群馬で闘う!「伝説」社長のブログ

『伝説』グループ社長、根木寛正の日々の雑談です。

山本一太議員はどうする?

2006年01月21日 | 見たこと、聞いたこと
ニュースでも報道されていたが、森派の新年会で山本一太議員が森喜朗元総理に怒られた。

一太議員は「次の総理には安倍さんがいい…」と言い続けてきた訳だが、「安倍はまだ早い…」と言っている森会長は「そんな発言をしているなら出て行け!」とやったようなのだが、それに対して一太議員はHPで反論している。

で、自分は山本一太議員の言っていることを支持している。

どうも森会長が発言している内容をニュースで耳にすると、すべてにおいて「古い…」という感じがしてしまうのだが、どうなのだろうか?

まあ、マスコミの取り上げ方もあるだろうし、集団のリーダーとしていろいろ考えもあるのだろう…。

それにしても、総理までやった森会長がいろいろな所で圧力をかけて、「山本をTVで使うな…」とかやっている…ということなのだが、どうなるのだろう…。

新しいことをやろうとしたり、今までと違ったことをやろうとすると、必ず叩かれる…。

どの世界でも同じだ。

自分の所属する派閥の会長に名指しで怒られて、普通落ち込むと思うが、それでも自分の発言を繰り返している山本一太議員を気持ちの中で応援しようと思いました。

まあ、地元出身ということもあるし、去年講演を聞かせてもらって名刺交換もさせてもらったし、一応自分も「渋川一太塾(?講演聞きに行ったら自動的に入っていたのだが…)」に入っているし、頑張って頂きたい…。

*山本一太レポート「気分はいつも直滑降」

米国産牛肉再び輸入禁止…!

2006年01月20日 | 仕事!
まだ詳しい情報がわからないので、何とも言えないが、こうなってしまうと長引くような気がする…。

せっかく輸入再開されたのに…。

まだ部分解禁だったので、これから…と、関係企業は思っていたと思う。

ウチにしてもそうだ。

今日、金融機関さんへ顔出しに行った時も、『カルビ伝説』における今後の可能性を熱く語ったばかりだったのに…。

まあ、しかしこうなってしまった以上、様子を見ていくしかない…。

…この数日、話題になりやすい大きなニュースが多い。
いわゆる一つのニュースがその業界全体のイメージを落としてしまうように取り扱われるので、関係する業界全体が大騒ぎになってしまう。

牛肉にしても、米国産牛肉は解禁されたばかりで、様子を見ながら対応しようとした企業が多かったので、そんなに出回っている訳ではない。

ウチにしてもまだ使っていない。

でも、こうして「牛肉」の安全性に関連して報道されると、また焼肉業界が大打撃だ…。


一休さん

2006年01月20日 | 家族の出来事
ウチの子供たちが、今「一休さん」に興味を持っている。

自分は月に5回、子供たちと夜一緒に寝ると決めているのだが、この時にいつも何かしらのお話をしている。

数ヶ月前、このお話で「一休さん」の話をして、有名なトンチ話を聞かせたらそれが面白かったらしく、苑美は図書館で「一休さん」の本を借りてきたり、駿輔、大輔は、絵本を買ってもらったりして、何だか家の中で盛り上がっている。

昨日、自分が休みを取って子供たちと一緒にいたのだが、いい機会だから…と、「一休さん」のビデオを借りてきた。

で、一緒に見たのだが、これが面白かった…。

これは学校とか、自治体とか、積極的に子供たちに見せるべきだ…。

自分も子供の頃見ただけで、あまり覚えてなかったが、改めて見たら感動した…。

「一休さん」のトンチは笑えるし、お母さんとの話は泣けるし、大人の目線で世の中を見ているシーンは考えさせられるし…、これは親子で見たりするには大推薦です!

何より、子供たちも喜んで見ていて、駿輔なんて、たまごっちの子供が生まれて名前を付けるのに「ははうえさま」と付けていた位だから、印象が強かったのだろう…。

怒られると座禅を組むマネをして、考えたりしている…。
目を閉じて、舌で「タン、タン、タン、タン…」と考えるリズムを取って、「チーン!」とか言っている姿を見ると、怒る気もなくなって、笑ってしまう…。

いいアイデアだ…。

暖かくなったら、坊主頭にすると言っている…。


携帯版ホームページ

2006年01月19日 | 自分!
携帯版ホームページには「おまけのページ」というページがあって、そこからこのブログも見られるようになっている。

そして、その「おまけのページ」には、携帯版でしか見られない「私の体験談」というページがある。

ここで自分が体験したいくつかの出来事を紹介しているのだが、前回「高熱でゴジラ」のことを思い出して、改めて自分で見てみたら、他の文章も実に懐かしかった。
これらの文章は全部5年位前に書いたもので、その中で紹介している出来事は20代前半での出来事がほとんどだ…。

…ということで、もうひとつ紹介しちゃおう…。



「カラオケボックス」

東京に住んでいた10年の間に実に多くの仕事をした。カラオケボックスの仕事もそのひとつ。昼間演劇活動やら何やらやっている自分にとって、深夜の仕事は好都合。それにこの仕事って、ほとんど部屋の受付をするだけで、お客さんからの注文がない限り、本を読んだり、芝居のセリフ覚えたり、時間が自由に使えるから更にラッキー!当時「俺のためにあるような仕事!」といい気になっていた。
私がやっていたのは三軒茶屋の小さなカラオケボックスで、当時(1991年頃)は部屋が1時間1500円くらい、しかも1曲歌うのに200円ずつ取られるという、今考えればひどいもの。でも当時はこれでもお客さんはいっぱいで、金曜土曜は若者グループが並んで待っているような状態だった。ここで、なぜか店長のような店の管理を任されてしまった私は、店のカギから機械のカギから、ありとあらゆるすべてのものを任されてしまって、更にラッキー!…というのも、当時は機械を調節して1曲の値段を設定していて、夜は1曲200円、昼は1曲100円、という具合に自分達で値段を切り替えていた。で、そのカギを預かったということは、自分で機械を調整できるということ。早朝5時までの営業が終わって、お客さんがみんな帰って、掃除と売上金の確認をすると、そこからが自分のひとりショータイム!歌った、歌った!設定を無料にすれば、もう歌い放題!残念なのは深夜の仕事はほとんど一人でやっていたので、誰も聞いてくれないということ。サラリーマンの人たちの出勤が始まる早朝の三軒茶屋駅前のシャッターが閉まったカラオケボックスの中では、私が一人で歌い、踊っていたなんて、おそらく知る者はいないだろう。
(2000/8/14)


風邪とゴジラ

2006年01月18日 | 自分!
ワイドショーがにぎわっている。
興味本位で煽る取り上げ方が目立つように思う。
自分はあまりコメントするつもりはない…。

さて、インフルエンザが来ている…。

来週あたりが山場になりそうだが、ここ渋川ではまだあまり聞かない…。

でも、『前橋岩神店』では体調を崩している人の話を聞くので、注意して欲しい。

体調を崩して仕事するほどつらいことはない。

…と、振り返ってみて、自分が風邪で仕事をしていて一番つらかった時のことを思い出した。

その時のことを携帯版HPに書いたことがある。


↓以下、携帯版HP「私の体験談」より


「高熱でゴジラ」

本当はこんな話しちゃいけないのかもしれないが、サンリオ時代ゴジラのコスチュームに入った。そう、あの怪獣ゴジラ。
で、このコスチュームが重くて体にピッタリ密着するタイプで、すんごく体力がいる。もちろん怪獣だから、ドッシドッシと力強く動かないといけない。その上、呼吸や視界も苦しくて大変なものだった。しかも一度コスチュームを着てしまうと、自分では絶対に脱げない。誰かに後ろのチャックを降ろしてもらわないとダメなのだ。
その日、風邪で熱が39度近くあった私だが、仕事だからと頑張ってゴジラに入った。で、フォローしてくれる人(←必ずこういう人がついている)の鈴木さんと一緒にステージに向かった。ステージに集まっている子供達と遊んだり、写真を撮ったりするのだが、何しろゴジラだから小さい子は怖がるけど、大きい子は攻撃してくる。そうでなくても大変なコスチュームなのに、この日は熱も高い…。ステージ裏の扉まで来て、鈴木さんは「外の様子を見てくる」と言ってステージへ…。ゴジラ一人(一匹?)で鈴木さんが戻ってくるのを待っていた。…(苦しい)…。呼吸困難に陥りかけていた私は、それでもギリギリまで我慢していたが、ついに我慢の限界に達した。…(脱がして!)…でも誰もいない!いくらジタバタしてもどうにもならない!(鈴木さん!)…とにかく外に出てみよう。ゴジラは自分で扉を開け、外に出た。と、その瞬間にゴジラの周りにはチビッ子が群がった!「ゴジラだ~!」「きゃ~!」たちまちのうちにゴジラは身動きが取れない状態に!…(助けて~!)…(苦しい~!)…と呼吸困難でパニック状態寸前の私は、それでも職業意識でゴジラの動きを演じた。…でも、もうダメ!まとわりつくチビッ子たちを引きずるようにして自ら扉へ引き返し、扉を開けようとしたが、ゴジラの手ではなかなか扉の取っ手が掴めない!その隙にも後ろから過激なチビッ子達のパンチや蹴りが飛んでくる。何とかゴジラの両手で挟むようにしてドアの取っ手をまわし、ステージ裏に逃げた。たまたまそこにいた職員の人に「チャック下ろして~~~!」と叫び、助かったのだった。
今考えても、あんなに不自然な動きのゴジラは珍しいことだったろう。
でも、ホントに生きててよかった。

日記

2006年01月17日 | 自分!
思えば、小学4年生の時から日記を書いている。

最初は4年生の時の担任の小林先生に毎日「3行日記」というのを書かされたのがきっかけなのだが、それから5年生の時には間があいたが、6年生の冬から自発的に書き始めた。

以後、今日までずっと続いている…。

数年前から個人ホームページで「ねぎの日記」として公開している。

このブログと平行して、毎日の行動は「日記」の方で書くようにしているのでよろしくお願いします。

ブログも「日記」も、自分にとってはストレス解消の意味で書いています。



朝…、『センター』…

2006年01月17日 | 仕事!
今日は朝4時から『センター』に顔を出した。

実際には3時前頃から作業準備で動いているのだが、メンバーが揃うのが4時。ここから作業スタートになる。

店舗の部門は夜遅くなる店舗が多いが、閉店時間が一番遅い『カルビ伝説』メンバーが帰って、しばらくするとこの『センター』の部門が動き出す…ということになる。

ほぼ24時間、どこかで誰かしらが動いていることになる。

今日から三澤部長がこの『センター』部門に関わる体制を取っているが、これからしばらくの期間で、この部門の仕事をいろいろ見直したい…という考えだ。

「午前3時」…。

この時間が、寝る時間になったり、起きる時間になったり、まあ自分にとっても今年はすべてを考え直す年だと思っているので、できる限りやってみようと思う。

浅野勉(友人、照明家)

2006年01月16日 | 「人」
渋川市民会館で行われた「天童よしみ」コンサートに照明の仕事で来た…ということで、浅野勉(べんちゃん)氏が『事務所』に寄ってくれた。

コンサートのバラシが終わった後で、『事務所』で行う日曜夜のミーティングまでのほんのちょっとの時間しか取れなかったけど、久しぶりに会って懐かしかった…。

べんちゃんとは浪人時代の予備校(代々木ゼミナール)からの友人で、大学で自分が演劇サークルに入ったのは、新入生をサークルに勧誘する劇団の飲み会で、べんちゃんが酔っ払って先輩の家に泊まって演劇サークルに入らざるを得なくなった…ということからだ。

まあ、それから大学在学中に篠浩司くんも一緒に3人で「フレアー・アップ」という劇団を旗揚げしてプロとしての活動を目指した訳だが、「フレアー・アップ」の作品はほとんどが、作:根木寛正、演出:浅野勉 という形でやった。

その後、べんちゃんは照明会社に入ったが、数年前に自分で独立して、今は個人事業主として照明で生活している。

来週、自分が経営者セミナーで東京に行くが、その時に「フレアー・アップ」関係者で集まることになった。

その場所決め、段取り…をお願いした。

「べんちゃん」というあだ名は「勉(つとむ)」という名前の音読みからきている訳だが、彼は大学時代アルバイト先でぜんぜん別の理由から「べんちゃん」というあだ名をつけられていた。

それは、勤務初日の一番最初にお腹が痛くなってトイレに入った…ということからだそうだが、この彼のバイト先がドリフの仲本工事さんの店で、自分もべんちゃんのバイト先に行って何度か会わせてもらったことがある…。

いやあ、そんなことをいろいろ思い出して、実に懐かしく嬉しかった。

もう20年前の話だ…。

子供の遊び

2006年01月15日 | 家族の出来事
子供たちと買い物をしていたら、知らない子供たちがいきなり声をかけてきた。

「ねえ、通信しよう…」と言うことで、ウチの苑美、駿輔、大輔はそれぞれその子たちと「たまごっち」で通信を始めた。

ウチの子供たちが「たまごっち」が欲しい!と騒いでいたのが去年の夏…。それから半年になるけど、いまだに毎日「たまごっち」を育てている。

そろそろ飽きないのだろうか…と思うのだが、まだこうして遊んでいる。しかも外出していると、子供たちの多くが首からぶら下げていたりする。

聞くところによると、新しいシリーズが出ていてより複雑に遊べるようになっているみたいだ。

ウチの子供たちにしても、知らない子に「通信してください…」と声をかける姿を見たりするのだが、知らない子に声をかけていく…なんて、自分の頃にはなかったことだ。

これはこれで子供同士のコミュニケーションということでは良いことなのかもしれない…。

でも、いきなり男の子が苑美に声をかけてくるので、子供のナンパかと思った…。

障害を持つ方の雇用について

2006年01月13日 | 私の考え
障害を持つ方の雇用については、いろいろ考えないといけないことだ。

去年、こうした障害者の学校から雇用に対しての理解を求める説明をする方が何度か会社に来られた。

こうした方は、「仕事によっては充分できることがいろいろあります…」と言うのだが、我々としてはどの位のことができるのかわからないから、なかなか話が進まない。

今日、また電話があって、自分なりにどうすれば話が進んでいくか考えてみた。

で、学校を見学させて欲しい…ということを伝えた。

実際に初めて障害者を採用する時には、企業はどうやって採用を決めているのかわからないが、学校側は「大丈夫です…」と言うのだけど、やってみてダメだと断るのでは本人を傷つけることになる。

だから、事前に学校見学等で普段の生活を見せてもらえれば、どの位のことならできる…とか、判断もできるんじゃないかと思った。

…ところが、こうしたことで企業に対して見学を許可したことはない…と言う。

「障害者の家族にしてみると…」とか言うのだが、であればいつまでたっても想像で話を進めるしかない訳で、学校側は「単純作業なら充分大丈夫です…」と言うけど、我々としてはどの位のことができるかわかってから答えを出さないと、お互いがつらい思いをすることになる…と言っているのだ。

だから、障害を持つ方の就業支援においては、企業に対して学校見学会等で理解しやすい環境を作るべきだ。

「見学に来る方はいないのですか…?」と聞いたら、「議員さんなどから申し出があった時には学校見学をしてもらっています…」と言う。

自分はもっと企業に対して理解を求めた方が障害を持つ方の支援になると思う。そしてその理解の求め方は、担当者が企業へ「大丈夫です…」とか「助成金が出ます…」とか言ってまわるのではなく、学校や個人個人を見てもらって本当の意味での理解を求めるようにするべきだ…と思う。

自分にしてみれば、採用するのを拒否しているのではなく、安易に答えて実際の仕事の中で本人が傷つくのを避けたい…のだ。

いずれにしても、障害を持つ方も自立できるように、周りはいろいろなことを考えていかないといけない…と思っている。