nekomitu日記

ポンコツ日記

連鎖

2016-05-20 12:18:49 | 日記



先日、TVで「帰る家のない子供や親の愛情を知らずに育った子供達」「帰っても虐待を受け自分の居場所のない子供達」の食事の世話を40年近く続けている82歳のおばあちゃんが居ることを知った…

そのおばあちゃんは言った「この子達の親もまた、親の愛情を知らずに育っている…「連鎖」を繰り返す…」のだと…

夜になると皆、おばあちゃんの家に帰ってきて、「お帰り…」と迎えてもらう…そこでご飯んを食べる…食を通して心を育てる…人との関わりや愛情を知るということ…私は食い入るように番組を見てなぜか涙が出た…

この事は、私が人生の最後にやりたいと決めている夢でもある…

子供は親を選べない…

私も物心ついたときから両親は働きに出ていた…所謂「鍵っ子」だった…

その事が理由で「貧乏人の子供」といじめにあった事もある…。

父親はほとんど家に帰らず、母子家庭のような暮らし…小学5年生の頃には、そんな母親が突然蒸発し、理由も分からず母親の帰りを待つ日々が続いた…。

姉と二人毎日テーブルの上に置いてあるお金で外食の日々…当時はそれなりに、自由を楽しんでいたけれど…

夕方外を歩いていると、どこの家庭からも夕げの支度をする声や、匂いがしてくる…それがとにかく羨ましくてたまらなかった…。

頼る他の親族もいなかったので、ある小さな喫茶店に毎日のように通っていた…何となく居場所を見つけた気がしていた。

「親のいない可愛そうな姉妹」だと周囲の大人や先生たちは同情的だった…

そんな生活を続けたある日…父親が引っ越すと言い出し…転校することに…しかし引っ越した先の部屋の隣には、既に父親の愛人がいて…父はそこへ入り浸り…

結局、又私と姉はアパートに二人暮らしの思春期を送った…そこでも自分達が食べたいときに食べたいもの…そこら辺にある物を食べる生活だった…。当然学校から帰っても迎えてくれる人は誰もいない…。

それから…高校に行く…という選択しもなく…私の波瀾に満ちた人生が始まるのだが…重たくなるのでこの辺りでやめておこう…。

このように、親に遊んでもらった記憶がない…家族団らんの食卓の記憶がない…そんな私は結婚願望が強く、23歳で母親になった…。

当然「子育て」というものがよくわからない…子供とどうやって遊ぶのか?躾は?勉強は?教育は?そして夢見見た家族団らんの食卓が叶う事もなく…

波瀾の4年間の結婚生活にピリオドを打ち、27歳で離婚…母子家庭になった…

そんな生活のなかで、家計を支えるため仕事をしながら2つだけ、ずっと守ってきたことがある…

1つは
夕方は必ず台所に立ち食事を作るということ

もう1つは、子供の参観日や行事には必ず行くということ…

子供との遊び方や正しい躾、教育の仕方はよくわからなかったけど、この2つは親としてやらなければ…と漠然と思ってきた。

何が言いたいかと言うと…

私が辛うじて覚えている幼い頃の母親のイメージは、夕方は台所に立ち夕食を作ってくれたこと、朝は味噌汁が必ずあった事を覚えていたからだ…

それが母親の役割として自分なりに認識していたのだろう…。

学校行事や参観日に必ず行こうと決めたのは、自分は来てもらえなくて寂しかったからだ…。

出産するまで、正直なところ荒んだ人生を送ってきたが、守るべき「子供」が出来たとき、「親として子供に恥をかかせない生き方」をしょうと覚悟を決めた。自分の幼少期のような思いはさせたくないと…

今思えば、荒んだ中にも辛うじてあった母親の料理をする姿が、私を律し、支えてきたのかもしれない。

作った料理を一緒に食べる人がいる幸せ…美味しいと言ってくれる事の喜び…そして一日の何気ない出来事を話す幸せ…決して当たり前じゃない…

私が料理好きになったルーツもここにある。

食を通して人の心を癒し育てる…

そんな思いで、不器用に育てた娘も又、子供が生まれ、必ず台所に立ち料理をすることの喜びを知り、それを守っている…。

愛を注げたか?親らしいことができたか?といえば決してそうではなかったかもしれない…

だけど、この「食」こそが、恵まれない境遇を繰り返す負の「連鎖」を繰り返す事なく絶ちきれた事なのかも知れない…

そして、私は晩年…自分の幼少期や思春期と同じような境遇の子供たちが、ただいいま…と帰ってこれるような居場所を作りたいという夢を持つようになった…

食を通して心を育てる…食卓を囲みコミュニケーションをとることで心を豊かにする…そこへ帰りたいと思う…私はそう信じている…。

確かに、両親の愛情に恵まれ自我が形成されていくことが大切だが、誰かの言葉や好意によって人生観が変わることもあるのです。

そして、その好意を受け取った人が又、同じように誰かに好意を与える…こんな「連鎖」ができたのを見届けて人生を終えることが出来たらこんなに幸せなことはないと思っている…。












人の本質

2016-05-17 22:07:12 | 日記



4月16日は私にとって忘れられない日になった。

熊本を突然襲った震度7強の地震…深夜地面からドドド…っと地鳴りと共にいきなりドーンと突き上げられた次の瞬間…眠っていたベットから、身体は跳ね上げられ、立っていられないいほどの激しい横揺れ…

家中の物が音をたてて倒れる…割れる…TVと携帯の警報がけたたましく鳴り響く…

同時に停電で真っ暗に…暗闇の中、硝子の破片の上を、「早く外へ逃げなさい!荷物はお母さんが持ってくるから!」と手元に用意していた貴重品だけを探し必死で外へ逃げ出す…何が起こっているのか?まるでパニツク映画を見ているかのような現実離れした状況下に声を失った…

生後3ヶ月の赤ちゃんを抱いて娘は泣き叫び震えパニック状態…とにかく車に乗せ、一人暮らしの母親を助けに向かい、近くの避難所へ逃げた…。私たちは被災したんだ…と冷静にわかったのは、車中泊2日目の早朝の事だった…。

車中泊していたのは大きな病院の駐車場…そこに全国各地からドクターカーや災害救助隊が続々と入ってくる…上空をドクターヘリが何度も飛ぶ…。救急車のサイレンが鳴り響く…度々襲ってくる余震…

ライフラインは止まり水さえない…食料も…このままどうなるのか…生きていけるのか?目の前は真っ暗だったが、日々送られる来る励ましのメールや電話…そして、孫のミルクやオムツを心配してくださる方々…心の中で

「絶対に負けない…」そう思った時、不思議と力が湧き回りの事が見えるようになった…依然怯え続ける娘…守べき小さな命があるからです…。

傍らで小さな命は何も分からず笑っているのです…

私自身も口には出さなかったが、持病が悪化し身体中に痛みが走る…車中泊が続き心身ともに限界に来ていたが、私たちよりもっと最悪な状況下で頑張っている人達がたくさんいる…そう思ったら「生き抜く」という事にがむしゃらになっていた。

一人しかいない娘と孫の命を、私の命に代えても守る…と覚悟を決めた時、自分がやるべき事が見えてきた…。

私は娘や孫、母親が少しでも安心できるように、冷静に行動し、そして何より笑って励まさなければならない…強く構えなければ…そう思った…。不思議と心は穏やかだった…。

そんな折、自身も被災者であるのに、私たちのために必死にボランティアをしてくださる学生の姿、医療関係者の方々…自衛隊の方々の姿を見て手を合わせて感謝の念でいっぱいになった…

一方で、そんなボランティアの方々に不満をぶつけたり…怒鳴ったり…我先にと人を押し退けたり…かと思うと、ありがとうございます…と頭を下げ言葉をかける人、私たちは大丈夫だから他の方へ回してください…と譲る人…手を合わせて感謝するご老人…

人の本質を目の当たりにする局面がたくさんありました。


皆不安と絶望的な状況下で、当たり前だと思っていた事が何一つ出来ない…

選択を迫られる時…パニックに陥ったとき…色んな局面がありましたが、

そういう局面で、その人の本質が見事に現れるものです…。

普段の態度や素行からは窺い知れない…本当の姿を目にすることがあるのです…。

あんなに普段は優しくて親切な人が、追いつめられた状況に陥ると
冷酷で、自分さえ良ければという欲深い本質を見せたり…

いつもは明るく、面倒見の良い人が、パニックに陥ると不機嫌な顔で、人を見下したような言い方で相手を怒鳴ったり…。

普段は責任感のある言動やリーダーシップを発揮している人が
トラブルや困難な状況に陥ると保身に走り、人のせいにして、知らんふりして逃げ出してしまったり…などなど

きっと本人でさえ
その本質に気づいてないと思います。

その人の本質って、追いつめられたり、困難な状況、局面で初めて現れてくるのです…。

実は、私も決して例外ではありません。精神的に追い詰められた状況や局面で出てくる自分の本質に
愕然としたことすらあります…。

人の本質を目の当たりにし、自分の本質に愕然とした…そんな経験から、私は一つの習慣を身につけました。
それは…


最悪の状況や局面に陥った時、
もう一人の私が自分自身に問いかけるのです。

そうする事によって、自分の本質は本質として受け容れた上で
冷静に物事を捉え、考え、対処することが出来るようになったのです。

自身の本質を受け容れ、冷静に対処できるか?それこそが、本当に人として問われるところではないかと思ったからです。

そして、新たな自分の本質を形成するために、とても必要なことだと思っています。

追いつめられた状況や困難な局面に陥り、自分の本質に気づかされた時こそ自身にこう問いかけています。

「この判断は人として正しいのか?」

「この行動は自分本意ではないか?自己満足ではないか?」

「自分の利益だけを考えてないか?」

「今の言動は感情的で冷静さを欠いていなかったか?」

「問題の本質から目を逸らしてないか?」

「逃げてないか?」「誤魔化してないか?」

「いい人に思われたいと思ってないか?」

全てに正しい答えがある訳ではありませんが、もしも本質が露呈してしまったときは、自分を責めたり後悔するのではなく、あぁ…又やってしまった…と認め、そして改める、又は謝る、そして、善処する…といった事を繰り返せばよいと思っています。

そしてもうひとつ…

例えその人の本質が見えて愕然としたとしても、その事を批判しないその人を否定しない…罵倒しない事を心がけていますが、一方で

あまりにも度を越えた自分本意な言動が見えたり、自分の大切にしている人を傷つけたりするような行為に対しては、見てみないふりをしたり、無かったことにすることは出来ない…妙な真っ直ぐさも自分の本質として弁えています。

いずれにしても、今回の震災で、改めて自分自身の本質、想い、大切な人が誰なのか?大切な事は何なのか?誇りって何なのか?思いやりって何なのか?絆って何なのか?わかったような気がします。

如何に人に迷惑をかけず、頼らず自分達に出来ることは、自分達でやる…自分達が力になることがあるならば率先して力になる…最低限の物で慎ましく生活する…

最悪と思える状況下でも、何らかの希望や光を見いだす…できるだけ明るく笑顔でいること…今日生かされていることに感謝する…そう家族で話した時間がありました…。

車中泊の一週間そして、余震や警報に怯え夜を過ごす…早く夜が明けてほしいと願いながら、大切な人と大切なことを話す尊い時間でした…。
























向き合わない

2016-05-03 13:42:15 | 日記


最近…ふと思うこと…

「何故、人は真っ直ぐ自分とも他人とも向き合おうとしないのか?」ということ…

特に、男女間の恋愛感情が絡む場合や、夫婦間、はたまた親子、上司と部下
等々…

自分の感情に正直に言葉で表現する…相手に伝える努力をする…そこには本来、プライドや建前なんてないほうが健全なコミュニケーションが取れる…はずなんですが…

そもそも完璧な人間なんていないし、相手のことがわかっている「つもり」になっているだけで本当は理解してないのかもしれません…

なのに…意思の疎通がうまくいかない現実を、自分以外の要因に転転嫁したり、憶測で府に落とす事で「自分は間違ってない」と、納得させているだけなのかもしれません。

自分が、今置かれている現状から逃避しないで、自分が招いた現実と向き合い、その招いた困難が、なぜ自分の前にたちはだかるのか?と自分と向き合い

自から事態を改善するための行動を起こさない限り、結局自分の人生に満足することはありません。今を生きていないのです。

よくある例ですが、

心理的な成長が未熟なまま、年齢だけを重ねてしまって、「心理的には幼児のままの大人」になっている人がいるのです。

「自分は傷ついた」「自分は落ち込んでいる…悲しんでいる…」その感情を言葉で伝えることなく、周りに感じてもらう事で、自分の思い通りに周りにコントロールしてもらおうとする…

あるいは、
「私は拗ねている」「私は怒っている」この感情を言葉に発せず態度に露にする人も同じです。

無意識に、誰かを批判し貶める、比喩する…バカにする…その人のある側面だけで判断し、価値のない人間だと決めつける事で、自分を優位に見せようとする人さえいます。

「自分はこんなにいい人間なんだ」と…

「ありがとう」と言う場面で言わない…「ごめん」と素直に言わない…そんな人もいます。

「言えない」のではなく「言いたくない」から「言わない」のです。

よく聞く表現で…

「○○があるからできない」のではなく、本当は、そもそもやりたくないと思っているか、やることの必要性を感じてない…だからやらないのです。

「○○だから言えない」のではなく、本当は、言ったときのネガティブな状況を想像し、自分を守るために言いたくない…
というのが本当の心理状態なのです。

このように、自己防衛することで結果的に自分を苦しめる、悩みを作る…という事にもなるのです。

自分が心理的に幼稚であることを認識できれば、自分の感情が満たされない事、傷つかない事ばかり意識がいくのではなく、

周囲の人達の寛容さに、本来であれば感謝するということがわかる時が来ると思うのですが…

それを、自分の本当の気持ちや抑圧された感情から目をそらしたままで、自分とも現実と向き合わないままで、どんなにカッコつけても、虚勢を張っても、努力をしても、結局は空を切ってしまうのです。

そして、その努力は実を結ばないどころか、
周りから「扱いにくい人…何を考えているかわからない人」の印象を持たれてします。

自分の本当の感情から逃げないこと。これが自分自身を確立するための、たった一つの方法だと思うのです。

そして、心の重荷を背負って、それでも前向きに生きていこうと決断したときに、人は心理的に成長することができるのかもしれません…


自分のことを立派な人であるかのように装っていても、自身を確立すること、精神的に自立することはできません。

また、自分が何をすべき人なのか?自分がどういう人間であるのか?という、明確な自分像を持つこともできません。

どんなに社会的に立派な肩書きを得ても、「自分が何をすべき人なのか、自分がどういう人間であるのかという、はっきりした自分像」を手に入れることができないなら、そこには本当の安心や自由はないのです。

自分の在り方について、明確な意識を得るためには、苦痛が伴うかもしれません。しかし、この苦痛を受け容れれば、結果として安心も自由ももたらされるのです。

離婚した…会社を辞職した…あるいは恋人と別れた…という現実が受け容れがたいものになるため、

別れた相手に未練がある。辞めた会社に未練がある。こういう場合に、自分が選択した「別れた、あるいは辞めた」という行動が正しかったのだと、自分で自分に納得させるために理由を他に転嫁しようとするのです。

そのため、別れた相手をよくない人だと自分に言い聞かせるようになったり、辞めた会社のことをよくない会社だと自分に言い聞かせるようになります。

自分にそのように言い聞かせる事で自分の生き方は間違っていないのだと納得したいからです。

その都合よく歪め、納得した結果があるから、定期的に心理的混乱が生じるような気がします。


もちろん私自身も欠陥だらけの一人の人間ですが、この歳になって
やっと本当の自分と自由を手に入れたと思っています。

何故ならば、我が儘と言われようが自分勝手と思われようが…人からどう思われるか…よく思われたい…なんていう
人からの評価を一切気にしなくなったからです。

感謝を忘れず、自分の感情は、適切な言葉で表現する…
自分の感情に正直にやりたいことをやる…やりたくないことには一切じかんをしない。

自分責めたり嫌いになったりする、心の中の歪んだルールをぜーんぶやめてしまう…力関係、虚栄心、不安、孤独、柵もぜーんぶどうでもいいと感じる…
心は常に自由なんです。

普段の自分の感情に気付き、感情を吐き出す…マインドフルネスです。


但し…そこにはどんな批判も比喩も受け入れる勇気と覚悟が必要ですが…

たとえその生き方で孤立したとしても、自分を誤魔化して嘘ついて生きるよりよっぽど幸せだと感じるのです。

当然…そんな生き方をしてると敵も増えます(笑)

だけど本当に理解し合える人との出会いもあり、充実した時間を過ごせます…

残りの人生…まだまだ色んな問題に直面することでしよう…

だけど不思議と不安も恐れもネガティブなイメージもありません。

なるようになる…それでいいのだと思っています。