nekomitu日記

ポンコツ日記

強さ

2016-08-21 16:59:30 | 日記


先日、熊本県八代市から東京まで歩いて行ったという若い男性と話す機会があった…

私はつかさず「何の目的でそれをやったの?」と質問した…すると「いや…特に何にも目的はないです…」と返事…

その後も懲りることなく
「心がおれそうになっらなかったの?」
「歩きながら何を考えたの?」
「達成して何かしら学びがあった?」
「音楽とか聴きながら歩いたの?」と…
質問攻めにしてしまった…

どの質問に対しても彼は「いゃあ〜特に何もないんです…笑」みたいな満面の笑みでゆる〜い回答…

彼の凄いところは、その行動に何の目的も想いもなくて「ただどこまで歩けるかなぁ〜」という
単純な理由だけでそれを達成したことなんです。

そうはいっても…
行動に駆り立てた何らかの動機付けや、きっかけなり…想いがあってんじゃないか?…どうしてもそこが知りたくてたまらないのである…


この一連の会話でわかるように…

私は、相手に良くも悪くも関心を持つと、その人の想いや感性、その時の心の動き、表情など…

映像が流れるようにイメージして見ようとする癖のようなところがある…「感じ取りたい」と思う。共感的理解をしようとする
職業病なのかもしれない…

相手のの感情に巻き込まれることなく、その世界をカウンセラーも共感して理解する状態のことだけど、「感情移入的理解」と呼ばれるように

相手の感情を同じ感覚で感じたい…見たい…
と思うんですね…

そこがイメージ出来て初めてコミュニケーションが出来た…と実感するところがあるんです。

相手の人となりを感情や行動から感じ取ろうとする…

とかく…こんな性分だから
とことんコミュニケーションを取ろうとすると
質問攻めになってしまうことがある。

それ以外、二言目には「別にいいんじゃ〜」とかいい加減な返事になったり「特に興味ないなぁ〜」「へぇ〜そうなんだ…」といってしまう。

それは、その人や事象にほぼ関心がないか?或いは、こちらから何らかの回答を期待していることが見え見えな場合そうなってしまう…

もちろん、クライアントとのカウンセリングの最中は、自ら自己開示の姿勢で共感的理解をするための質問なり相槌なり、アイメッセージを使ったりしながら実施する訳だけど…

プライベートでは意外と意図して「適当」な時もある。

そんな時は、自身の解決できない問題を抱えている時は敢えてそうするような気がする。

そうでなければ、自己中心的なコミュニケーションとなったり相手の心情を無視しコミュニケーションをコントロールしてしまう場合があるからだ…

気難しい人間だと捉えられるかもしれない…

どうしても人の本質を見ようとする性分なんだろう。

だけどそんな私は、若い時から「恋愛」が苦手である…本気で誰かを好きになることも滅多にないが、好きな人が出来た途端…混乱、取り越し苦労、はたまた変な緊張感…強気かと思えば…途端に臆病になったり…

自分が何をどうしたいのかすらわからなくなる時もある(笑)明らかに冷静ではなくなる…
私が心が折れるのは決まって恋愛のその時だ…


しかし、仕事の場面では真逆になり
急に人が変わったかのように論理的になり冷静で客観的になる…。多少の困難にはビクともしない…というか…むしろピンチをチャンスと捉えるところがある…

これまでのblogでも書きてきたことだ。

結局…ここで何が言いたいかというと
理屈抜きに行動できる人には本当の意味の強さがあるのではないかという事…

不言実行…自分で決めて自分で行動する…

東京まで歩いた彼のその話から
真の強さ、折れないブレない心を感じ取った。

そして…強いのではなく弱い自分を認めるという真の強さを持っているのかもしれない。

だからこそ理屈抜きに「とりあえずやってみる」のだろう。

どんなにチャレンジャーだとか行動力があると言われても、結局私は、頭で理屈を考えてるところがまだまだあるのかもしれない…
到底、彼のその心の強さにはかなわないのだ。

自分と向き合い自分に勝つ…今私は、そんな心境にある…久しぶりにある事をきっかけに号泣し
心が乱れたままここにいるからだ…

今を生きるため、断ち切らなければならない感情…それに必要な勇気と覚悟が今は必要だ…

どんな時も笑っていられる自分でありたいから…
そんな生き方がしたいからだ…































心に寄り添う

2016-08-16 13:09:41 | 日記


相手の心に寄り添う…

先日、私のblogにコメントを下さった方が使われた言葉…

私はこの、心に寄り添うという感性がとても好きです。

本来、信頼関係を築いていきたいと思えば、相手が何を好で、嫌いで
どんな事に哀しみ、どんな時に怒り
何をしたら喜んでくれるか…

そして何をどんな風に感じ、
どんなことに関心を持っているのか?

それを感じ取る事に喜びを感じるものだと思うからです。

実際には、心には形がないから寄り添うことはできないけど

だけど、「心に寄り添う」という、この感性そのものがわからない…或いは必要無いと思ってる人もいるだろう。

最悪の場合「寄り添ったふり」をして
自分にとっての利を得ようと
相手の心を弄ぶ人も見てきた。

自分が楽しいこと、幸せに感じること、自分の面子、プライド、利害関係を一番大切にしているから、相手の感情の機微や、相手がどう思うか?感じるか?なんて、そもそも関係無いのでしょう。大切なのは自分にとって利があるか無いか…なのです。

相手の心には無関心…

そこに揺るがずあるのは自分に対する「自己愛」だけなのでしょう。

だけど、そんな人の人生はきっと孤独だろう…
人を心から愛したり信じたりすることが無いから
ずっと埋まらない虚無感がつきまとうだろう。

人と関わる判断基準が「利害関係」と寂しさや憂さを晴らす為の「刹那的な安楽」なのですから…

私は、そんな関係なら人生において必要無い
そもそも、そんなに自分を愛して無いのかもしれない…

私は、人として生まれてきた以上
人を心から信じ、愛し、支え合い、喜び合い
その誰かの幸せや笑顔のために命を使う…

それを喜びであり幸せと感じる生き方がしたい。
たとえ裏切られたとしても。


それが、この世に生まれてきた意味だと思っている。

確かに…
若い時はそんな事考えもしなかった。
自分が楽しければそれでいいと思っていた。
だけどある時期から、何をやっても楽しくない。
何をやっても心から笑えない
満たされない事に気がついた。

そして、漠然と「誰かのために生きてみたい」
と思うようになった。

じゃあ…

私が幸せを感じる瞬間って何だろう…と
考えた時、大切の人が私と関わることで
心から笑ったり喜んだりしている姿を見て感じている時…だった。

それから生き方も考え方も変わっていった。
自分が生かされてる意味や、存在意義を考えるようになった。

人として生まれて、どんな事に自分の命を使うのか?

少し大袈裟だけど、そう考えるようになった…
死にゆくその時の自分の心のありようをイメージするようになった。

だから今の仕事にやりがいを感じているのかもしれない。

自分自身の無力さに苛まれ、限界を感じることも苦悩することもあるけれど、それでいい。

誰かが心から傷つき哀しみ…孤独の中にいるとき
その心に寄り添い、優しく抱きしめてあげられる。そんな自分でありたい。

大丈夫…たくさん泣いていい…でも闇は必ず抜ける…それまで、私が一緒に考えて、悩んで、泣いて…痛みを分かち合い寄り添うから…と抱きしめてあげたい。

そんな生き方がしたい…

何より…
私が心から望んでいるのも、私自身も誰かにそう言って抱きしめて欲しいんだと分かっている。

そうすることで、私の中に心に優しさ、思いやり慈しみという貯金ができて、その貯金を同じ思いをしている誰かに又使うことができるから…

心にその貯金がなくなると、人の思いやりを感じなくなり心は砂漠のようになることも知っているから…

喜びの時も同じこと…


私にとって「今を生きる」という価値観は
過去のblogでも折に触れ書いてきたが


結局のところ、心ない血の通わない人間関係ならいらない。自分の心に正直に、相手にも正直でありたい。取り繕った生き方はしたくないということ…

ほんの僅かでも、喜怒哀楽を共に分かち合える血の通った繋がりがあるからこそ、自分は一人じゃないんだと、人は前を向いて生きていけるんだと思う。






























幸せの形

2016-08-05 17:23:21 | 日記

私は2度離婚を経験している。

いずれの離婚も確かに大きなリスクはあった…
だけど、

何かを失いたくないから…その「何か」に執着して形だけ夫婦でいるなんて私には考えられなかった。

例え収入源がなくなったとしても、住む家が無くなったとしても、そこに相手に対する愛情や信頼、絆みたいなものが無いなら、夫婦関係を維持する意味は無いし、私なら何度生まれ変わったとしても迷わずそのリスクをとるだろう。

何故こんな話をするか?

今日、たまたまTVで
山口達也の離婚会見を見たからだ…

彼の離婚会見を聞いたとき、彼の誠実さや奥様の素晴らしい人柄。そして2人とも自立しているな…と思った。実に清々しい離婚会見だった。

離婚会見の彼の表情に悲壮感がなく
質問にも真摯に答え
ある意味自信に満ち溢れて見えた。

双方の人生、子供にとっていい離婚だと私は思った。

夫婦の形は人それぞれだろうし
捉え方もそれぞれだろう。

しかし、彼は正直だし潔い。離婚しても父親としての責任を果たそうとしている一人の男性として単純にいい男だな…と私は思った。

夫婦関係を維持することも大切かもしれないが、お互いを尊重、尊敬できる精神状態での離婚は私の中で「あり」である。

よく「夫婦関係は破綻してる」といいながら関係を維持しようとする人もいる。
それは、子供のため…という人もいるが

子供にとってはいい迷惑だろう…

何故ならば、本当は別れない理由は
他にあるだろうに…子供に託けてるだけじゃ無いのか?

子供にそれは伝わるのに

親としての責任は、形だけを維持することが責任じゃないと私は思う。
子供が自立するまで、付かず離れず
見守り続けることの方が大切である。


私がこうしてblogを書いている今、上の住人は派手に夫婦喧嘩?をしている…
女性が半狂乱になり泣き叫ぶ声…
大きな物音…

万一そこに子供が居たら最悪である。

夫婦って何なんだろう。パートナーって一体何なんだろう…考えさせられる瞬間だ…

「愛してる」って言葉は大切な言葉だと山口達也が会見で言った…そこには相手に対する尊敬の意や、その言葉に値する人がいるということは幸せなことだと…

彼が言うその言葉には説得力があった。

私は、何の駆け引きもなく嘘もなく…真っ直ぐに自分の無償の愛情を注げる対象でなければ「愛してる」なんて言葉は使わない。

純粋にその人の存在を大切に想い
その人の幸せを願い
笑顔でいてほしいと願うこと

そして、何よりその人を支えたいと思うことが男女関係なく「愛」なのかもしれないと…

私は馬鹿正直で不器用なのかもしれないが、そんな自分は嫌いじゃない。

自分にも相手にも嘘のない生き方が好きだからだ

でも、そんな生き方故に、深傷を負うことばかりだがそれでもいいと思っている。

自分を偽り誤魔化しながらの人生なんて
生きたくはない。

私は今でも離婚した二人の旦那様は
尊敬と感謝の念しかない。恨んだことも一度もない。

娘を授けてくれた初めの主人と、一緒に育ててくれた2番目の主人共に人生の同士だと思っているからだろう。

間違いなく二人との出会いがなかったら今の私はないのである。

今、私が幸せと感じる瞬間があるなら、それは二人がいたからこそ感じられるものなんです。

何が言いたいかというと「離婚」することが決して不幸なことではなくて

幸せにつながる事もあるわけで、結局その人が夫婦の形、結婚の意味
をどう捉えるかで変わってくるのだと思います。

そして、決して「結婚」がゴールではないということ

人生は何度でも生き直せるということです。
例えその選択の結果が良くも悪くもその人次第であり、誰のせいでもない。全ては自己責任なのです。