつつあるアメリカ艦隊はこの台湾沖の残党であるから大したことはないだろうと楽観視して、ほんの数日でけりがつくものと思って決戦を決めたそうだ。(作戦を決めた寺内寿一元帥
 「レイテ島の戦い」の日本軍の指揮系統・・・
はじめの一文に、第14方面軍司令官は全比島の防衛に任じると書かれてあるが、実際は違っていた。それは日本軍の指揮系統の統一が図られていなかったからである。陸軍と海軍とが完全に独立していたことはいうまでもなく、同じ陸軍内でも第14方面軍の上部機関である南方軍がマニラにあり、方面軍司令官は、第 4航空軍司令官、第3船舶司令官と同じ立場にあって、南方軍総司令官寺内寿一元帥の隷下にあった。つまり、第14方面軍司令官はフィリピン全島の防衛という任務にもかかわらず、フィリピンに所在する同じ陸軍航空や船舶部隊すらも指揮できなかったのである。作戦考案一つにとっても、海軍司令長官、航空軍司令官、船舶司令官と協議して、その賛同を求め、そのあとで上司の寺内元帥の許可を得なければならなかった。

ひどい・・・
日本側は増援作戦を続けていた。12月までに合計5万名に及ぶ兵力をレイテ島に運んだが、その大半が輸送途中に敵襲を受け、海没する船舶が相次いだ。例えば第1師団の次に送られた第26師団主力は、11月9日に無事オルモックに入港したものの、上陸用の大発動艇の不足からほぼ兵員のみの上陸となり、さらに後続の補給物資船団は到着前に次々と沈められた。


そしてレイテとおなじく飢餓戦といわれたガダルカナル島の戦い
日本軍の暗号が筒抜けだった理由 海軍乙事件。この時の海軍中将は、戦後こういうところの理事をやってたんだって。作戦書を奪われ、暗号を解読されたために「絶対国防圏」(サイパン島など)を占領され、そこが本土への爆撃基地となったのだ。靖国っていうのはそういうのをみんな覆い隠して美化してしまうんじゃないか?

 
 どれもこれもひどすぎる。どうしてこうひどいのか、軍事オタクの人はぜひ分析してくれ。最近の年金問題や厚生省農水省の有様を見るに、この「無責任体質」は戦後の日本にも引き継がれてるなあと思う。
 で、無責任体質といえば丸山眞男の「無責任の体系」ということばを思い出すが、丸山眞男の経歴を読んでみたら、たいへんな目にあっていたようだ。
1944年、30歳の時に、東京帝国大学法学部助教授でありながら、大日本帝国陸軍二等兵として教育召集を受けた。大学の現職教授・助教授が徴兵されることは珍しく、二等兵の例は他にない。思想犯としての逮捕歴を警戒した、一種の懲罰召集であった。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年3月に再召集を受け、広島の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年8月15日に敗戦を迎え、9月に復員した。

 こういう人を殴りたくなるのは人でなしだ。ああ、今の日本は、人でなしを大量に生み出す社会だって言いたいわけね。

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