読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

福原麟太郎と「奥の細道」

2007-11-22 23:28:57 | 日記
 大学の頃、女子高の国語教師になった先輩のアパートに遊びに行ったことがあった。この人とは波長が合うというのか、毎日長話をしてもちっとも飽きなかったが、さすがに久しぶりだったので楽しくて夜遅くまで話し込んだ。「最近、どんな本を読んだ?」と聞かれ、「また随筆に凝ってます。内田百、寺田虎彦、串田孫一、福原麟太郎・・・」と言うと、「ああ、福原麟太郎ね、私の持ってる国語のクラスに孫がいるわよ。」と言われたのでびっくりした。

「えっ!孫って、ほんとの孫ですか?」
「そう。私も聞いて最初はびっくりしたけど、考えてみれば福原麟太郎って福山市の出身じゃない。このあたりにご家族が住んでいらしても何の不思議もないわけよ。」
「そういえば・・・・。で、やっぱりその子は国語が得意なんですか?」
「いやー、そうでも・・・。」
「ははあ・・・。そうか!やっぱり英語ですよね、英語が抜群にできるとか?」
「あはははは、・・・かわいい子なんだけどね。」
「そ、そうですか。やっぱり、おじい様があんな有名な方だと、いろいろ苦労があるんでしょうねえ。小さい頃から『家の名に恥じないような行いをしなさい。』とか厳しく言われて・・・。」
「いやいや。ちょうど、教科書に福原麟太郎の文章が載っていてね、そうしたらその子が職員室に来て、『これ、わたしのおじいちゃんよ。』って言ったの。てっきり同姓にかこつけて冗談を言っているのだと思ってたら本当だったからびっくりした。本人は『教科書に載ってるってことは有名な人だったんだね。』って無邪気に喜んでた。それまでおじいちゃんの本を読んだことはないんだって。」
 私はちょっとショックだった。もったいない。もったいなさ過ぎる。私がもし、あんな有名な文学者の孫だったら、親戚中まわって祖父の逸話や手紙や写真を収集し、「わが祖父○○」とか「孫が読む○○の△△△」とか「○○の孫レイちゃんのイングランド旅行記」とかいっぱいあることないこと本に書いて一攫千金大儲け!ゲホッ、ゲホッ・・・・。

 それにしても、福原麟太郎がチャールズ・ラムについて書いたエッセイで、気のふれた姉の面倒を見るために一生独身を通したラムが、年取った時孫たちに囲まれて幸せな余生を送っている自分の姿を夢想する哀切極まりない随筆を紹介しているものがあって、私はそれを読んだとき、ついさめざめと泣いてしまった。そのせいで、てっきり福原氏も家族に恵まれない方ではなかろうかと勝手な推測をしてしまっていたのだが、かわいいお孫さんがいらっしゃったということはほんとに喜ばしいことだった。もう少しおじい様の文章の価値を自覚した方がいいとは思うけど。

 しかし、最近夏目漱石の孫である夏目房之介の本を何冊か読んで、やっぱり文豪の孫というのも結構つらいもんがあるなあと思った。夏目房之介の漫画に関する本は、漱石なんか抜きで文句なしにおもしろいからいいんだけども。


 ところで、その先輩Oさんとは下宿で一年いっしょに暮らしただけだったが、今思えば不思議なくらい飽きもせず、毎日部屋に入り浸って話し込んでいた。多分、お互い適度にぼんやりしていたので気兼ねがいらなかったのだと思う。Oさんのお父さんは国立大学の教授であったが、遠くの大学に転勤になったので家族はみんなそちらに引っ越して、一人置いて行かれたのだった。4年生になるまでずっと自宅通学であったのがいきなり一人暮らしで、自炊に慣れないこと私以上だった。
 
 そう言えば、自分たちがいかにぼんやりであるかということについて話が盛り上がったことが何度かある。
「私は、何年かぶりにレコード店に入ってみたらレコードが全然なくなっていて、全部CDに変わっちゃっていたのにはもー、びっくりした。浦島太郎みたいな気分でした。」と言うと、Oさんは笑い、「さすがに私はそこまでひどくないよ。ちゃんと新聞読んでいたし、毎日レコード店の前を通って見てたし。」と言ったが、
「そういえばねえ、浦島太郎みたいな気分になったことがある。」と話をしてくれた。

 Oさんの趣味は旅行だ。それもユースホステルなど安い宿を自分で探して毎年テーマを決めて行くらしい。」去年のテーマは「奥の細道」の旅だった。
 芭蕉の足跡をたどってできるだけ行ってみようということで、鈍行列車に乗って東北、北陸方面を回り、松島、平泉、立石寺などを鑑賞し、その後象潟で電車を降りた時だ。Oさんは象潟は港町だろうと思っていたのだ。だって「潟」っていうくらいだもの。ところがそこはごく普通のひなびた田舎の駅だ。あわてて「奥の細道」を取り出して読んでみた。
江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸をせむ。酒田の湊より東北の方、山を越え磯を伝ひいさごを踏みて、其の際十里、日影やゝ傾く比、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山かくる。

其の朝、天よく晴れて朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮ぶ。先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上漕ぐとよまれし桜の老木、西行法師の記念を残す。

松島は笑ふがごとく、象潟は怨むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂をなやますに似たり。
  象潟(きさがた)や雨(あめ)に西施(せいし)がねぶの花(はな)

やっぱり海だ!舟を浮かべたっていうくらいだもの。そこで駅員さんに「あのー、象潟というのはどのあたりですか?」と聞いてみた。駅員さんはきょとんとして、「ここが象潟町ですが。」と答える。Oさんはあせった。「私は、奥の細道の名所旧跡を訪ねる旅をしているのですが、ここに象潟は松島に並ぶ景勝地と書いてあるんです。」と食い下がると、「まあ、昔とは景色が違ってきましたからね。」とあっさり言う。Oさんはますますあせった。「じゃあ、能因島はどこですか?」と尋ねると駅員さんは首をかしげて考えていたが、ちょうどそこを通りかかったおばあさんを呼びとめて聞いてくれた。おばあさんは「ああ、能因島ね。あの道をまっすぐ行って・・・」と親切に教えてくれたのだが、その方向はどうも海の方向とは違っているようで一抹の不安をおぼえた。しかし、せっかくここまで来たのだからと藁にもすがるような思いでひたすらその方向に向かって歩いて行った。道は田んぼの中の農道みたいなところで、行けども行けども青々とした稲の海。もう帰ろうかと思ったとき、小さな山というより丘のようなものが見えた。立札が立っている。まさかと思って近づいてその札を読んでみると、なんとそこが能因島だった。「ここは元は海に浮かぶ島であったが、文化元年の地震で地面が隆起して陸になった。」という趣旨のことが書いてある。
 「いつの間に!」Oさんは肝をつぶした。Oさんの持参した文庫本「奥の細道」にはそんなことは一行も書いてなかったのだった。

 「だからねえ、気をつけないと、知らない間に海が陸になっちゃうのよ。私はショックだったわー。」うーん、それは知らなかった。たいへんだ。
 よい写真がないかと思って探したら、こちらのサイトにあった。「山形日本海紀行2004」


 先輩が「それでね、新聞は取らないとダメよ。」と言うので、それ以来新聞を取ってできるだけ読むようにしている。しかしやっぱり10年に一回くらいは、ふと気がつくとLPがCDに、とか海が隆起して陸に、とかいう驚愕の体験をしてしまうのはつくづく情けないと最近思う。

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