今から22年前の1988年2月1日、6人の世界王者を育てたボクシングの名トレーナーのエディ・タウンゼントさんがお亡くなりになられました。
仏式で数えるならば、もう今年で23回忌ということになります。本当に早いものです。
エディさんは1914年10月14日、米国のハワイで生まれました。父が米国人、母は日本人の間の子でした。少年時代にボクシングをはじめ、のちにプロに転向します。だが、太平洋戦争によって現役を断念。その後、トレーナーに転向します。
のちに、プロレスラーの力道山が創設したリキジムのトレーナーとして招聘され、1962年に来日。しかし、翌年、力道山が暴漢の凶刃に倒れた後、孤独の身となります。その後、同郷の日系人の藤猛のトレーナーとなって、最初の世界王者を誕生させます。
藤猛以降、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹と6人の世界王者を育てました。また、世界王者以外にも、田辺清、カシアス内藤、ロイヤル小林、村田英次郎、赤井英和らを育てました。エディさんは特定のジムに所属せず、個々の選手の指導を頼まれてジムを転々とするので、「ジプシートレーナー」とも呼ばれました。
エディさんは実績だけでなく、指導方法や人間性が今も高く評価されてます。そのエピソードはいくつかあります。来日当時は精神修養の目的で竹刀でボクサーを叩く悪習がありましたが、「ハートのラブで選手を教える」と主張してジムの竹刀を一掃させました。また、育てたボクサーが勝利した時は祝賀会などには参加せず、逆に負けて傷ついた時はいつまでも側にいて励まして労わったエピソードも有名です。そして、勝ち目が無いと判断した時はタオルを投げるのが早い事でも有名でした。
エディさんが晩年育てたボクサーが井岡弘樹でした。1987年10月18日、井岡は具志堅用高と並ぶ当時の最短記録の9戦目で、WBC世界ストロー級(現・ミニマム級)王座決定戦でマイ・トンブリフラム(タイ)に判定勝利して戴冠。エディさんにとっては6人目の世界王者を誕生させましたが、それまでの5人は既に出来上がったボクサーを面倒見てきました。なので、一から育てたという意味では、井岡が初めてでした。エディさんにとっては井岡はまさに愛弟子です。
井岡は、指名挑戦者・李敬淵(韓国)との初防衛戦が翌1988年1月31日に大阪城ホールで組まれてました。しかし、肝心のエディさんは既に直腸ガンに侵され、車椅子での生活を余儀なくされます。愛弟子の大事な試合を見守ろうとしますが、試合開始直前に意識不明の危篤状態に陥り、急遽病院へ引き返します。師の容態を弟子には知らせないまま、開始ゴングが鳴らされます。
キャリアが少ない者同士で行われたこの一戦。試合の前半は、積極果敢に手数を出して攻めまくる挑戦者の李のペースに、井岡は気圧されます。ようやく終盤から井岡のパンチがヒットし、盛り返します。10回と11回は積極的にパンチを出した井岡のラウンドでしたが、11回までの公式の採点は三者三様の全くのイーブン。ダメージが蓄積してガードが低くなった李へ、井岡が右クロスからの連打でダウンを奪います。なんとか挑戦者は立ち上がりますが、追撃打を浴びせて李はグロッキーとなり、割って入った主審が李を抱き抱えて試合終了を宣告。井岡はキャリア唯一となる世界戦のKO勝利で、初防衛に成功を果たしました。
劇的な形で病床の師匠に勝利を捧げた井岡は病院に駆けつけますが、既にエディさんは意識が不明でした。しかし、その願いも虚しく、試合終了の数時間後の日付が変わった2月1日の未明、エディさんは息を引き取ります。なお、エディさんは愛弟子の勝利の報を聞いた後、右手でVサインを出して喜びを表したそうです。
日本ボクシング界はエディさんの功績を称えて、今から20年前に氏の名を冠した「エディ・タウンゼント賞」を創設し、年間最優秀トレーナーを表彰してます。エディさんは、日本人初の世界王者の白井義男さんを育てたアルビン・カーン博士とともに、日本ボクシング界を支えた偉大な存在として永遠に語り継がれるべき人物だと思います。
☆井岡弘樹vs李敬淵(1988年1月31日 @大阪城ホール)
仏式で数えるならば、もう今年で23回忌ということになります。本当に早いものです。
エディさんは1914年10月14日、米国のハワイで生まれました。父が米国人、母は日本人の間の子でした。少年時代にボクシングをはじめ、のちにプロに転向します。だが、太平洋戦争によって現役を断念。その後、トレーナーに転向します。
のちに、プロレスラーの力道山が創設したリキジムのトレーナーとして招聘され、1962年に来日。しかし、翌年、力道山が暴漢の凶刃に倒れた後、孤独の身となります。その後、同郷の日系人の藤猛のトレーナーとなって、最初の世界王者を誕生させます。
藤猛以降、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹と6人の世界王者を育てました。また、世界王者以外にも、田辺清、カシアス内藤、ロイヤル小林、村田英次郎、赤井英和らを育てました。エディさんは特定のジムに所属せず、個々の選手の指導を頼まれてジムを転々とするので、「ジプシートレーナー」とも呼ばれました。
エディさんは実績だけでなく、指導方法や人間性が今も高く評価されてます。そのエピソードはいくつかあります。来日当時は精神修養の目的で竹刀でボクサーを叩く悪習がありましたが、「ハートのラブで選手を教える」と主張してジムの竹刀を一掃させました。また、育てたボクサーが勝利した時は祝賀会などには参加せず、逆に負けて傷ついた時はいつまでも側にいて励まして労わったエピソードも有名です。そして、勝ち目が無いと判断した時はタオルを投げるのが早い事でも有名でした。
エディさんが晩年育てたボクサーが井岡弘樹でした。1987年10月18日、井岡は具志堅用高と並ぶ当時の最短記録の9戦目で、WBC世界ストロー級(現・ミニマム級)王座決定戦でマイ・トンブリフラム(タイ)に判定勝利して戴冠。エディさんにとっては6人目の世界王者を誕生させましたが、それまでの5人は既に出来上がったボクサーを面倒見てきました。なので、一から育てたという意味では、井岡が初めてでした。エディさんにとっては井岡はまさに愛弟子です。
井岡は、指名挑戦者・李敬淵(韓国)との初防衛戦が翌1988年1月31日に大阪城ホールで組まれてました。しかし、肝心のエディさんは既に直腸ガンに侵され、車椅子での生活を余儀なくされます。愛弟子の大事な試合を見守ろうとしますが、試合開始直前に意識不明の危篤状態に陥り、急遽病院へ引き返します。師の容態を弟子には知らせないまま、開始ゴングが鳴らされます。
キャリアが少ない者同士で行われたこの一戦。試合の前半は、積極果敢に手数を出して攻めまくる挑戦者の李のペースに、井岡は気圧されます。ようやく終盤から井岡のパンチがヒットし、盛り返します。10回と11回は積極的にパンチを出した井岡のラウンドでしたが、11回までの公式の採点は三者三様の全くのイーブン。ダメージが蓄積してガードが低くなった李へ、井岡が右クロスからの連打でダウンを奪います。なんとか挑戦者は立ち上がりますが、追撃打を浴びせて李はグロッキーとなり、割って入った主審が李を抱き抱えて試合終了を宣告。井岡はキャリア唯一となる世界戦のKO勝利で、初防衛に成功を果たしました。
劇的な形で病床の師匠に勝利を捧げた井岡は病院に駆けつけますが、既にエディさんは意識が不明でした。しかし、その願いも虚しく、試合終了の数時間後の日付が変わった2月1日の未明、エディさんは息を引き取ります。なお、エディさんは愛弟子の勝利の報を聞いた後、右手でVサインを出して喜びを表したそうです。
日本ボクシング界はエディさんの功績を称えて、今から20年前に氏の名を冠した「エディ・タウンゼント賞」を創設し、年間最優秀トレーナーを表彰してます。エディさんは、日本人初の世界王者の白井義男さんを育てたアルビン・カーン博士とともに、日本ボクシング界を支えた偉大な存在として永遠に語り継がれるべき人物だと思います。
☆井岡弘樹vs李敬淵(1988年1月31日 @大阪城ホール)