nekomitu日記

ポンコツ日記

バレてる。。

2015-11-14 18:03:15 | 日記
最近、親しい友達に唐突にこう言われました…

「あなたって、男よりも男らしい性格と、ロマンチックで繊細な乙女の性格が共存しているみたいな性格ね・・本当に変わってる…」
その瞬間..「私がロマンチックな乙女っ!!」と、強烈な嫌悪感が込み上げ、まるで半裸を見られたかのような恥ずかしさに襲われ、思わず顔を隠してしまいました..

自分でも「何か..私って厄介な性格だわ..オカマみたい..」とうっすら自覚はあったものの、そうやって言葉で面と向かって言われると実に恥ずかしい…

そうです..まぎれもなく..私の中では、「ちょっとガラの悪い短気な男」と、「ロマンチックで繊細な乙女」が、常に喧嘩をしているのです..
しかも窮地に立たされた時や、究極の選択を迫られた時に、強烈な主導権争いが勃発します(笑)
で・・・結局ほぼ毎回「男」が主導権を握り勝利します(笑)

こんな厄介な性格も、どちらも自分の本質だと受け入れてはいたのですが、周りには「バレてない..」と思っていました。この話から
尊敬するセラピストの方がこの状況を「カツラの法則」として説明されていたのを思い出します。

(以下文献一部抜粋)
多くの人が「本質の自分」を隠して生きています。なぜ隠すのかというと「恥ずかしい」「かっこわるい」「嫌な奴だと思われる」という、世間の評価を気にされているからです。

たとえば、本当は怒りっぽいのに、そうでないふりをしていたり、本当はエッチなのに、そうでないふりをしたり(笑)、本当は優しいのに、厳しい上司のふりをしてみたり。
そんな風に、本当の自分を隠して「いいひと」「あるべき姿」「役割」の仮面をかぶって生きているから、苦しくなってくる。息ができない。そんな人にはこういいます。

「残念ながら・・ばれてますよ」

たとえば、カツラを使っている方は、かなりの確率で周囲の人にはわかりますよね。でも、本人がばれていないと思っていたら、
周囲の人はそのようにふるまいます。わざわざ「かつらですよね」とは言いません。…(以下省略)

というものです。

ただ、私の場合…未だにどちらが「隠している本質」なのかよくわかりません…
上手く共存していこうと思っていましたが、
その友達いわく…私は「男の方が表に出ている時が、表情がキラキラしてる..」というのです。

友達は恐らく、「あ!今男だ..」「あ!今乙女だ!..」と、私を客観的に観察しているという事です..
こうなったら隠しても無駄な抵抗なわけです…無意識に出ているものを意識的に使い分けるほど器用ではありません..

以前、こんな事もありました…
男性の部下の前で、油断して、乙女の部分で恋愛の話をした時、「わっ!何言ってるんですか!聴きたくない!気持ち悪いっ!」と耳を塞がれたことがあります(笑)
「おいおい..そこまで拒否しなくても…」と苦笑いしましたが、それほど彼にとって私は「男」であってほしかったのでしょう。。

結婚生活においても、旦那様に、精神的に頼ったり、甘えることも、泣くことも殆どせず、「愛してるよ・・」と
冗談で言われただけで「気持ち悪いっ!」と言って殴るくらい「可愛げのない嫁」「たくましい嫁」としてい続けた感じです。。

私は、このように周りの期待に添うように、常に強気の自分であるように虚勢を張って
「ロマンチックで繊細な乙女」の部分を出すことを、良しとしない環境に身を置いてきたことも確かです・・
だからバレない様に蓋をして隠し続けたのかもしれません。でも、時々たまらず顔を出す…そんな感じです。そうやって「オカマ」として進化していったのでしょう。。(笑)

こうなったら「オカマで何が悪い!!」と開き直ることにして、何も隠さず楽に生きて方がいいな。。と思う今日この頃
自分の中の恥ずかしい部分・・知られたくないと思って隠している部分・・

皆あると思います。。だけど意外と周りにはバレているので無駄な抵抗しない方がいいのかもですね。。

ホスピタリティ

2015-11-11 13:22:34 | 日記
唐突ですが「三献の茶」という逸話をご存じだろうか…
私は「ホスピタリティマインド」=「おもてなしの心」について語るうえで一番わかりやすい逸話だと思っている。

戦国時代、14~16歳という年齢でありながら、将来の天下人なる豊臣秀吉を心酔させた人物がいる。佐吉という少年、
後の石田三成である。あるとき、秀吉は鷹狩で出かけたその帰り道に喉が渇いたため、観音寺に立ち寄った。

その際、秀吉を相手に接客したのが佐吉少年だった。秀吉は佐吉にお茶を所望した。
佐吉は茶碗にぬるめのお茶を8分目程度入れ、秀吉に飲ませた。ぐっと一気に飲み干した秀吉は、さらにもう一杯所望し、
佐吉は先程よりも少し熱めのお茶を同じ茶碗の半分程度に入れ、秀吉に飲ませて再びもう一杯所望された。

佐吉は、今度は小さめの湯のみに熱いお茶を少量入れて秀吉に飲ませたところ、秀吉は大いに満足したという。
まずは、ぬるめのお茶で秀吉の喉の渇きを潤し、その後に熱いお茶の味を堪能させようとした佐吉の気働きに感心した秀吉は、
お寺の住職に頼み込み、自らの家臣として佐吉を抱えたのである。これが秀吉と三成との初めての出会いのことである。
体を動かしたら、水分が欲しくなるのは人間として当たり前の欲求である。(一部文献より抜粋引用)

この人間心理を上手く読んだ石田三成の感動のなおもてなしこそ「ホスピタリティ」の基本だと思う。

つまり「期待を超えたところに感動がある」という事だ。

以前私が、秘書の職務に就いて最初のころこんな事があった…

社長から「水を一杯ちょうだい..」と言われ、私は何も聞かずに「ぬるま湯」を出した事がある。

それを口にした社長が「おぉ…さすがだね…些細なことだけどなかなかできる事じゃない。こうゆう気配りが何より大切なんだよ…いい女とはこうゆう事がさりげなくできる人だよ・・」
と褒められとても嬉しかった経験がある。それはかなり嬉しくて有頂天になり社長室を出た瞬間にガッッポーズをした自分を覚えている・・(笑)

私が敢えてぬるま湯を出した背景は、その数時間前社長が「少し歯が痛いな..」と漏らして
いたのを覚えていて「水を頂戴」=「薬を飲む」と察した私は、歯が痛いなら水はしみるのではないか?と思いぬるま湯を出したのだ。

ただこれは、自分も歯が痛くて薬を飲むときはぬるま湯で飲んでいたから、単純にそうしただけの話である。

相手動向をよく観察して、相手の立場になり何を求めているかを察知する
そして行動する..という事だと思う。

少し話が逸れるが、私はこの当時、バリバリの亭主関白だった主人に心から感謝した。なぜならば家庭でも同様の事を普通にやっていたので、
「背景を読み、察して動く」という習慣が何となく付いていた。教えられなくても出来たことが多々あったからだ。

今思えば公私ともに、毎日が緊張感の連続….私が、当時よく冗談で言っていた言葉「私は仕事場にも家庭にも社長がいる」と…我ながらよく頑張ったと思う…(笑)
だが実は、亭主関白の主人に滅私奉公みたいな感覚は一切なかった。

単純に「機嫌が悪いと私が、めんどくさい」と思い「何をやったら機嫌がいいか?」を日々観察し「機嫌よくいてくれるためのポイント戦略」をやっていただけ..
結局は、自分のためにやっていたのだ。極端な話、それさえ出来ていれば喧嘩したり、機嫌が悪くなる事もなくとても平和だったから..(笑)

そう思えば、相手に心からのおもてなしをする事で、「感動した!」とか「有難う!」という言葉が返ってきて何より気持ちがいいのは自分自身という事だ。
そして何より「喜んでもらった」という経験が更に「もっと喜んでもらうためには?」と考えるようになる。

それ以降、私はホスピタリティを語る時「相手も自分も幸せになる為のスキル」と思うようになった。
そして、その当時社長から教えていただいた思いやりホスピタリティの基本「自分の目の前にいる人を一番大切な人と思って接しなさい」という事。。対お客様に限らず全ての人に対してそれができるようになれば心地よい人間関係が築ける。。この教えが

カウンセラーとなった私の中に今も残っている。
そして、私もたまにはおもてなしを受けたい。。とぼやく…(笑)


メガネ

2015-11-10 13:07:49 | 日記


私は以前、極端な二極思考で苦しんだ事があります。

そしてこの「性格」は変わらないと思っていました。「白か黒か」「やるか・やらないか」「好きか嫌いか」「どちらが正しいか?」などです・・
一概に悪いことばかりでは無いのですが、それ以外の選択肢が出た場合、納得できずにいました..。しかし、自分が「性格」と思い込んでいたのが「癖」だとわかり、
今ではその癖もなくなりつつあります・・

例えば…こんな感じ
女性同士のグループセッションの中でよく耳にするやり取り・・

「あの人のやり方考え方はおかしいよね・・どう考えても間違っている..」
「普通はこう考えるよね..」→「そうだよね・・」
「普通こうあるべきだよね..」→「私もそう思う」
「○○でなければならない・・」→「そうそう..」

共感的に聴いている会話の様ですが、本当は実に違和感のある会話..

そこで私は、こう質問するんです。「その普通って何だろう?」と…

そうすると返ってくる答えは「一般的に」「常識として」「人として」…などの答えが返ってくる。
つまり、その「普通」とはその人自身の価値観であり、その価値観というフィルターを通して見るから、違っていたら「普通じゃない」「間違っている」と判断する。
しかし、自分にとっての普通が相手にとっての普通とは限らないこうやって相手を「偏見」というメガネをかけて見てしまっている訳です。

また、これもよくある会話

私があんな言い方したから、相手は「○○と思っているに違いない」
私がこれを言ったら、相手は「○○と言うかもしれない」
「きっとあの人は私の事をこう思っている..」など..
その時、私はこう質問する「それは、その人に確認したのですか?」「直接言われたのですか?」「事実ですか?」「何故そう思うのですか?」と

そうすると返ってくる答えは...

「多分..」「なんとなく..」「言われてないけど絶対にそう..」「間違いなく..」
次に私はこう質問する「では、私が今、何を考えてあなたの事をどう思っているかわかりますか?」と・・
そうすると答えは「….わかりません」となる。つまり、相手が何を考え、どう思っているかはその本人にしかわからないという事です。
相手に確認したわけでもなく、事実とも違う…

これは「憶測」や「思い込み」というメガネをかけて相手を見ている訳です・・

このように、「偏見」や「憶測・思い込み」というメガネをかける事によって、自ら悩みを作り出し人間関係を悪くしている場合があります。。
そして、そのことに囚われてしまって悩みから離れられず、その事柄に執着し、自らがんじがらめになっている場合があります。

これは、一つの思考の「癖」なんですね…この「癖」に気づいて、コミュニケーションで解決する習慣、
自分の感情をコントロール又は消化できるようになれば人間関係の悩みの大半は解決できるかもしれません。

とはいえ…人間は感情の生き物ですから、衝動的に湧き上がってくる自分の厄介な「癖」との日々闘いなのです。。

「他人と過去は変えられない。変えられるのは未来と自分自身」という言葉があるように

自分の思考の癖に気づいて、自ら変わる努力をした方が、思い通りにならない他人を変えようとする事で伴う、苛立ちや期待を裏切られたと嘆く事もなく、楽に生きていけるのかも知れません。。

無関心

2015-11-07 22:58:43 | 日記
秋晴れの気持ちいい一日でした。


先日オフィスで行った、グループセッションの中でこんな話が出ました…
「親は私の事に無関心なんです。だから私が何をやっても別に構わないんです..。」
と言って買い物依存や飲酒などの問題行動から抜けられない女性がいました。

この「無関心」という言葉に、マザーテレサの名言を思い出します…
愛の反対は憎しみではなく、無関心です。世界で一番恐ろしい病気は、孤独です。
という言葉です。

正しい意味を調べると、

「無関心」=その事に関心・興味が乏しく、気にもかけないこととあります。
つまり、彼女は「孤独」を感じているのです。だから自分の心の隙間を埋めるために問題行動を繰り返しているのですね。

この行為は、自分自身を満たしているようですが、実は自分自身を傷つける一つの自傷行為でもあるのです。
では、そんな彼女にどのように接することで変わっていくのでしょうか...

心理学において、ストローク理論というものがあります。これは引きこもりや不登校の要因の一つともされているものです。

“ストローク”『相手(あるいは自分)の存在や価値、あるいはその行動を“認めている”ということを伝える何らかの行動や働きかけ』であると定義しています。
その反対は
“ディスカウント”といい『相手や自分の存在や価値行動の意味あいなど無視したり、軽視したりする」ことを指します』

例えば….

心理的ストロークとは
ほめる、はげます、
うなづく 会釈、
挨拶する、
話しかける
相手の目を見る、
信頼する、まかせる、
感謝する、愛する

心理的ディスカウントとは
皮肉、いやみ、けなす、
目をそらす、軽視 無関心、
無視、仲間はずれ、
仕事を干す、などです。

そしてこのストロークを「心の栄養」と言ったり「貯金」と表現する場合もあります。

このストロークが与えられない、又は、枯渇すると人間は、問題行動を起こします。あるいはメンタル疾患になってしまう場合も多々あります。
これは、親子関係だけに限った事ではなく男女間・対人関係全体に言えることです。

私は仕事の中で、コミュニケーションの重要性について話をしますが、
もう一つ言えば、肉体的ストロークの重要性についても話をすることがあります。例えば、

おはよう!と声をかける時、相手の肩を軽く触る
どうしたの?とか大丈夫?と相手を気がける時に、背中に軽く手を当てたり手を触ったり…等です。

会社の中での人間関係、特に部下とのコミュニケーションにおいて、「最近部下の○○さん元気がないようですが..どうかされたのですか?」と聴くと
この言葉が返ってきます「コミュニケーション取らなきゃいけないと思っているけど時間がない..タイミングが合わない..」などといった言葉です。

しかし、この言葉の裏には「できれば面倒だからやりたくない」という心理が働いているのも確かです。

仏教の教えの中に「無財の七施」という以下の教えがあります。

1,眼施(げんせ)
優しい思いやりの目を向ける
2,和顔悦色施(わげんえつじきせ)
穏やかな楽しい顔つきをする(和顔施ともいう)
3,言辞施(ごんじせ)          
優しく暖かい言葉をかける
4,身施(しんせ)             
礼儀正しさと真心こもった奉仕
5,心施(しんせ)             
行為に思いやりの心をこめる
6,牀座施(しょうざせ)          
座席をゆずる
7,房舎施(ぼうしゃせ)          
家に迎えて休んでいただく

簡単に言うと「お金や時間をかけなくても相手を思いやり気がけることはできる」というものです。

このように、人間関係を円滑にするための日々の何げない心がけひとつで、誰かを救う事だってできるのです。
何気ない言葉かけで相手を癒す事もできるのです。

「情けは人の為ならず..」です。

この言葉の意味も「人に情けを掛けて助けてやることは、結局はその人のためにならない」と勘違いして使っている場合が多々ありますが…(私もそうでした..)
本当の意味は、人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる、ということなのです。

みなさんの大切な人に、今ストローク与えていますか?そしてあなたの心の栄養は足りていますか?
自分の心の栄養が枯渇していると感じるならば、まずあなたから誰かにストロークを与えてみてください。

生きずらい

2015-11-06 09:34:09 | 日記

ブログデビューから、何となく思い付きのブログを日々綴っていますが…私の本業は..人の心と向き合う仕事…
今日は、ヘビーな内容ですが、一番多いクライアントさんの悩みのパターンをちょっとだけ綴ってみようと思います。
その悩みは、「何故か苦痛な恋愛遍歴や人間関係を繰り返してしまう…」というパターンの悩み…
これは、男女共通の悩みです....

例えば…

●誰かに「愛されたい」という欲求がとにかく顕著であること
●「愛されている実感」が得られず常に相手を疑ってしまっていること
●不安になると、相手を試すため又は、愛情を確認するための問題行動やリストカット、大量服薬、飲酒、薬物、などの自傷行為をしてしまうこと
●怒りの抑制や感情のコントロールができなくなり、相手を徹底的に罵ったかと思えば数分後には涙の謝罪をする…というように 愛してほしい欲求が強いほど、
相手に対して傷つけるような暴言を吐いてしまう。
●愛されているにも関わらず常に孤独感に苛まれている
●捨てられるのではないか?という強い不安感から、自分を犠牲にしてまで相手に必要以上に尽くし執着する。そして相手からも執着されることを無意識に望んでいる
●自分が否定された、拒絶されたと思い込み、昨日大好きだった人が、今日は大嫌いになり「ほら…やっぱりあなたも皆と同じように私を見捨てるのね..」と嘆き、
又別な異性や友人に同様の事を求めてしまう。
こういった対人関係・恋愛パターンを繰り返す人は、男女とも恋愛だけではなく人間関係全体において同様の行動をとっている場合が殆どです・・。

上記の●の項目の対象を、恋人・友人・親・職場の同僚・上司等に置き換えてみるとわかりやすいかもしれません..。

このように、衝動性・攻撃性や感情の不安定さ・対人関係のトラブルの多さが特徴的なんですが、本人は無意識だからこそ繰り返してしまうんです。

さて、この辛い恋愛遍歴や人間関係の破綻・・・いったい何が原因なのか?
誰も好き好んでそうしている訳ではないのです・・

本当は、いつも誰かに温かく見守っていて欲しい、どんな時も家族・恋人・には自分の味方でいてほしい、大切な人に見捨てられたくないという強い欲求を抱えているんですね。
でも、激しい感情表現や寂しさ・極端な対人評価などによって人間関係が上手くいかないことが多くなってしまうのです。

そうなると、自分の存在意義や、承認欲求が枯渇して、生きがいを見失い、そういった虚無感や虚しさの感覚によって対人関係(異性関係)やギャンブル、ドラッグ(アルコール含む)、食事(摂食障害)などの自傷行為に依存してのめり込みやすくなってしまうんですね。

感情が不安定なので、さっきまで「あの人は素晴らしい人だ..大好きだ..」と褒めていたような人に対しても、何かしら自分にとって否定的な発言(思い込みの場合が多い)
などがあると急に攻撃的な罵倒が止まらないほどに興奮してしまう場合もあります。(実際にカウンセラーである私が罵倒され批判されることも、しばしばあります…)

しかし、簡単に「こうゆう性格だから..」と片付けられないほど本人は
繰り返されるこのパターンに、とても「生きずらさ」を感じて苦しんでいるのです。
だからカウンセリングを受けようと思うんですね…。

このような傾向(パーソナリティの歪みと言っています)がある人の
見捨てられるんじゃないか…という不安や孤独感の根っこには、幼児期の母子関係で十分な愛情・保護を与えられなかったこと(慢性的な愛情飢餓状態)
や児童期のいじめ・暴力(虐待)などに遭ったことが関係しているとも言われています。

また、感情・気分の調整と関係して『セロトニン系・ドーパミン系』の脳内の神経伝達過程の障害が引き起こすという仮説や、遺伝的素因(先天的要因)が関係しているという仮説もあります。

全てに当てはまる訳ではありませんが、いずれにせよ、心と向き合うプロである以上、ただ、ひたすら親身になって優しく接するだけでなく、「健全な自立を達成し、
孤独に対する耐性をつけること」という将来を視野に入れ、健全な人間関係の維持や、一人で過ごす時間の充実など、クライアントの過度な依存欲求を強めないようなカウンセリングに配慮しています。

過剰な怒りや攻撃性といった人間関係を破綻させるリスクのある感情を、適切な表現レベルでコントロールできるようになってくれば、希死念慮も弱まり、
自傷行為などの自己破壊的行為の頻度も徐々に減ってきます。

それと並行するように、衝動的な行為や、嗜癖行動(薬物・セックス・アルコール・買い物への依存症、ギャンブル)も改善が見られ、それまでグルグルと変化していた情緒も安定し、
対人関係や社会への適応も回復してきますから、そこに至るまでは、根気強く症状を落ち着かせ、克服するためのカウンセリングを継続して行う必要があると思っています。

このように..
私の仕事にゴールはありません..

「はい!ここまでやったらOK」という事もありません..なぜならば向かい合う対象が、心も感情もある「人」であるからです。全て違うんです..。
全て上手くいくとも限りません…
だからこそ遣り甲斐も感じますし日々精進しなけらばなりません..。