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うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

浜田剛史の衝撃の世界王座奪取から四半世紀

2011年07月24日 | ボクシング
今からちょうど25年前の1986年7月24日、東京の両国国技館で行われたWBC世界J・ウェルター級タイトルマッチ(現在の名称はS・ライト級)で、挑戦者の浜田剛史が王者のレネ・アルレドンド(メキシコ)に挑みました。

サウスポーのファイターの浜田はデビュー以来自慢の強打でKO勝利を重ねてましたが、如何せんパンチ力が強過ぎるあまり、なんと左拳の同じ個所を4度も骨折。完治するまでに約2年のブランクを作るハンディを負いました。しかし、復帰以降は9連勝を飾り、ライト級の日本王座と東洋太平洋王座を獲得します。さらに、その間に15連続KO勝利を飾り、当時の連続KO勝利の日本記録も打ち立てます。浜田は右膝にも爆弾を抱えてましたが、1階級上げてJ・ウェルター級の世界王座に満を持して初めて挑みました。

一方、世界王者のアルレドンドは、この浜田戦が初防衛戦でした。長兄のリカルドがJ・ライト級(現在の名称はS・フェザー級)の元WBC王者で日本のボクサーと何度も拳を交わし、日本をホームリングにしていた次兄のチバは元日本フェザー級王者だったので、文字通りのボクシング一家に育ちました。身長181cm、リーチ184cmのアルレドンドは長身痩躯の右アウトボクサーで、打ち下ろす右ストレートと切り返しの左フックに定評がありました。浜田とは、身長差が11cm、リーチ差が10.5㎝もあり、体格差は歴然でした。なので、浜田はアルレドンドに距離を取られて長丁場の戦いになったら不利な展開となるので、被弾を覚悟の上で接近して戦い、速戦即決が求められました。

この1980年代半ば頃の日本ボクシング界は低迷の真っ只中でした。1986年3月30日、4年間もの長期政権を築いていたJ・バンタム級(現在のS・フライ級)のWBC世界王者の渡辺二郎が、指名挑戦者のヒルベルト・ローマン(メキシコ)に小差の判定で敗れ、5度目の防衛に失敗(なお、渡辺はWBA同級王座を6度防衛)。約5年ぶりに日本に世界王者が不在となりました。浜田が挑むJ・ウェルター級は、かつて「ハンマーパンチ」で有名な藤猛が保持したことがありますが、日本人には壁が厚い階級でした。それだけに、ボクシングファンは浜田の2つの拳に期待し、同時に日本ボクシング界の運命も託されました。ただ、夏の甲子園を主催する某新聞の辛口記者が「経費が掛かる中量級の世界王者を日本に招聘出来たのは、最近の急激な円高の恩恵だ」と意地悪く書かれたように、地元で戦っても前評判が厳しい見方をされたのも事実でした。

午後7時半過ぎ、リングアナウンサーがこの日のメインイベントの開始を告げます。まず、ボニー・タイラーの「ヒーロー」を入場曲にのせて挑戦者の浜田が入場。両国国技館に駆け付けた1万人の大観衆の拍手の中、沖縄の守り神であるシーサーと自分の名前を背中に刺繍した白いガウンを身に纏った浜田は、青コーナー付近で白いシューズにたっぷりと松脂を塗ってリングに上がり、何か思いつめた表情で四方に礼をしました。続いて、王者のアルレドンドが日本製の法被を着て、マイアミサウンドマシーンの「コンガ」を入場曲にのせて登場。王者は減量の影響が心配されてましたが、父と2人の兄とともに陽気な表情で赤コーナーからリングに上がりました。この日の両者の表情はあまりにも対照的でした。

初回の開始ゴング早々、浜田はひたすら前進してプレッシャーを掛け、前傾姿勢からアルレドンドをロープに釘付けにして徹頭徹尾に渡って連打を繰り出します。挑戦者の思わぬ奇襲を喰らってペースを握られた王者は、顔面をガードで固めてクリンチをするだけで精一杯でしたが、決定的な被弾だけは辛うじて免れます。1分35秒過ぎ、それまで守勢に回っていたアルレドンドでしたが、左フックを浜田の顔面に浴びせ、その際に体を入れ替えてロープ際に挑戦者を押し込んで一気に逆襲を仕掛けます。しかし、浜田は何とか堪え、再びロープ際に王者を押し込んで攻勢を仕掛けます。やはり、アルレドンドは敵地での初防衛戦の重圧や減量の影響なのか体がやや重く、ラウンドの終盤には鼻血を出すなど、明らかに精彩を欠きます。

浜田が優勢のまま、このラウンドを終わるかと思われた残り10秒。頭を相手の体に付けて攻勢を続けた浜田は、アルレドンドが右フックを放ったと同時に、自身も右フックをカウンターで合わせます。実は浜田は左拳を負傷して2年間もリングから遠ざかっていた間、いつの日か復帰出来る日を信じて、右拳だけで散々サンドバッグを叩いて練習して来ました。この浜田の渾身の右フックが一瞬早く捉え、アルレドンドは大きく腰を落とします。浜田は畳み掛けるように連打を浴びせ、ついにアルレドンドはリングの上に大の字に。主審がカウントを数えますが、アルレドンドは身動きが全く取れず、ついに浜田がKO勝利で念願の世界王座を奪取。所属する帝拳ジムからは、故・大場政夫以来、実に13年ぶりの世界王者誕生でもありました。なお、KOタイムは1回3分9秒でした。

この時の私は中1でしたが、新王者誕生の瞬間、興奮の坩堝と化した国技館に無数の座布団が乱舞していたのを、今でもハッキリと覚えてます。まるで、日本ボクシング界に救世主が現れたような感じだったので、私もテレビに向かって自然と万歳三唱をしました。それだけに、負傷が尾を引いて短命王者で終わったのが、本当にもったいなかったですね。浜田は、まさに「太く短く」を実践した世界王者でもありました。



☆まだこの当時はリング上でお互いの陣営が立会いの下、グローブを付けていた時代でした。
 もう既にお亡くなりになられた方もおりますが、来賓の元王者や会場に駆け付けたゲストの方がまだ若いですね。



☆僅か189秒の衝撃的な1回KO勝利で浜田が初の世界王座を戴冠(1986年7月24日 @両国国技館)



☆立場が入れ替わった両者は1年後に同じ両国国技館で再戦。この試合は左を有効に使ってリングを広く戦ったアルレドンドが優勢に展開。6回に浜田の顔面に左アッパーを散々浴びせて主審がストップし、KO勝利で王座返り咲きを果たします。
(1987年7月22日 @両国国技館)

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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あれは衝撃的でした (こーじ)
2011-07-31 00:38:00
 浜田を語るときに思い出していたのが海老原。
 共に強打のサウスポーで拳の骨折に泣かされていたのですが、実際に海老原同様1RKOでのタイトル奪取は妙な偶然を感じさせましたし両国国技館に乱れ飛んだ座布団はファイティング原田がポーン・キングピッチをKOした時に乱れ飛んだ座布団を思い出しましたよ。

 しかも両国国技館は旧・日大講堂。
 ジムの先輩である大場政夫は世界戦を全てこの会場で行ってましたし、日大講堂自体が日本人選手にとって相性のいい会場でしたし。

 この試合を中継するために2時間も枠を取り
浜田のキャリアを描いた佐瀬稔がプロデュースしたプロローグもよかったですし、その中で見えない明日を信じながら右手だけでサンドバッグを打っていたシーンが印象的でしたけど まさかその右フックが流れを引き込んだ形になりましたね。

 倒されたアルレドントは この試合のダメージでリマッチでは奪回したものの、すぐにタイトルを手放すハメになってしまいました。

 芦沢アナの‘浜田のパンチが世界を制しました’という実況は今でも忘れられません。
 
 これも浜田の苦労を知っているからこそで、
こういうバックボーンがあるからこそボクシングは単調な競技ながら人の心をときめかせますが、某兄弟の試合とは真逆のものですね。

 ちなみに放送終了後には大場政夫物語がOA
されたのも すごく嬉しいものがありました。 
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コメントありがとうございます (猫なべ)
2011-07-31 23:23:50
こんばんは、こーじさん

たしか、この浜田vsアルレドンド戦は1985年に両国国技館が新装されてから初めて挙行された世界戦の記憶があります。
あと、浜田は世界戦が3試合とも両国でしたね。
白いガウンとシューズを身に付けた浜田が青コーナーに向かって通路を悠然と歩く姿はとても貫禄があり、今あの映像を観返しても眩く映ってしびれますね。

それにしても、この当時のボクシングの世界戦の中継は本当に良かったですよね。
テレビ中継にしても最低90分はあったし、リングアナが過去の世界王者を紹介されるシーンもありました。
各局とも豊富な知識と経験をたくさん積んだベテランのアナウンサーが実況し、試合が早く終わっても過去の世界戦の名場面を放送したので、ファンにとっては飽きがありませんでした。

それに引き換え今の中継ときたら、まるでバラエティー番組の軽いノリなので、格調というものが全く無いです。
中でも、劣化を極めたのが、例のあのチン○ラ一家を中継するT豚Sです。
白井さんと郡司さんが今のテレビ中継の体たらくぶりを見たら、きっと草葉の陰で泣いてますね。
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