読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

映画「バンテージポイント」

2008-03-13 22:15:54 | 映画
 本を複数読みかけのまま映画に行く。
 「バンテージポイント」を観ながら、「これってなんだっけ?」と思った。同じ時間を繰り返しながら8人の視点で大統領暗殺事件の核心に迫っていくっていう趣向なんだけど、その目新しさ、アクションの派手さに感心しながらも、後で考えると「やっぱりアメリカ映画だね」という感想しか湧かない。

 「これって・・・」と前にも思ったのは「チーム・バチスタの栄光」。心臓バチスタ手術のチームの中に殺人犯がいて、それをキレ者の役人がプロファイリングしながら突き止めていくというストーリー。そうだ、これって「スウィニー・トッド」だ!ちょうど同じ頃、ジョニー・デップ主演で映画が公開されていたが、あれはもともと都市伝説だ。産業革命以降の社会では見知らぬ床屋に喉を晒さなくてはならず、見知らぬ者が作ったミートパイを食べねばならず、もしも、彼らに殺意があったなら私たちはひとたまりもなく殺されてしまうという不安の象徴がそのような都市伝説を生んだのだと宮台真司が書いている。心臓の一部を切り取るなどという大手術をする医師のチームの中に一人でも殺人鬼が、しかも個人的怨恨のようなわかりやすい理由ではなく面白半分に人を殺すような人間が混じっていたとしたら、それこそ患者はひとたまりもなく、殺人の証拠も残りはしない。「チーム・バチスタ」を見ながら「これは社会の他者に対する不安を表わしているのか?」と思った。宮台は「9・11以降、盤石と思われていたアメリカ社会の安全性が、実はきわめて脆いものであることが露呈した。たとえば、飛行機を乗っ取って激突させなくても、長い時間をかけてアメリカ社会に溶け込み、原子力発電所などの職員になって原子炉を爆発させればいいだけの話だ。核などなくても確固とした意思と知能で社会を破壊することが容易にできる。そのような社会の不安を利用してセキュリティー産業が栄え、ネオコンが「テロへの戦い」と人々を煽る。マッチポンプだ。」と言う。

 「バンテージポイント」も、大統領のきわめて近くに敵がいるってことがミソだ。(あー、言っちゃった)。ネタバレ注意!
 テキは実に用意周到。通信傍受(!)によって「暗殺計画」を察知され、替え玉(!)を使われるのも計算内。替え玉を銃撃し会場を爆破、と同時にホンモノのいるホテルで自爆テロをして大混乱に乗じて誘拐。なんと、協力しているのは地元警官、テレビ局員、そしてホテルの従業員(これが自爆テロをする)。銃撃も爆発もコンピューターの小型端末みたいなので遠隔操作だ。大混乱に紛れて救急車で駆けつけ大統領を拉致。実に賢い。予告編に出てくる文句が「誰も信じるな」だ。そりゃあ、普通の人だったら「もう何も信じられない!」って言うよ。こういうことがあり得るとしたら、社会を成り立たせている「他者に対する無条件の信頼」なんてガラガラに崩れてしまうだろう。ギョーザ事件で中国製輸入食品全部に不信が広がったみたいに。

 なんでこんな映画が今作られるんだろうと思った。不安を煽りたてるようなもんじゃないか。それが狙いか?
 

 もひとつアホかよ!と思ったのは、替え玉大統領が銃撃を受けてすぐに側近が「トルコにテロリストの拠点がある。すぐに報復の爆撃命令を・・・」と、ペンタゴンにつながっているらしい電話を大統領に差し出すのだ。大統領は「友好的イスラム圏の国に爆撃をすることはできない」と拒否する。あったりめーだ!大統領が撃たれたからって関係のない国が爆撃されたんじゃたまったもんじゃない。あっ、そういえばもうやってたか。アメリカの常套手段だった。大統領が銃撃されたら即座にミサイルを発射するのかアメリカという国は。
 映画では「首脳会談をつぶすのがテロリストの狙いだ。その手に乗ってはいけない」と大統領は拒否する。そうだ。そもそも首脳会談に「テロとの戦い」なんてテーマをあげた時点で間違いだ。広場外の抗議デモの多さを見ろ。もちろん、テロリストはそれもお見通し。誘拐されてたらどうなっていたかな。そちらを見たいものだ。だけど批判的な意見をアドリブで言ったテレビレポーターは爆発で死んでしまうし(あのくらいも言えないのか今のメディアは)テロリストも皆殺し、傷だらけのヒーローが大統領を救って「ありがとう、バーンズ」で終わりなのだ。めでたし、めでたし・・・・。ケッ!

 なんだかもう、アメリカ映画ってあれだけお金をかけて、派手なカーアクションを披露して、豪華なセットを惜しげもなく破壊して、よくまあ、あんなつまんない映画を撮るものだ。とまた思ってしまった。

映画「エリザベス ゴールデンエイジ」

2008-02-22 22:21:07 | 映画
 「エリザベス ゴールデンエイジ」を観てきた。ケイト・ブランシェットがたいへん美しく、また凛々しく、目の保養になった。
 映画を観ている最中にふと、なぜこの映画が作られたのかということを考えた。私は前作の「エリザベス」は観ていない。だけども、前作が好評だったから続編を作ったというだけではなく、何かの必然性があっての作られたように思うのだ。もちろん、イギリス人が歴史好きだってことはあるだろうけど。

 映画を観ながらつくづく「宗教ってこわい」と思った。あの狂信的なフェリペ2世の顔が怖い。スペイン無敵艦隊の帆船に高々と掲げられた旗が怖い。十字架のキリスト像が描かれた旗だ。宗教裁判でどれだけ多くの人たちが拷問を受け、凄惨な死に方をしたかを思い出して身震いが出た。だけど、ここには描かれていないけど、エリザベスだって一時は国内のカトリック教徒を弾圧したこともあるし、当時カトリックとプロテスタントは国を二分して血で血を洗うような争いを度々起こしていたのだ。
 
 ああ、そういうことか。きっとこの映画は宗教対立からくる戦争にどう対処するかということを、歴史を振り返ることによって改めて私たちに問うているのだ。だからこれは、必ずしも史実に忠実に作られているわけではいないし、わかりやすいように脚色してある。先日来、ドストエフスキーや「アメリカン・ギャングスター」で考えたのと同様に、やはりこの映画も現代的な視点から歴史を切り取ってみるということをやっているのだと思った。

 公式サイトの PRODUCTION NOTES にそのようなことが書いてあるじゃないか。リンクが貼れないので引用。

 この映画は、原理主義的な考えに対する寛容という、現代にも響き合うテーマを扱っているが、シェカール・カブール監督はこう信じている。「歴史を掘り下げることは、結局、私たち自身の現代の物語を掘り下げることになる。今という時代にまったく関係のない映画を、どうして作る必要がある?」


 そう考えると、「全世界をカトリック信仰で覆い尽くし、カトリックの栄光のもとへ回帰させることを誓う」フェリペ2世って、現代では誰ってことになるのだろう。イスラム原理主義指導者か?それとも、キリスト教原理主義者たちの支持を受けて、世界にアメリカ式民主主義を導入するためにイスラム圏の国々を空爆するブッシュ大統領か?まあ、どちらでもよいのだ。イギリスは過去どのように対処してきたか、この映画ではそこを強調する。エリザベスは言う「罪を犯したものは処罰するが、犯さぬものは保護する。行為では罰するが、信念では罰しない」と。すごい。思想信条の自由という基本的人権の概念をこの時代に主張している。「スペインに征服されれば凄惨な宗教裁判が始まるわ。スペインとの戦いは、宗教と信念の自由を勝ち取るための戦いです。」とはっきりと言い切る。
 
 メアリーの処刑について思い悩むシーンでも王の権力と国の法律との葛藤という問題が出てくる。エリザベスは従姉である女王メアリーの処刑に逡巡し、命令書になかなか署名しようとしない。自分の母親が処刑された時のことを考えるととてもできないと言うのだ。そうだった、イギリス王室ってのも血みどろの胸の悪くなるような歴史を持っているのだったな。(ここで、父王ヘンリー8世と母アン・ブーリンについて調べていてそのドロドロの人間模様に辟易する。)
 じいや的存在である側近のウォルシンガム卿は「法の定めるところによって処刑をしなくてはならない」と強硬に主張するのだが、エリザベスは「法は庶民を縛るものでしょ。国王は法を超越しているのではないの?」と言う。ウォルシンガム卿は「法は庶民を守るためにあるのです」と答え、エリザベスは苦悩しつながらもしぶしぶ署名する。これ、「王といえども法を超越することはできない」ということを言っているのだ。すごいと思わない?これが、史実かどうかは知らないけど、少なくともイギリス人のコンセンサスとしてこのような考え方があるのだ。宮台真司が「権力と権威は分離しなくてはならない」と書いていたけど、この映画って、権力が宗教的権威を身に纏うとおそろしいことになるっていうのをそのまんま教えてくれているじゃないか。

 宗教原理主義者フェリペ2世がローマ法王の権威を笠に着て凄惨な宗教弾圧と他国の侵略を行ったのに対してエリザベスは、国を分裂させることを避けるために宗教的寛容と法による統治をおこなったのだということをこの映画は言っている。そして、まるで神風が吹いたかのようにスペイン艦隊は全滅し、この後イギリスは穏やかで平和な繁栄の時代=ゴールデン・エイジを築くことになるのだ。実に感動的な物語だ。もちろん厳密にはそれほど単純な話ではないだろうが、このような歴史的な建前を大切にするということも、まあ必要なことなのだろうなあと最近思う。

<おまけのネタバレ> わかりにくかったのは、エリザベスを暗殺しようとした拳銃の弾が空砲であったというところだが、ウォルシンガム卿が後にこれを「罠だった」と言う。メアリー女王の密書がすべてエリザベス側に渡っていたのも実はスペインの工作員がわざと見つかりやすくしていたのらしい。なぜって、スペインは表面上はカトリックのメアリーをイングランドの女王に即位させようと画策しているように見せかけていたが、実はわざとメアリーを処刑させ、イングランドの分裂を誘発して自分が乗っ取ろうとしていたのだった。フェリペ2世の娘イサべラをイングランドの女王に即位させるため。だったらやはりメアリーの処刑って間違っていたことになるのだろうな。なんとか和解の方法はなかったのか。スコットランドやアイルランドの人たちの、イングランドに対する恨みってこの頃からずっと、現代に至るまで尾を引いていて、宗教対立や民族対立が根の深いものであることを思い起こさせる。


映画「アメリカン・ギャングスター」

2008-02-06 23:40:43 | 映画
 最近、星新一のショート・ショートをよく思いだす。こんな話だ。宇宙人が地球を征服しており、町中にトラップを仕掛けている。マンホールやいろんな物が体重計になっていて、人間の体重がある基準を超えるとそのトラップに落ち込んで消えてしまう。どうやら宇宙人の食料にされているのではないかとうわさされている。主人公とその家族は、トラップに嵌らないように食欲を制限しているが、なにせ食糧は有り余るくらい支給されていて、おまけに至るところに外見を偽装した食品が仕掛けてあるのでつい無意識に食べてしまう。子どもは「食べたいよー!」と言って泣くが、夫婦ともに心を鬼にして節食を強要する。生き残るためにはそうするしかないのだ。そしてその頃、宇宙人たちは、「野蛮な人間たちも、やっと欲望を制御するようになりましたねえ」みたいな会話をしている。つまりこれは欲望の肥大によって自滅してしまいかねない人間たちに、自制することを教えるための配慮だというのだ。

 私がこの話を読んだのは中学の頃だけど、「もし本当にこんな社会になったら自分は生き残ることができるだろうか」と考えて身震いした。欲望を自制するなんてことは、とてもできそうにない。だけど、最近よく思うのだ。やっぱりこの社会で生き延びられるかどうかの一つの条件は、「際限なく肥大する欲望を自制できるか否か」にかかっているのではないか。「アメリカン・ギャングスター」公式サイト)を見ながらもそんなことを考えた。

 刑事リッチーは、犯罪者から100万ドルもの大金を押収して、それを正直に届け出たため仲間から爪弾きにされる。時はベトナム戦争のさ中。町にはドラッグがあふれ、マフィアやギャングが幅を利かせている。警官の大半は彼らとつながっており、収賄や恐喝は日常茶飯事のことだ。麻薬捜査官が押収した麻薬を薄めて横流ししている始末。そんな中でバカ正直にお金を届ければ、「アブナイ奴」扱いされて命さえ狙われるかもしれない。なのになぜ届けたのだろう。汚職は警察だけではないのだ。司法関係者、政治家、いろんなところに及んでいる。特別捜査官になって麻薬王の捜査を進めるリッチーに、友人でさえ「やめてくれ。俺も危なくなる」と懇願する。ひどいもんだ。

 だけど私は思う。もし、命がけのハードな仕事をしていたとして、眼の前を汚れた金が(しかも大金が)日々通過していたとしたら、それをネコババしないでいられるだろうか?自分は子供と過ごすこともままならないほど働きづめで安月給なのに・・・・。もちろんできはしない。きっと札束の一つや二つ・・・。あるいは、チンピラの命の一つや二つ・・・・。
 そして思う。もしベトナム戦争に参戦していたとして、ジャングルの中をはいずり回りながら死の恐怖におびえる毎日だったとして、麻薬に手を出さずにいられるだろうか?また、仕事がなくて将来の希望も見えなくて友達みんながドラッグをやっていて、町中に安価なドラッグがあふれていたとしたら、やらないでいられるか?もちろんいられない。きっと死ぬまでやるに違いない。だから並の克己心では間に合わないし、その選択は生死を分けるほど重要だと言える。


 刑事リッチーがなぜ汚職に手を染めなかったか、よくわからない。人一倍正直者ではあった。しかし、相棒を死に追いやり、妻子と別れ、親友を失い、それほどの犠牲を払ってまで正義を守り通すというのがわからない。そんな高潔な人間にはとても見えないのだ。女たらしだし。それで考えていたんだけど、思うに、組織というものは一定以上腐敗がひどくなってくると、生き延びるために自浄作用のスイッチが入るんじゃないかなあ。リッチーは高潔であったというより、反骨精神があって、「これはおかしい。間違っている」と思うと人が何を言おうと耳を貸さない。そんなリッチーを、組織の中の汚れてない部分が利用したのだと思う。だって、あれじゃあ警察はヤクザと一緒だよ。昔イタリアマフィアに関する本を読んだことがあったけど、マフィアが台頭したのは、19世紀イタリアの警察や裁判所がひどい腐敗と横暴に支配されていて、まったく庶民の役に立っていなかったからだということだった。国家の治安維持能力が低下するとその代替としてマフィアのような闇の仕事人が現れてくる。おもしろいのはムッソリーニが独裁政治をしていた時代に、マフィア掃討作戦が何度も決行され、ほぼ根絶やし寸前にまで行ったらしいのだ。ファシズムとマフィアは相性が悪いようだ。戦後また復活して今に至っているのだが、検察でマフィア追及をした検事はことごとく暗殺されている。私は昔、雑誌「ニューズウィーク」でファルコーネ判事の奮闘記を読んでしばらくしてその爆死のニュースを聞いて暗澹としたものだ。この前のナポリのゴミ騒動だって、マフィアが原因だ。アメリカもそんなふうになるところだったのだ。だから、わが身を削ぎ落とすような厳しい告発で腐敗警官を一掃せざるを得なかったのだろうと思う。

 もう一つ心に残ったところは、最初の方で黒人ギャングのボス、バンビー・ジョンソンが死ぬ前、部下のフランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)と家電量販店に入りながら愚痴をこぼすシーンだ。
「近頃じゃ、何もかも変わっちまって、コンビニにマクドナルドに量販店だ。会話やサービスはどこへ行った。」
フランクが麻薬を現地で直接仕入れるということを思いつくのはそのボスの言葉がヒントになっているのだが、これでボスが地域や人間関係を大切にする古いタイプの人であったことがわかる。フランクと手を結ぼうとするマフィアのドン、ドミニク・カッターも酪農を例えにして、「保護や規制がないと農家はやっていけない」なんてことを言う。そう言えば、この時代は家族経営的な小規模農家が経営破たんして農地を手放し、どんどん集約化されていた時代じゃなかったっけ。商業も農業も、社会のいろんな分野でそのような変化が進行していた時代だったのだ。そのような時代において、フランクは新しい流れに乗って成功した側の人間だ。たいへん賢くかっこいいのだが、映画はフランクがのし上がっていく映像と交互に麻薬に蝕まれた貧困者の悲惨な姿を写し出す。たいへん象徴的な捉え方だと思った。今もやっぱりその頃とおんなじようにグローバリゼーションによって破壊される社会の部分があるわけで、そのような現代的な意味合いも込めているのかなあと思う。

 フランクが極道者になった原因には子どもの頃の悲惨な体験があるらしい。社会の理不尽さを憎んでそれに打ち勝つパワーを身につけるためにマフィアになったわけだが、その部分がリッチーと共鳴している。だから逮捕後にリッチーに協力したのだ。頭がいいし自制心もあるから教育を受けるチャンスさえあればひとかどの人物になったに違いないと思える。だからこの映画はただの極道バトルではなくて、過酷な社会における人間の生き方についてもいろいろと考えさせてくれるものだった。

映画「蛇イチゴ」

2008-02-03 16:22:20 | 映画
 芸術性は高いが一般人向きじゃなさそうなマニアックな映画ばかりを上映していたミニシアターが先月終りに引っ越してシネコンの地下に入った。受付をボランティアがやったりと頑張っていたのに営業的には苦しかったようだ。私は駅から近くなったのでうれしい。ここで後払い劇場なる映画を見た。「満足度」に応じて料金を払うというおもしろい企画で、上映されたのは「ゆれる」の西川美和 監督・脚本作品の「蛇イチゴ」。ブラック・コメディーということだが、笑うに笑えないなんとも言えない滑稽でもの悲しい映画だった。私は「すごい!こんな日本映画があったのか!」と思った。
上映責任者のイワモト氏によれば「まごうことなき傑作」。

 前回の後払い劇場で「なぜこの作品を選んだのか説明を聞きたい」という要望があったそうで、上映後にイワモト氏が少しお話をされた。
 それによれば、「ゆれる」を見たとき、ところどころユーモラスなシーンがあって、「この監督さんはコメディーを撮ればいいんじゃないだろうか」と思っていたところ、「ゆれる」の前にこの作品があったことがわかって「すばらしい」と感嘆したとのこと。「ゆれる」の一つのテーマは「事件と事故との間にはとても大きな幅があって、真実はその間のどこかでゆれ動いている」ということだったのだが、この「蛇イチゴ」でも同様に、「兄が嘘つきか嘘つきでないかということは単純に一言で断言できないほどいろんな可能性の幅がある」ってことを言っていた。おそらく、本当に家族を助けたかった。しかし、うまくいかなくなったら多少のものは頂いて雲隠れをしようとも思っていた。その気持ちの中でいろいろに揺れ動いていたに違いない。ただ、一つだけ真実があって、それは「妹には迷惑をかけたくない」という妹を思いやる心なのだ。だけど、今まで散々裏切られてきた妹はその気持ちさえ信じることができないので兄を試す。・・・

 なるほど、たいへんわかりやすい。この監督さんはすごい。最近、善悪二元論で割り切るアメリカ製娯楽映画にうんざりしていたせいか、こういう「解釈の幅」とか「真実は藪の中」みたいなのにすごく共感を覚える。だって現実はすごく複雑で、すっぱりと二者択一できることなんてめったにないし、正義の味方なんてのもいないじゃないか。

 私が妹だったらどうするだろうかと考えたが、多分、全部ぶちまけて詰め寄って台無しにするとか、あるいは安全のための担保をとっておいて兄を利用するとか、やっぱり状況によって気持ちも態度もコロコロ変わるだろうなあという気がする。だってさ、「破産→家屋敷と貯金全部手放す」と、「破産→借金取りを騙したが兄に全部取られる」って同じことじゃないの。だけど、兄を信用して全部兄名義にしておく場合には「兄が本当に助けてくれて借金チャラ。今までの生活」という可能性が残されている。「兄○」と「兄×」の確率が5分5分だとしたら兄に賭けた方が得だ。確率論的に言えばね。

 ただ、「蛇イチゴ」の話に嘘が混じっていることは確かだ。だって蛇イチゴは木になってるわけじゃないし、おいしくもなんともない、ありふれた雑草だ。ものごとを大げさに言って人を丸めこむのがうまい兄らしいが、きっと子どもの頃、山に迷いこんで、「ああ、なんてきれいな宝石のような実だろう。これが食べられたらなあ」と思ったに違いないよ。私だって昔そう思ったもの。だけど、そのような嘘が人を傷つけ、危険に晒すってことに、この兄は思い至らなかったのだ。そして、今も大して罪悪感なく日々嘘をつき続けていて、それが犯罪的な行為にまで及んでいるってことを何とも思っていない。

 「この家族はみんな嘘つきですが、一人の大嘘つきがいることで、その嘘が大したことじゃないように見える」(イワモト氏)

 父も母も嘘つきだけど、多少は同情できるところがある。私が一番許せないと思ったのは妹の婚約者。なんだあいつ!彼は嘘は全然ついていないのに一番卑劣な男だ。「うちの家はお金持ちだけど、お金じゃない幸せってあるんだなあって言って、両親とも『うーん』なんて考えこんじゃって、あれが全部嘘だったなんて、バカみたいじゃないか」。あの団欒が全部嘘だったと本当に思うのか!彼女のことを「嘘つきの仲間」と決めつけて捨てるのか。そういう奴だったのか・・・・。そんな男と結婚しなくてよかったよ倫子!
 妹役のつみきみほが、たいへん美しく凛としていてすばらしかった。お父さんもお母さんも(おじいちゃんも)存在感があった。「ゆれる」もぜひTSUTAYAで借りて見ようと思った。

映画「母べえ」

2008-02-03 00:47:33 | 映画
 久しぶりによい日本映画を見た気がした。そして、あの「28週後」との対比でも考えさせられた。たぶん、そんな異質な映画を比べるっていうのは間違ってるんだろうけど。

 それにしても、アメリカ映画ってなんて人間が薄っぺらい感じがするんだろう。「ナショナル・トレジャー」を見てびっくりした。よくまあ、あれだけ大がかりなものを作って、派手なカーチェイスをやって、さぞかしお金もかけているだろうに、なんでこんなペラペラな映画しかできないのか。子ども向けファンタジーだってもっとましだよ。だいたい、あんだけ黄金が発見されたら大変なことになる。金価格は大暴落、世界の市場は大パニック。強大な軍事国家だけど大赤字のアメリカが一気に世界一の大金持ちになってもはや怖いものなし。こんな恐ろしいことがあろうか。戦争が始まるかもしれない。だから宝は隠されているのに、それを見つけて何がめでたい!

 「母べえ」は治安維持法によって思想表現の自由が規制されていた時代の話だ。ドイツ文学者の野上滋は治安維持法違反で投獄される。残された妻佳代と子どもたちは困窮しながらも、周囲の人たちの助けを得て懸命に暮らし、獄中の父に手紙を書き続ける。検閲でところどころ真黒に消された手紙を読みながらお互いを心配し、そして自分は心配をかけまいと言葉を選んで愛情にあふれた手紙を書き続ける。
 この映画には確かにあの頃のなんとも言えない息苦しい社会の空気がある。どこにも逃げ場がないという絶望的な社会の空気。これだ。私は、あの「丸山眞男を殴りたい」の人にはなんか欠けているような気がしてしょうがなかった。「なんだろう?」とずっと考えていた。きっと、お勉強も足りてないんだろうけど、それよりもこの戦争のリアリティーみたいなものの理解が欠けているんじゃないかと思ったのだ。出生兵士が「万歳、万歳」で送り出され、爆弾が飛び交って人がバタバタ死ぬとかいうことの背後では、言論弾圧によって不用意な発言をしたものがつぎつぎと拘束されるとか、統制経済によって食べ物も着るものも配給になるとか、町内会組織が強化されて相互監視体制ができるとか、真綿で首をしめられるような不自由な社会があったのだ。おめーら、戦争になったらやりたい放題できると思ったら大間違いだぞ。

 佳代が滋の恩師のところに、報告と差し入れの本を借用するためとで訪問すると、その恩師は言う。「奥さん、あなたはまるで被害者のように話すが、野上君は国法を犯したのですよ。確かに治安維持法は悪法だ。しかし、悪法でも法は法だ。無法状態よりどれだけましかしれない。」
 また、山口で元警察署の所長だった佳代の父は、「お前まで危険思想に染まったのか!この剃刀で今すぐ喉を切って死ね。わしも後から行く」と迫り、佳代は「私は、野上の妻になったことを、一遍だって後悔したことはありません。」言って席を蹴って帰る。この、どんな困難があろうとも、夫を信じて支えていこうとする潔い態度に本当に感動した。ずっと泣きながら見ていた。なんでこんなに誠実でやさしい人たちがこんなむごい目に遭うのかと悲しくて仕方がなかった。

 だけど私にはあんな生き方はとてもまねできないとも思った。「悪法でも法は法」と思っているからじゃない。「踏み絵が差し出されたら躊躇なく踏む」ということを昔決心したからだ。大学の頃一時期、「転向論」ばかり読んでいたことがあった。ある小説を読んで、もしもまた戦時中のように言論が弾圧されて、不用意な発言で捕まる時代になったらどうしようかと思ったからだ。「転向したふり」をしていい加減な上申書を出して釈放してもらえないかなあとか思ったが、戦時中の共産党員の転向など数々の資料を分析した本を読んで、それは不可能だとわかった。検事はそれほどバカじゃない。非常に優秀で、しかも愛国心に溢れている。国のトップレベルのインテリなんだ。彼らは「思想犯を転向させることが国家にとって非常に重要で有益である」と心底信じている。映画でも、滋のかつての教え子の検事が担当になって、非情にも上申書を撥ねつける。「全然だめです。この上申書からはあなたが心底転向したということが感じられない。言葉遣い一つとってもそれがわかる。たとえばこの『支那事変』という言葉。最近ではこれは『聖戦』という言い方が一般的です。」
 滋は「君は本当に『支那事変』を『聖戦』と思っているのか?」と言って検事に怒鳴りつけられる。だめだ、検事は解釈の中身を議論するつもりなど毛頭ない。「転向論」では、最近の右翼が言っているような「日本にとって天皇制は必要」「この戦争は日本が生き延びるための唯一の道だった」という論法で諄々と説得していた。だから、愛国心があればあるほど絡めとられていったのだ。だけど滋は偉い。国を愛すればこそ戦争に反対した。歴史の欺瞞が許せないから命がけで発言した。あの時代はこのような人たちを殺した時代でもあった。そして、そのことは多くの死者に紛れてしまってほとんど伝わっていない。

 私は、あの頃つらつら考えて、結局のところ自分はあんまり国を愛していないのだという結論に達した。あきらかに国が間違った方向に進んでいて、自分にはその先の崖っぷちが見えていたとしても、大声を出して警告すれば殺されるってときにはもちろん黙っておく。踏み絵を差し出されたらもちろん踏む。たぶん。わかんないけど。 私はよく逆のことをやってしまう。KYだからさ。

映画「28週後」

2008-02-02 12:12:27 | 映画
 娘がアルバイト先で映画の優待券をもらったので先日から「カンナさん大成功です」「28週後」「テラビシアに架ける橋」「母べえ」と立て続けに映画を見た。その際、ちょっと思ったことがあったのでここらへんで感想。
 
 「28週後」のおそろしさは特別だった。この公式サイトの異様さ!。ここで詳しく報じられている。(ゾンビが全力で追いかけてくる映画「28週後…」のサイトが異様なリニューアル
 去年暮れから「バイオハザード3」「アイ・アム・レジェンド」と立て続けにゾンビ映画を見ている気がするのだけど、このゾンビの流行はなんだろう?しかも、年々ゾンビがパワーアップしてくる。「28週後」のゾンビは飢えに耐えきれず、すぐに死に絶えてしまうが、「バイオハザード」では何も食べなくとも5年くらい生きると言っていたし、「アイ・アム・レジェンド」のゾンビなどは驚異的な運動能力を持ち、すごい高さに跳び上がったり素手で壁をぶち破ったりする。そして何より恐ろしいことに学習能力を持ち合わせているらしくて、主人公のやり方をそっくりまねて彼を罠にかけ、捕まえようとするのだ。このようにゾンビが跳梁跋扈して人間が死に絶える映画が最近立て続けに作られているのは、いったいどういうことだろうかと「28週後」を見ながら思った。


 〈ネタばれ満載〉
 ウイルス感染がイギリス中に広がっていた時に学校の旅行で外国に行っていた姉弟が事態の終息後帰ってくる。ゾンビは死に絶え、ロンドンの町は復興を始めている。彼らは写真を持ち出すために、立ち入り禁止区域にある実家に足を踏み入れたのだが、そこには死んだはずの母親が・・・・。このちょっとした規則違反と肉親への情愛が再感染を招く。ルール違反はそれだけじゃない。この姉弟にウイルスの免疫があるのではないかと考える軍医や、民間人を皆殺しにすることに耐えられなくなった兵士、彼らも命令に背き、姉弟を安全な大陸に逃がそうとする。そして、ラストではどういう経緯でか、感染爆発が世界中に広がってしまったことを示唆する映像が流れる。東京タワーを背景に疾走するゾンビの群れ。
 
 私が一番恐ろしかったのは、「感染者と一般人を見分けられない!」と狙撃兵が叫び、司令官が「コードレッド」を発令するところだ。もはや感染を阻止するためには一般人ごと街を爆撃し、すべてを焼き尽くす他に方法は残されていないというのだ。これではたとえ物陰に隠れてゾンビをやり過ごしたとしても生き残ることはできない。感染しているか、していないかはこの段階では問題にされない。高性能爆弾に毒ガスに火炎放射器、この無情さに眩暈がした。
 この映画は、「ルールを破ること」が致命的な結果を招くということを執拗に描くと同時に、「ゾンビは人ではない。情にとらわれて行動を躊躇してはいけない」ということも言っている。また、「たとえどんなに残酷であっても、被害を最小限に抑えるためには、多少の犠牲者は仕方がない。」ということも。この記事「ゾンビ映画から学ぶ、ゾンビが現れたときにやってはいけないこと」にあるとおりだ。

 実際ゾンビはおそろしい外見で、もはやそれは人の形をしていても人ではない。集団で襲ってくるゾンビの群れが、ヘリのプロペラで切り刻まれて肉片をあたりに飛び散らせたときには痛快ささえ感じて、私はまた自分がそのような感情を覚えたこと自体にもぞっとした。「感染爆発」「ルールの順守」「多数のための少数者の犠牲」。何か思い浮かばないだろうか。

 アフリカのある村で非常に致死性の強いウイルスが感染爆発をおこす。生物兵器開発の秘密が漏れるのを恐れた軍が、村ごと爆弾で焼き払う。気化爆弾の炎の海。(私はこのシーンが忘れられない。)そして、カリフォルニア州のある町でそのウイルスの感染が広がる。町は閉鎖され、アメリカ全土を「アウトブレイク」から守るため、かつてのように爆弾が投じられようとしている。ダスティン・ホフマン主演の「アウトブレイク」だ。この映画でも、「28週後」でも軍が撲滅しようとしているのはウイルスなのだが、「ウイルスじゃしょうがない。他に方法はないんだ」と納得しながら、いつのまにか脳裏にはいつか起こった米軍の空爆の光景が浮かんでくる。そうか、この違和感はテロとの戦いの空爆を正当化しているように思えるせいなんだ。「だって、殺さなきゃ国民が全部殺されるんだよ」「世界中がイスラム化されるんだよ」という言葉が聞こえる。

 きっと意識下でそのようなことを訴えかけているのだと思う。「だから、時には多数者を守るために少数者を殺すことも決断しなくてはならないのだ。さもないと大変なことになる」って。私にはそういう戦略的な思考はできない。「アウトブレイク」ではまだアメリカの町を焼き払うことにものすごい抵抗があって主人公が解決法を見つけることになっているけど、「28週後」では躊躇なくやっている。一瞬の判断の遅れが致命的被害をおよぼすと言わんばかりだ。おそろしい。
 だけど一つだけわかったことがある。みんながパニックを起こして逃げ惑っているときにはできるだけ人と違うことをすることが生き延びる確率が高まるってことだ。あの少年が天井の排気口にもぐりこんだみたいに。でも、できるかっていうと多分できないだろうなあと思う。

映画「ベオウルフ」と竜退治

2007-12-27 00:54:15 | 映画
先日「ベオウルフ」を見たのだけど、どうも釈然としない。全然すっきりしない。なぜなんだろう。
この映画が古代の叙事詩を原作としていて、以前にも映画化されたことがあるというのは知っている。映像はフルCGということでときどき実写に見間違うくらいリアルですごかったし、ベオウルフが竜と戦う最後のシーンは見ものだった。なのに見終わった後に何かもやもやして、徒労感みたいなものがあった。
このもやもやは何かというと、一言で言うなら「ベオウルフの呪い」が永遠に続くということを暗示する結末に対する失望感だ。次の王も怪物の母と交わって新たな怪物を生み出すというのか?やれやれ・・・。絶世の美女(アンジェリーナ・ジョリー)が全裸で金粉を身に纏って現れ、「この世の富と権力をおまえに約束するかわりに私に息子を与えておくれ」と誘惑したら抵抗できる男はいないのか?しっぽが生えているのに?

この物語は何を言いたいのだろう。「怪物は、実は権力と引き換えに自分が生み出したもので、時がたてばかならず全てを破壊しに現れる」ということが言いたいのだろうか。それとも「善が悪を生み、悪が善を生み、悪を完全に退治することなどできはしない」と言いたいのだろうか。いずれにしても現在のアメリカの陥っている苦境を示唆しているような意味深な映画ではないか。一見ディズニーのアニメに出てきそうな英雄譚に見えるがとんでもない。こんな映画子どもには見せられない。なんて不景気な話なんだろう。

英雄の竜退治というのは物語によくあるパターンだ。だけどなぜ今こんな話を映画にしたのだろうと考えながらブックオフの店内を歩いていたら一冊の本が目に留った。中沢新一「イコノソフィア」(河出書房文庫 1989年)だ。この中に「聖ジョージの竜退治」の話が載っていた。こういう偶然を、「天使が囁く」と私の友達は言うが、この本にはちゃんと天使の話も出てくる。

この本は「イコン」を読み解く講義の形式をとっている。「イコン」といっても必ずしも宗教画ではない。たとえば第一講は「書」(漢字)についてであるし第十講は「コンピュータ・グラフィックス」がテーマだ。現代では様々なものを「イコン」として読み解くことができるのだ。「聖ジョージの竜退治」の絵もそのような「世界の意味」を読み取ることのできる「イコン」として見ることができるのだという。
これは一見すると、聖ジョージが大地の底にひそんで人間に災いをなす、凶々しい怪物である竜を退治している図のように見えるでしょう。そんなふうに解読することができます。このとき人は、この絵の意味を政治や社会や文化のようなものに関心がひかれている、意識の層から解読しようとしています。そのときこの「聖ジョージの竜退治」は、文化と社会と権力の起源をあらわすようになるのです。しかもそれは、あらゆる神話が多かれ少なかれかかわることになる、とても根本的な「意味」なのです。最初にこの世界にはカオスがあった。そのカオスの渦のなかには得体のしれない大蛇のような怪物が棲んでいる。それを刺し殺す英雄が現れたとき、人間の文化や言語や社会を生み出す意識が誕生する。そういうふうに神話は語ろうとしているようなのです。原初の殺害の行為が人間の意識の誕生を促すというわけです。

また、このようにも読める。
ひとつの社会のまとまりができていくためには、その社会がシステムをつくるのに不必要な過剰分子を自分の外へ吐き出さなければいけない。そうやって、自分にとっての外部がでてくる。そうなると、社会的ないし、文化的な意識は、たえずこうしてつくりだされた外部との対応関係で、自分とはなにかというアイデンティティーの意識をつくりだしていくようになる。そういう意識が、自分の起源を語ろうとするとき、それはいつも原初の海とか水のなかとかに棲んでいた大蛇、あるいはカオスのなかから立ちあがってくる恐るべき竜を殺す英雄の姿として語られるようになるのです。

なるほど、わかりやすい。
 もっと別の言い方もできるでしょう。つまり、聖ジョージに刺し殺されているこの竜は、スケープゴートでもあるのです。社会が自分のアイデンティティーをつくりあげるために犠牲の仔羊を必要とする。その仔羊を生贄として殺害することによって、社会のまとまりをつくりあげていこうとする巧妙なシステム。

竜にしてみればたまったもんじゃないが、無秩序な戦争状態のカオスから脱してまとまりのある社会をつくるためにはそのような殺害が必要なのだろう。
わたしたちはこの殺害のシーンをとおり抜けて、こちら側にやってくる。この迂回路をのがれることは容易にできないような気がします。文化の起源、言語の起源、政治の起源、権力の起源、そこにいつも登場してくるのがこの「聖ジョージの竜退治」というイコンに象徴されているものにほかなりません。

さらにもっと解釈を深め、宗教的な見方をすると、竜は別に「人間が自分の中にかかえこんでいるカオスティックな過剰さ」の象徴ではなくて、聖ジョージが破壊しようとしているものは、すべてを知性や理性で理解できると思い込んでしまった「人間の意識のもつ自惚れ」であると著者は言っているのだが、私にはそこらへんは難しくてさっぱり理解できない。
 だから聖ジョージは、精神の騎士として竜の殺害をつづけるのです。彼に殺害されるのは人間の欲望であり、自惚れであり、自惚れの感情をつくりだす二元論であり、そのもとをつくっている人間の意識の構造であり、その二元論の意識を強固なものにする言葉のかたくなな構造であるわけでです。そういうものをすべて破壊したところ、殺害しうちこわしたところに、はじめて人間が自分自身の条件を超えたロゴスに触れ、存在の根源にあって、存在しようとしているものを存在させようとする力のなかに入っていく可能性を身につけることがげきるようになる、とこの聖画は語り続けているわけです。

ほんとかいな?
まあ、ベオウルフは美女と契って手に入れた王座も空しくて夜ごとうなされるくらいだったし、いよいよ息子の竜が出現したときには命と引き換えにそれを刺し殺したくらいだったのだから、怪物を制御できると思い込んだ「自惚れ」の怖さはたっぷり味わったことだろうと思う。
アメリカの人たちもあの映画を見て、何ごとかを思っただろうか?それともただの華々しい娯楽映画だったのだろうか?

映画「グエルム~漢江の怪物」

2007-12-11 20:42:48 | 映画
 何かを探して本棚をひっくり返している最中なのに、ついふらふらと本屋に寄って新しい本を買って読みふけってしまう逃避癖よ。
 
 桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」(東京創元社)を読み始めたらおもしろくて止まらなくなった。これは久しぶりの「当たり」だ。この本は、夏頃アマゾンで「夜は短し歩けよ乙女」を検索した際に、《この商品を買った人はこんな商品も買っています》で出てきてちょっと興味を引かれた本だったが、「夜は・・・」の方があまりおもしろくなかったので買う気をなくしていたのだ。いやー、あれ、懐古趣味というかまあ、方向はわかるんだけど今はそういう気分じゃないんだなあ。で、鴨も鹿もこんなもんだろうと読まずにパスしたんだけど、昨日たまたま書店でこの赤朽葉色が目に飛び込んできて、本から『買え、買え』という怪しいオーラが出ていたので買ってしまった。
 これは「当たり」だ。私は「楡家の人々」のような一族の歴史物がわりと好きだ。昨年のお買い得だった『群像10月号』創刊60周年記念号に掲載された島田雅彦の短編「鉄が好き!」もなんとなく思い出してしまっておかしい。夜更かしして一気に読みきってしまったから今日また「少女七竈と七人の可愛そうな大人 」を買ってきてさっき読み終わったところだ。こちらもなかなかよいです。

 探していたというのは、宮台真司が「グエルム~漢江の怪物」について書いた文章だ。確かにどっかで読んだ気がするんだけど見つからない。「絶望 断念 福音 映画」(メディアファクトリー)の中に「映画『シュリ』に太陽政策の倫理的基盤を見出し、同時にまた、日本を超えた韓国の高い民度を見る」という章があるんだけど、私は「シュリ」は見ていないのだ。韓琉映画というのもあんまり興味がないのだけども「グエルム」のDVDを借りて見たら、ただの娯楽映画とはとても思えないストーリー展開だったから、「なるほど、こういうのが民度の高さというやつか」と納得したのだ。

 怪物は、軍の関連の研究施設で、アメリカ人科学者が流した有害物質が原因で、突然変異的発生から生まれるのだ。そして、それを知った科学者と軍関係者は、事実を隠ぺいしようと「感染性のウイルスを持っているから近づくな」とウソのアナウンスをして一帯を閉鎖してしまう。さらに、あくまでもさらわれた娘を助けてくれと訴える父親を殺そうとする。娘の家族は不信感を抱いて政府の禁止令を振り切って逃げ、娘の救出に向かうのだ。政府の情報や方針が必ずしも正しくはないのだから、たとえお尋ね者になってでも家族を守るというこの勇気!また、怪物撲滅のため一帯に毒を撒こうとする軍に対し「環境破壊だ!」と、即座に市民の反対デモが起こったりもする。
 だけど民度の高さってのはこういうのを言っているのではない。家族の奮闘にもかかわらず、娘は最終的には怪物に飲み込まれてもろともに撃ち殺されるのだ。あのとき軍に機銃掃射をされなければ助け出すことができたのに。父親が必死にそう叫んで止めようとしているにもかかわらず、軍はデモ隊の上から毒を撒いたり銃撃したりするのだ。これって何か思い出さないか?アメリカの介入で発生した怪物。その腹の中に飲み込まれて、怪物を撃ち殺せば娘も死んでしまうという設定。なるほど、「太陽政策」とは腹の中の娘を殺さないように怪物をこちらに誘導するための作戦なのか。日本ではとにかく「殺せ、殺せ」という強硬論ばかり目立って元も子もなくしてしまっている。この映画はそのことを言いたいのだと思った。
 
 また、娘の叔父さんにあたる青年が大学を出たのに就職できないのは民主化運動でデモばかりやっていたからだというセリフがある。携帯の発信源を突き止めようと携帯電話会社に勤める先輩を訪ね、「先輩はよく就職できましたね」と首を傾げるが、その先輩は懸賞金目当てに後輩を売るような奴で、なんでうまく会社に入れたのかは明白だ。デモなんかやっていたら就職が危うくなるというのに、それでもみんな政府の不当な行いに対してはデモをするのだ。根性があるじゃないか。こういう監督の批判精神がところどころに見られて、ただのアクションや怪物ものじゃない深い味わいになっていると思った。

 と、この映画を思い出したのは、今、姜尚中 宮台真司「挑発する知」(ちくま文庫)を読んでいて、その中で宮台真司が「日本の外交はネゴシエーションのスキルがない」と何度も言っていたからだ。
 2002年10月に政府が拉致被害者五人の強制帰国を決め、北朝鮮との約束を破ったときに、私はすぐにラジオで「北朝鮮は今後、日本を外交交渉の相手として認めず、アメリカを相手にして核カードを切るだろう」と予測したら、そのようになりました。
 即日そのように予想を語る人はほとんどいませんでした。もちろん同様な考えの人がたくさんいたでしょう。姜さんの本にも書いてありますけど、五人の拉致を認めるということは、あとのないカードを北朝鮮が切ったとみることができるからです。
 究極のカードを切った北朝鮮の意図は、簡単です。休戦協定を平和条約や不可侵条約に変えることも含めて北朝鮮を助けてくれないか。つまり二国間交渉をお膳立てしてくれないか。そうシグナルをだしてきたわけです。
 ここで日本が口を利けば、戦後初めて日本が外交でイニシャティブを採ることができたでしょう。これほど国益に資することはないと思ったのですが、安倍晋三という無能政治家が拉致被害者の北朝鮮への帰国を拒否したことにより、そのチャンスは一瞬にしてつぶれてしまいました。
 チャンスがつぶれたことを指摘すると、思考停止の輩どもから「北朝鮮のまわし者か」というリアクションがくるわけです。そうじゃない。チャンスがつぶれたことで、現に六カ国協議でも、北朝鮮によって日本が外されようとしています。

これは、2003年6月のトークセッションをまとめた文章なのだ。お二人ともなんと先見性があるのだろう。
 宮台氏は「千載一遇のチャンスを逃した」「日本は北朝鮮からだけではなく、アメリカからもその戦略性のなさをばかにされている」と厳しいことを言っているが、蚊帳の外に出されてしまった今でも強硬論が大勢らしいから日本の民度は確かに韓国より劣っているのだろう。日本が経済制裁したってロシアと中国が継続しているのだから効果はない。仮に各国一斉に制裁をしたとしても、それで追い詰められた北朝鮮が暴発したら、直接的な被害が及ぶのはアメリカではなく日本と韓国だろう。また、金日成さえ死ねば北は民主化するかっていうとそれも難しいだろう。大混乱に陥って難民が中国、韓国、日本に押し寄せると予測される。それこそ本当の怪物だ。

 もう、ちゃんと頭いい人が予測しているのだから、政治家は耳を傾けるべきだ。というよりも、耳を傾けて理解できる人を政治家に選ばなくちゃいけなかったんだな。

ギレルモ・デル・トロ監督「パンズ・ラビリンス」

2007-11-26 22:54:06 | 映画
 マイナーな映画ばかりやっているミニシアターで「パンズ・ラビリンス」を観てきた。物語の舞台は1944年のスペイン。内戦終結後も山奥に立てこもってフランコ将軍の軍隊と戦うゲリラを制圧するため駐屯しているビダル大尉のところに母親とともに向かう少女は、途中の山道で不思議な石塚を見つける。・・・あとは公式サイトのストーリー参照。
 
 ホラーファンタジーとかいろいろな見方がされているけど、私が注目したのはこの道端の石塚とか、駐屯地のそばにある不思議な遺跡だ。きっとキリスト教が普及する以前の土着信仰で使われた場所だったのだと思われる。アイルランドのドルイド教の遺跡にちょっと似ている。もっともそれは映画の中のことで、スペインにそのような遺跡があるのかどうかは知らない。スペインといえば中世の宗教裁判が最も苛烈をきわめたところではないか。そんなものがごろごろ転がっているとは考えにくい。
 それからオフェリアがパンからもらうマンドラゴラの根。これもハリーポッターでおなじみの小道具で、魔法使いがまじないに使うものだ。ファシストの軍人である義父のもとでこんなものを使ったりするのだから危険すぎる。もう、最初からこの子は義父の世界では決して生きていけないのだということが暗示されているようだ。
 
 大尉の方も、オフェリアの母と結婚したのは単に息子が欲しかったからで、愛のためなどではないことが明白だ。オフェリアなんか眼中にない。そして大尉自身が父親から受け継いだ、ある悲痛な思想のようなものを自分の息子に継がせようとしていることが察せられて少しぞっとする。最初は「ちょっと固物そうだけど案外いい人かも」と一瞬思ったが、無実の農夫親子を何の躊躇もなく殺したときには、そんな幻想は吹っ飛んだ。生け捕りにしたゲリラを残忍なやり方で拷問にかける。どうやら拷問のエキスパートらしい。頭もすごく切れる。おそろしい奴だ。宴会で「人間は平等であるなどと間違った考えをもっているやつらに思い知らせてやらなくてはならない。」なんて演説する。この男は殺さなくちゃいけない。母親はなぜこんな男と再婚することにしたのだろう。なぜ、この男が彼女の命などどうでもよくて、ただ息子を産ませるためだけに結婚したとわからないのだろう。それが「大人の現実」ってことか?オフェリアは母親のおなかの弟に向かっておとぎ話を語り、また言い聞かせる。「産まれてくるときにお母さんを苦しめないで」。でも結局マンドラゴラを取り上げられたから母親は死んでしまうのだ。あのファシストのもとに赤ん坊を置いておけないのは明白だ。
 
 映画の中で唯一私が共感したのは下働きの女性メルセデスだ。ゲリラになった弟とその仲間を助けるため敵の陣中に入り込んでいる。勇気があると思う。この女性が危険な仕事をしているのは自由とか思想などのためではなく、ただ肉親や村の人たちへの愛情からであるのだろう。この女性だけがオフェリアをかばい、なぐさめる。共感するものがあるのだ。

 
 なぜかこの映画を見ていたら「ドイツ・青ざめた母」という昔の映画を思い出した。
 第二次大戦前後の話で、ハンスという典型的なドイツ青年とヘレイネという娘が結婚する。ハンスはナチ党員になって出征してゆき、ポーランドかどこかの村を焼き払ったり、妻にそっくりな農婦を撃ち殺したりする。その頃ヘレイネは家で自分のブラウスを縫い、丹念に刺繍をほどこしている。夫が帰省してきたときに着るためだ。ところが殺戮に疲れて殺気立っているハンスは久しぶりに会ったヘレイネに優しく接することなどできない。大事なブラウスを乱暴に引き裂く。
 
 娘が生まれ、空襲で焼け出されたためヘレイネは娘を連れて各地を転々とする。野宿しながら、また列車の連結器に乗って移動しながら、娘に童話を語って聞かせる。「青髭」の物語だ。このおそろしい話を淡々と幼い娘に語って聞かせるヘレイネの姿の美しさが印象的だ。闇市で小商いをしたりがれきの山を素手で片づけたりしているヘレイネはたくましく、どこか生き生きとしている。ところが夫が帰って来てからはだんだん生気を失ってしまう。顔面神経痛ですべての歯を抜いてしまったため、それを恥じてあまりしゃべることもなくなる。その母親を娘は悲しい思いで見ている。
 たとえよそから見て真っ当な夫であったとしても、ヘレイネにとって彼は「青髭」であったのではないかと私は思った。

 「パンズ・ラビリンス」から、一つにはファシズムの恐ろしさが読み取れるのだろうが、私はそこをちょっと補足して「母親から受け継いだもの」を貶めて破壊しようとする勢力の怖さといったようなものを感じた。「母親から受け継いだもの」って、たとえば「おとぎばなし」や「まじない」や「肉親への愛情」などのようなものだ。このようなものを「非合理的」であるとか「くだらない」とか言って消し去ろうとする圧倒的な力に対する恐怖を感じた。オフェリアの物語は現実逃避の夢なのか?私はそうは思わないのだ。きっとこころの奥深くに存在していて、それがなくては生きていけない重要なものなのだと思う。

 で、私にも子どもの頃、母親が繰り返し語ってくれた怖い話があって、ときどきそれがものすごくリアルに感じられることがあるのだけど、どんな話だったかはここでは書かない。

 

映画「クワイエットルームにようこそ」

2007-11-08 12:30:38 | 映画
 昨日は「クワイエットルームにようこそ」を観てきた。これはおもしろかった。たぶん私が今年見た映画の中でベスト5に入る。内田有紀ちゃんゲロまみれになっていてもかわいい。全然不潔感がない。旦那役の宮藤官九郎、すごく実在感があった。いい人なんだけど、いかにも「電波少年」的お笑い番組に出てきそうな人でもうおかしくって、深刻な話をしているのに笑えて笑えて・・・・。以前患者にボールペンで首を刺されて死にかけたのにめげずに看護婦を続けているという無表情な冷酷ナース江口を演じてるりょうもよかった。有能で使命感に溢れていて、でも心を堅く閉ざしていないと生きていけないからステンレスみたいになっちゃったんだろうなあとよくわかる。
 
 私が好きなのは、ほんわかナース山岸の平岩紙さん。NHKでやった「ロッカーの花子さん」以来のファンだ。鼻水そっくりの流動食を「ごはんとお味噌汁とおかずにスピード感を与えたものです。」とか「見た目はグロテスクですが、パンとミルクとイチゴというかわいいもので出来ております。」とかやさしい声で言うのだ。ときどきいるよね、こういうナース。どんな修羅場でもこんな人に淡々とこう言われたらホニャーンとなって、つい言うことを聞いちゃう。それからノーテンキなコモノのにーちゃん、「なんだか妻夫木くんに似てるなあ」と思ったら妻夫木くんだし、この先生やたらと貫禄あるなあと思ったら「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督だし、まじめでおもしろくないという元旦那、「おっ、私わりとこういう人好きだな。」と思っていたら、あの「鉄男」の塚本晋也監督でしたよ。どーしたの?あと、ちょい役で俵万智さんとか、しりあがり寿さんとか、しまおまほさんとか、なんという豪華なキャストでしょう。
 
 でも、そういうのを割り引いても内容もよかった。いろいろと考えさせられた。異常ってなんだろうって。たとえば、拒食症で一泊2万円の豪華部屋に5年も入っているというブルジョアのサエちゃん。体重が35キロなんてちょっと風邪でもひいたら死んじゃうよ。だけど親は「退屈だろう」って1000ピースのパズルを差し入れてくる。図柄がエッシャーの「無限階段」。ピアノも上手だし絵もうまいとても才能のある子だ。だけど親は決して満足せずにあの子にいろいろ要求しつづけていたんだろうなあと思わせる。読める状態じゃないのに英文学の本とかね。この子は治りはしないよ。だって治ったらそんな親のいる家に帰らなきゃならないもの。この子よりも親の方を治療した方がいい。そう考えると、ここにいる人たちが病気で異常だっていうよりも、世間の方が狂っていて、この人たちは必死でそれに合わせようとして適応障害を起こしているんじゃないかとも思う。主人公と同じ薬物過剰摂取で入院した栗田さんも、あんなにまともそうなのに最後また戻って来ちゃって、家でどんなひどいストレスがあるんだろうと推測すると胸が痛む。
 
 いろいろ考えさせられて、でもとびきりおかしくって、悲しくって、サイコーだった。すっかり松尾スズキのファンになってしまった。

映画「鬼婆」(新藤兼人)

2007-11-04 02:19:36 | 映画
 三砂ちづる「オニババ化する女たち」は、結局まだ読んでいない。本の趣旨はまあ、わかるんだけど、「やっぱりいくら女性の社会進出が進んで一生独身の選択肢もアリになってきたからって、セックスや妊娠、出産という動物としての本能みたいなところは大事にしないと、エネルギーが発散できなくて、性格ねじ曲がってオニババになっちゃうのねえ。」というふうに素直に感心はできないんだなあ。これからは女も一生仕事をしていかないと食っていけなくなりそうだのに、子育て支援も十分でないし、男性の意識もまだまだ保守的だ(というよりますます保守的になってきた気がする)し、子供なんか産んでたらへろへろになって倒れてしまうんじゃないか?それをまた追い詰めるようなこと言われてもなあ。みんな後ろから銃撃されたようなイヤーな気がしたのは当然だろう、と思ったものだ。そして、柳沢元厚生労働大臣の「産む機械発言」。
 私はあのとき、テレビのニュースを聞きながら娘に、「子供、生まなくてもいいよ。」と言った。
「女性は~機械という言葉が問題なんじゃなくてね、これはね、何て言っているかっていうと、『お金がないので政府は少子化問題に対して何もできません。自助努力でやってください。』と言ってるの。そういうときに何も考えずに行動するとひどい目に合うからね。動物はね、身の安全が保障されていないときには子供が産めないの。子供よりまず自分の生存を優先するのよ。自分が生きていけない状況じゃ子供どころか結婚だってできないでしょ。もー、若年世代の低賃金だとか、保育所の不足だとか、母子家庭の貧困だとか、育児休暇後の仕事の復帰だとか、問題はいっぱいあるってわかってるのにね、『政府は安心して子育てができるよう、これこれの支援をします』じゃなくって『女性にがんばってもらわないと』ってなに?3人以上産みましょうってことか?ともかく、国が『産めよ、増やせよ』って言ってるときには生まない方がいい。」
 娘は、また変なことを言っているなという顔で「将来結婚して、産める状況で子供が欲しいと思ったら産むから」と言っていたが、「もしかして、これからは昔みたいに普通に結婚して子供を二人くらい持って家を建てて定年まで働くという生活は、ごく一部の恵まれた人たちだけのライフスタイルになるんじゃないんだろうか。」という気がして、私は悲観的になってしまった。
 柳澤元大臣を検索したらWikipediaのページが保護されていた。見てなかったけど、きっとすごい荒しがあったんだろうな。ホワイトカラー・エグゼンプションの影響?ホワイトカラー・エグゼンプションと「産めよ、増やせよ」の組み合わせですよ。国民を機械だと思っていらっしゃるんでしょうか。

 内田樹×三砂ちづる「身体知」(バジリコ株式会社)の中で内田樹氏は謡曲『安達原』を思い出したとおっしゃっている。『安達原』の鬼婆は、発現を阻害されたエロスが暴力的に発動してくるという話なのだそうだ。えっ、そうだったの?『安達原』は私も思い出しのだけど、ただ、何かの原因で村から追い出されて生活している女が人食いになって旅人を襲うという話だと思っていた。
 人里遠きこの野辺の。松風烈しく吹き荒れて。月影たまらぬ閨の内には。いかでか止め申すべき
とは、「私はまだ閉経していませんから男性はお泊めできません」と、旅の僧に言っているのだそうだ。しかし、なおも強引に言われるので根負けし、
 さらば留まり給えとて。樞を開き立ち出ずる。異草も交る茅筵。うたてや今宵しきなまし。強いても宿を狩衣。
ときて、そのあとに
今宵留まるこの宿乃。主の情け深き夜の
とか、 
月もさし入る 閨の内
などという意味深な詞章が続くのだとか。
で、事が終わったあとに、女が「ここは開けてはだめよ」と言って薪を取りに行ったのに、開けて見ちゃってびっくり仰天、死屍累々。
 まったく!女が「見ないで」と言ってるんだから見るなよ!このアホ!そりゃー殺さなきゃいけません。
内田 エロスと社会性は構造的にリンクしていないといけない、ということだとおもうんですね。どれほど劇的にエロティックな経験であっても、たとえば何か月に一ぺん、何年に一ぺんというような頻度であれば、それだけではエロスを核にした安定的な社会関係は作れない。人間は恒常的な性関係のうちにビルトインされていないと、いろいろとトラブルが起きるよというのは、この種の鬼婆譚が発信している重要なメッセージだと思いますね。
『安達原』の鬼婆も性行為の数だけ言えば、そこそこやっているわけです。だけど、相手はつねに旅の男との一夜の交情に過ぎない。エロス的な対関係が構築されるわけではないから、もちろん地域社会の日常活動、共同体の活動にも鬼婆的エロスはコミットしていない。これは完全にプライベートな「密室」の出来事なわけです。エロスが「社会化」されていない。そのことの社会的な危険を告知している物語じゃないかと思うんです。エロスが社会性から解離すると当人の心身の問題だけではなくて、社会的にもネガティブな影響がある。単にエロスの問題でもないし、社会の問題でもなくて、エロス的なものと社会性をどうやってきちんとリンクするのか、それはとても重要な社会的技術なんだ。そういうことだとぼくは思います。

 ふーん、たぶん10年くらいセックスしていない私はどうなるのかな。あー、そうか、私はすでにもうオニババ化しているのかもしれない。なーんだ、それで腹が立つんだな。
 と思っている頃にレンタルビデオ店で新藤兼人監督の「鬼婆」を見つけた。

 物語は戦乱の時代。村を焼かれて芦原に隠れ住んでいる老女とその嫁。落ち武者を撲殺して武具を奪いそれを売って生活している。そこに、同じ村出身の足軽が落ちのびてきて・・・という話だ。老女と言っても昔のことだから四十歳かそこらだろうし、嫁も二十歳そこそこに違いないが、なんともはあ、凄まじく醜く見える。人間の荒々しい欲望がテーマらしい。小さな子犬が迷い込んできたのを「あらまあ、かわいい」と言うかと思っていたらそうではなく、「それ!」と飛びかかって、次のシーンでは串刺しにして火に炙った犬の姿焼を二人で貪り食らっていたのには愕然とした。そうか、犬も猫も、食べられるものは何でも食べなきゃいけないんだ。私はため息をついて、つくづく感心した。この映画のテーマとかはどうでもいいです。後半の、仏教説話か何かにある「鬼の面が取れなくなる話」もどうでもいいです。人を殺して追剥やっていて何が不倫の罪だ。鬼よりおまえの方がよっぽど怖い。でも、戦乱で家を焼かれ、息子を殺され、田畑を耕すこともできなくなった老女は、鬼にでもなって人殺しをするしか生きるすべがなかったのだろう。それを「人でなし」と罵る資格は私にはない。
 そして思った。たとえ戦乱で生活が破壊されても、そのようにして生き抜く人たちはいつの世にもいたのだろう。そうやって生き延びてきた人たちの子孫が私たちなのかもしれない。だとすると、もしもまた、世の中が同じようにめちゃめちゃになったときには、同じようにして生き延びればよいのだ。芦原や山奥に隠れ住み、鳥や獣を喰らい、人を殺して衣を剥ぐ。そのように想像するとなんだか気が楽になってきた。 なんだ、「年を取ったらどうしよう」なんて何も心配することはなかった。私はすっかり鬼婆になった気分でニンマリと笑い、その晩は久しぶりに安眠した。

映画 「グッド・シェパード」

2007-11-01 18:41:06 | 映画
 昨日、映画「グッド・シェパード」を観たが、とてもおもしろかった。ところどころわかりにくいシーンもあるのだが、公式サイトに載っている佐藤優氏の語り下ろしを読むとよく理解できる。たとえば、大学の教授が主人公に詩の朗読をする前後。つまり教授はホモで、主人公にモーションをかけているというわけか。そう考えると、あの詩だって「若草の匂い」だの、「小川のせせらぎ」だの、まだ完全に訪れてはいない早春の情景を詠ったものというより意味深になってくる。「君はまだ目覚めてはいないよ」って。その詩は剽窃だったのだけどね。
 
 それから、主人公が6歳のとき父親が自殺していて、それがどうも機密情報を敵方に漏らしたことが原因らしいというところ。父親は海軍の情報部員だったのか。佐藤氏の解説でやっとわかった。怖いと思ったのは、大学の秘密結社「スカル&ボーンズ」の先輩が、「君の父上は『国家に対する愛国心』に問題ありとされて昇進できなかったと聞いている。」とささやく場面。メンバーの素性を、家庭内の秘密に至るまで知っているのですか。秘密結社って、名門大学にある閉鎖的な学生サークルみたいなものでしょ。別にあやしいとは思わないんだけども、卒業後も毎年集まって会合を開いて、緊密な交友関係が一生継続するとか、OBには政財界の大物がたくさんいて、その人脈が社会に出てからも仕事上で役立つとか、めまいがしそうだ。アメリカの上流階級ってそんなんですね。
 (今プロダクションノートを読んだら、「スカル&ボーンズ」は実在していて、そのメンバーには現大統領のジョージ・W・ブッシュ、その父親のジョージ・ブッシュさらにその父親のプレスコット・ブッシュ、それから大統領選候補だったジョン・ケリーなどがいるとあった。愕然)
 
 佐藤優氏は、著書の中で日本にもCIAとかSISみたいな諜報機関が必要だとおっしゃっている。そのためには、情報収集のエリートを育成する戦前の陸軍中野学校のような育成組織を作る必要があると。なるほど、この映画を観て、インテリジェンスというものが、いかに人の資質にかかっているかということがわかった。どおりで最近、「エリートの育成」とやたら言われるのだ。日本には、「スカル&ボーンズ」みたいな人材バンクはないからなあ。
 
 他に分かりにくかったのは、エドワードがベルリンにいた時、通訳の女性と一夜を過ごし、その女性がスパイであると気づいた瞬間。なんで?補聴器がなくても聞こえていたってこと?こんなふうにこの映画にはちょっとした言葉や仕草が深い意味を持っていることが多く、注意深く見ないと理解できない。しかし、インテリジェンスの世界では、それだけ観察力や記憶力がないと生きていけないってことでもあるのだろう。「真実の中に巧みに紛れ込んだうそを読み取る能力」というやつ。それを教えてくれた教授も、ソ連のスパイだった通訳も殺されてしまう。みんなどんどん殺されていく。そうまでして「国家への忠誠心」を守らなくてはならないのか?キューバ革命に対抗する亡命キューバ軍組織のため、イタリア系マフィアのボスに会いに行ったとき、その老人は言う。「私たちイタリア人には家族と教会がある。アイルランド人には故郷が、ユダヤ人には伝統がある。あんたたちには何があるんだ?」エドワードは答える。「私たちには合衆国がある。あなた方は観光客だ。」なんだか象徴的な言葉だな。
 
 最近宮台真司の本を読んでいたら、ディズニーランドみたいな社会のシステムを目指すべきだと書いてあったのを思い出した。上層は遊園地で、大多数の一般人はそこで楽しく消費生活を謳歌し、下層にはそれを維持管理する複雑な制御システムがあって、そこではごく一握りのエリートが働くというような社会だ。「ゆとり教育」というのはそのような社会を目指すということが前提になっていて、能力もないのに猫も杓子も東大めざして一列になってガリガリ勉強しなくてもいいんじゃないか、能力の高い子には高度な教育を受けさせ、あとの大多数には一般的な仕事と生活に支障をきたさない程度の教育を受けさせるという区別をつけてもいいんじゃないかってことらしい。この映画を見ると、トップエリートだの上流階級だのって辛そうだから、それもそうだなあと思う。私なんか絶対CIAは務まらない。すぐ殺される。そうでなくてもお金に目がくらんでべらべらと秘密情報を喋っちゃう。だって、情報ってお金になるらしいから。エドワードの上司である長官なんかも、スイスの銀行に秘密の口座を持ってせっせと蓄財に励んでいたじゃないですか。けしからんよ!長官にしてこうなのだ。友人も、恋人も、上司も、同僚も、みんな信用できない。そんな過酷な人生をだれが歩みたいものか!

 そういえば、手島龍一・佐藤優「インテリジェンス 武器なき戦争」(幻冬舎新書)の中にこんなエピソードがあった。ソ連崩壊前、モスクワに駐在し情報収集していた日本の外交官が、イズベスチアのコラムで、「妻が一回しか履いたことがないと言って、ブーツをプレゼントしたことがなかったかな?」と書かれたというのだ。それって盗聴されているってことでしょ。あるいはハニートラップ?また、佐藤優・高永「国家情報戦略」(講談社+α新書)に、こんなことも書かれていた。
 在韓アメリカ軍は、最新型のU-2偵察機三機を韓国中部の呉山にあるアメリカ第七空軍基地に配置して、その三機を八時間交代で、一機ずつ飛ばしています。U-2機は高空偵察機なので、休戦ライン近隣の二万五〇〇〇メートル上空から、北朝鮮地域を特殊撮影しています。
 U-2機を通じて収集された情報は、アメリカ太平洋統合軍司令部(CINCPAC)と在韓アメリカ軍および韓国国防省の情報本部に提供されます。U-2機が収集した諜報の他にも、偵察衛星からの写真。通信傍受(盗聴)情報、および人間情報(ヒューミント)が提供され、情報本部はそれを総合的に分析しています。
 これらの情報をベースに、韓米連合司令部は、対北警戒態勢のレベル、すなわち「デフコン」(DEFCON)の程度を決めます。韓国軍はアメリカ軍が運用する高価な諜報衛星と最新U-2偵察機を通して、戦略情報の100パーセントを、そして戦略情報の70パーセントを提供してもらっているといえるでしょう。
佐藤 諜報衛星とU-2偵察機の対北朝鮮偵察能力はどれくらいあるのですか。
 私がアメリカ軍情報当局のNSA関係者(韓国系アメリカ人)から聞いたところによれば、金正日のほんの微細な動き、たとえば息の音まで感知可能なようです。こうしたことを通じて、彼の健康状態まで把握できるといわれました。
佐藤 じつは、中東の某国で、シリアのアサド大統領について、自宅のベッドルームにいるか居間にいるか、そこまで探知しているという話を聞いたことがあります。ですから、高さんの話に意外感は持ちません。

 「そのうち映画「デジャブ」みたいに、あらゆる場所の監視カメラの映像からターゲットの行動がすべて特定できるようになるのじゃないか?」と少し空恐ろしくなった。 

映画「キングダム・見えざる敵」

2007-10-25 00:56:57 | 映画
 「丸腰のボランティア」について書くための長い前置き。
 
 今日は映画「キングダム・見えざる敵」を観てきた。去年、「ナイロビの蜂」「ブラッドダイヤモンド」そして「ダーウィンの悪夢」と立て続けに社会問題を扱った映画を見て驚いたのだが、そこには今までのアメリカ映画にはほとんど見られなかったような、一段深く掘り下げた視点があった。先進諸国の繁栄が南側の貧しい国々を踏みつけにした上に成り立っていること、もはや我々はそのことに関して知らないと言っては済まされないし、アフリカや中東諸国の社会的混乱は「テロとの戦い」などというアホな善悪二元論では解決できない複雑な事情があるのだということに対する自覚だ。「ダーウィンの悪夢」を見て、ナイルバーチが湖の生態系を破壊していることがわかったから、じゃあその魚を食べるのをやめればいいなどという単純な問題ではない。湖から地元漁師が締め出され、自活の道が断たれたために元々の村落共同体が崩壊し、貧困、麻薬、エイズ、ストリートチルドレンといったさまざまな問題が引き起こされている。そして、ナイルバーチを外国に運ぶ輸送機はまた、この国に武器をも運んでくるのだ。わたしたちは発展途上国から資源を吸い取るかわりに、病気や貧困や紛争を輸出しているのか。
 「キングダム・見えざる敵」でも、FBI捜査官が一応ヒーローのように描かれてはいたが、最後にこれで事件は解決したのではないということが示唆される。テロで親友の捜査官を殺されたとき、泣き崩れる女性捜査官に「奴らを皆殺しにしてやる」と慰めた主人公。そしてテロの首謀者である家長が撃たれて死ぬ直前、孫娘に言い残したのは「仲間が、奴らをみんな殺してくれるだろう」という言葉。自爆テロや銃撃のシーンを見過ぎて「もう、お願いだからやめてくれ」と居たたまれない気持ちになった。9・11テロ以後、死者に対する報復と、その報復。報復合戦が泥沼化していて、もはや暴力では解決できないということはみなわかっているのにこの憎悪の連鎖を止められない。
 映画にはまた、華麗な宮殿とそこで豪奢な生活をしている王子も登場する。「王子は1000人以上もいるんだろう。みんなこんな立派な宮殿に住んでいるのかい?」「もっと豪華な宮殿もあります。」「どこから金が出ているんだ?」「○○○○・○○○○・○○○○」(忘れた。石油関連の合弁会社らしい)
ほんとかな?と思ってさっき検索してみたらありました。サウジアラビアの王室事情。
 
 HP「中東経済を解剖する」
(王家の構図―MENAの王族シリーズ・サウジアラビア篇)
 
 現在の正確な王族の人数は不明であるが2,000人前後であると考えて間違いなく、王位継承権者である男性王子(HRHの称号を有する)も1,000人を超えているものと思われる。
 ガー!!もっと驚くのはその下の肩書き一覧。そうそうたるものです。映画でなぜ唐突に王子が出てくるのかと思っていたが、国家警備隊の司令官など要職はすべて王族が占めていたのだ。石油が欲しいアメリカと結託した王室が富を独占して贅沢三昧。池内恵「アラブ政治の今を読む」を読んでもわかるように、民主主義的な選挙など行われようはずはないから、政権を倒すためにはクーデターしかない。貧困層や少数派が過激な思想に走るのも無理はないなあと私でも思う。が、テロリストに共感してしまってはいけないのだ。何の罪もない子供や女性たちが無残な死に方をし、一般市民が銃撃戦の巻き添えになる。映画でFBIを狙ったロケット弾が向かいの住宅に着弾して阿鼻叫喚の大惨事が引き起こされているときに「おい、マジか!」と思わずつぶやいてしまった。そこはあんたたちの同胞の家だろうが。
 テロリストにとって、破壊行為は社会の不安と混乱を引き起こすためのもので、そのようにして社会システムを寸断し、クーデターを成功させようとしているのであるから、いくら人が死のうと知ったことではないのだ。やはり決して許すことのできない行為だ。
 だが、テロリストをせん滅するためと称して軍隊を派遣し、拠点をしらみつぶしに空爆してもそれでテロがなくなるわけではない。イラクがよい例だ。映画では、テロリストの首領を「みんなからロビンフットのように思われている」と言っていたしFBIを警護するはずの兵士や警備隊員も過激派に大なり小なりシンパシーを感じている様子だった。きっと彼らが死んだあとも影響を受けて続々とテロリストが生まれるに違いない。
 いったい、どうすればいいのか。