
バンクーバー冬季五輪予選を兼ねたフィギュアスケートの全米選手権は16日、米ワシントン州スポケーンで行われ、2枠を争うペアで井上怜奈、ジョン・ボルドウィン組は173・18点の3位に終わり、7位だったトリノ大会に続く五輪の代表には選ばれなかった。演技後に2人は引退を表明した。
33歳の井上は1992年アルベールビル五輪のペア、94年リレハンメル五輪の女子に日本代表として出場した。その後に見つかった肺がんを米国で治療し、2005年に米市民権を取得。米国代表でトリノ五輪に出場した。
前日のショートプログラム(SP)で4位と出遅れた井上組はこの日のフリーで115・41点の2位に入ったが、合計点で2位に0・60点及ばなかった。SP1位のケイディー・デニー、ジェレミー・バレット組がフリーも1位で優勝し、2位のアマンダ・エボラ、マーク・ラドウィグ組とともに五輪代表に選ばれた。
〔共同通信 2010年1月17日の記事より 写真はトリノ五輪のSPでスロートリプルアクセルを決める瞬間 〕
* * * * *
井上怜奈&ジョン・ボルドウィン組はとても大好きなペアなので、バンクーバー五輪で見られないのは本当に残念です。米国のバンクーバー五輪のペアの出場枠は2つ。井上&ボルドウィン組はフリーで得意のスロートリプルアクセルを見事に決めるものの、総合3位に終わり、五輪出場を逃しました。しかも、2位のペアとの総合得点が僅か0.60点差だっただけに、本当に惜しいの一言です。やはり、SPで得点が伸び悩んで4位発進と出遅れたのが響いた格好となりました。そして、米国代表を賭けたこの選考会で敗れたのを最後に、2人は競技生活からの引退を表明しました。
井上怜奈はかつては日本代表選手としてアルベールビル五輪(ペア)とリレハンメル五輪(シングル)で出場したスケーターです。長野五輪ではたった1つしか枠が無かったシングルで出場を目指すものの、1997年12月の全日本選手権で3位に終わり、荒川静香に敗れて五輪出場を逃します。その後、再びペアの選手となって渡米して練習拠点を移します。しかし、ここからが、井上にとって本当の苦難の日々が始まりでした。
井上は長野五輪の前に最愛の父を肺がんで亡くしますが、今度は自身も同じ病を患います。しかし、井上は肺活量低下を考慮して、あえて手術をせずに抗がん剤の治療を選択します。幸いにも病気は完治しますが、今度は練習中の大怪我で心身ともに重傷を負ってしまいます。更には、卵巣を片方破裂させて卵巣摘出する事態となり、辛い闘病生活を送りました。ただ、井上は病気を一切言い訳にせずに競技生活に打ち込みます。
また、拠点を米国に移してペアの活動を続けるものの、決して順調ではありませんでした。というのも、米国の場合はじっくりとパートナーとの連係を磨くよりも、直ぐに結果を求める傾向があったからです。その為、中々相性のよい相手が見つかりませんでした。そんな中、運命の相手であるジョン・ボルドウィンに巡り合います。
その後、2人は競技活動を通じて恋人になり、着々と実績を残します。そして、井上は大きな決断をします。それは、米国国籍を取得したことです。言うまでも無く、トリノ五輪に参加するためだからです。日本のペアの場合は、どうしても男子選手の体格が小さい為、いくら女子選手のレベルが高くても演技では世界のトップクラスの選手と比較して大きく見劣りします。しかし、同時にこの選択は日本国籍の放棄を意味します。井上にとっては苦渋の決断でした。
2006年1月、井上&ボルドウィン組は五輪出場を賭けて全米選手権に挑みます。SPではスロージャンプを試みますが失敗。順位も4位発進となりました。トリノ五輪での米国の出場枠は2だったのでまさに崖っぷちでした。勝負を賭けたフリーではプログラム後半で世界初のスロートリプルアクセルを成功。ほぼ完璧な演技で逆転優勝を果たして五輪出場権を獲得。井上にとっては3大会ぶり3度目の五輪出場が決定。同時に、日本代表選手として五輪出場経験のある選手が、異なる国で五輪出場を果たした最初の選手となりました。
☆トリノ五輪出場を決めた2006年全米選手権のフリーの演技
そして迎えたトリノ五輪。SPでは五輪史上初のスロートリプルアクセルを成功して6位になり、メダル獲得に向けて好位置につけます。フリーでも再度スロートリプルアクセルを試みますが、着氷に失敗して7位に終わり惜しくも表彰台を逃します。しかし、スロートリプルアクセルを成功させたこともあり、通常なら上位入賞者だけが出場する五輪のエキシビジョンに特別参加しました。
その後、井上はアマチュアでの競技の引退を表明しますが、ボルドウィンの説得で撤回し再び競技を続行。2008年に準優勝した全米選手権のフリーでの演技終了後、跪いたボルドウィンは井上の耳元で何かを囁きます。それを聞いた井上は驚きの表情とともに返事をし、暫くして堪えきれずに涙をこぼします。それが生命保険会社・アフラックのCMでも有名になった「氷上のプロポーズ」です。
☆氷上のプロポーズ(2008年1月26日 全米選手権)
元々、2人は今季限りで競技生活の引退を宣言してました。なので、本来であればバンクーバー五輪で有終の美を飾りたかったと思います。しかし、井上は「最高だった。こういう風に現役最後を終えられたら良いと思っていた通りにできた。これ以上望むことはない」とコメントしてましたが、嘘偽りはないと思います。
井上は五輪では残念ながらメダルこそ獲得できませんでしたが、世界中のスケートファンから愛された記憶に残るスケーターです。山あり谷ありで波乱万丈でしたが、決して悔いの残らない競技生活だったと思います。今後とも、後進の指導などでスケート界に携わってほしいです。そして、人よりも苦労をした分、幸せな生活を送ってほしいです。
☆NHK「英語でしゃべらナイト」でのインタビューより(2006年5月12日放送より)
☆現役最後となった全米選手権のフリーの演技(2010年1月16日 @米ワシントン州スポケーン)
33歳の井上は1992年アルベールビル五輪のペア、94年リレハンメル五輪の女子に日本代表として出場した。その後に見つかった肺がんを米国で治療し、2005年に米市民権を取得。米国代表でトリノ五輪に出場した。
前日のショートプログラム(SP)で4位と出遅れた井上組はこの日のフリーで115・41点の2位に入ったが、合計点で2位に0・60点及ばなかった。SP1位のケイディー・デニー、ジェレミー・バレット組がフリーも1位で優勝し、2位のアマンダ・エボラ、マーク・ラドウィグ組とともに五輪代表に選ばれた。
〔共同通信 2010年1月17日の記事より 写真はトリノ五輪のSPでスロートリプルアクセルを決める瞬間 〕
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井上怜奈&ジョン・ボルドウィン組はとても大好きなペアなので、バンクーバー五輪で見られないのは本当に残念です。米国のバンクーバー五輪のペアの出場枠は2つ。井上&ボルドウィン組はフリーで得意のスロートリプルアクセルを見事に決めるものの、総合3位に終わり、五輪出場を逃しました。しかも、2位のペアとの総合得点が僅か0.60点差だっただけに、本当に惜しいの一言です。やはり、SPで得点が伸び悩んで4位発進と出遅れたのが響いた格好となりました。そして、米国代表を賭けたこの選考会で敗れたのを最後に、2人は競技生活からの引退を表明しました。
井上怜奈はかつては日本代表選手としてアルベールビル五輪(ペア)とリレハンメル五輪(シングル)で出場したスケーターです。長野五輪ではたった1つしか枠が無かったシングルで出場を目指すものの、1997年12月の全日本選手権で3位に終わり、荒川静香に敗れて五輪出場を逃します。その後、再びペアの選手となって渡米して練習拠点を移します。しかし、ここからが、井上にとって本当の苦難の日々が始まりでした。
井上は長野五輪の前に最愛の父を肺がんで亡くしますが、今度は自身も同じ病を患います。しかし、井上は肺活量低下を考慮して、あえて手術をせずに抗がん剤の治療を選択します。幸いにも病気は完治しますが、今度は練習中の大怪我で心身ともに重傷を負ってしまいます。更には、卵巣を片方破裂させて卵巣摘出する事態となり、辛い闘病生活を送りました。ただ、井上は病気を一切言い訳にせずに競技生活に打ち込みます。
また、拠点を米国に移してペアの活動を続けるものの、決して順調ではありませんでした。というのも、米国の場合はじっくりとパートナーとの連係を磨くよりも、直ぐに結果を求める傾向があったからです。その為、中々相性のよい相手が見つかりませんでした。そんな中、運命の相手であるジョン・ボルドウィンに巡り合います。
その後、2人は競技活動を通じて恋人になり、着々と実績を残します。そして、井上は大きな決断をします。それは、米国国籍を取得したことです。言うまでも無く、トリノ五輪に参加するためだからです。日本のペアの場合は、どうしても男子選手の体格が小さい為、いくら女子選手のレベルが高くても演技では世界のトップクラスの選手と比較して大きく見劣りします。しかし、同時にこの選択は日本国籍の放棄を意味します。井上にとっては苦渋の決断でした。
2006年1月、井上&ボルドウィン組は五輪出場を賭けて全米選手権に挑みます。SPではスロージャンプを試みますが失敗。順位も4位発進となりました。トリノ五輪での米国の出場枠は2だったのでまさに崖っぷちでした。勝負を賭けたフリーではプログラム後半で世界初のスロートリプルアクセルを成功。ほぼ完璧な演技で逆転優勝を果たして五輪出場権を獲得。井上にとっては3大会ぶり3度目の五輪出場が決定。同時に、日本代表選手として五輪出場経験のある選手が、異なる国で五輪出場を果たした最初の選手となりました。
☆トリノ五輪出場を決めた2006年全米選手権のフリーの演技
そして迎えたトリノ五輪。SPでは五輪史上初のスロートリプルアクセルを成功して6位になり、メダル獲得に向けて好位置につけます。フリーでも再度スロートリプルアクセルを試みますが、着氷に失敗して7位に終わり惜しくも表彰台を逃します。しかし、スロートリプルアクセルを成功させたこともあり、通常なら上位入賞者だけが出場する五輪のエキシビジョンに特別参加しました。
その後、井上はアマチュアでの競技の引退を表明しますが、ボルドウィンの説得で撤回し再び競技を続行。2008年に準優勝した全米選手権のフリーでの演技終了後、跪いたボルドウィンは井上の耳元で何かを囁きます。それを聞いた井上は驚きの表情とともに返事をし、暫くして堪えきれずに涙をこぼします。それが生命保険会社・アフラックのCMでも有名になった「氷上のプロポーズ」です。
☆氷上のプロポーズ(2008年1月26日 全米選手権)
元々、2人は今季限りで競技生活の引退を宣言してました。なので、本来であればバンクーバー五輪で有終の美を飾りたかったと思います。しかし、井上は「最高だった。こういう風に現役最後を終えられたら良いと思っていた通りにできた。これ以上望むことはない」とコメントしてましたが、嘘偽りはないと思います。
井上は五輪では残念ながらメダルこそ獲得できませんでしたが、世界中のスケートファンから愛された記憶に残るスケーターです。山あり谷ありで波乱万丈でしたが、決して悔いの残らない競技生活だったと思います。今後とも、後進の指導などでスケート界に携わってほしいです。そして、人よりも苦労をした分、幸せな生活を送ってほしいです。
☆NHK「英語でしゃべらナイト」でのインタビューより(2006年5月12日放送より)
☆現役最後となった全米選手権のフリーの演技(2010年1月16日 @米ワシントン州スポケーン)