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岩手県盛岡から四季通じて自然、食の情報を発信します。

[キノコの山プロジェクト] ひらたけ編

2011-12-04 19:35:57 | 農業







あらかじめ切り出した原木は上下に輪切りにしておきました。
1、分量通りの水を用意しおがくずとひらたけ菌をまぜます。(にぎって水がしみだす程度の水分量) 鍋に入れると美味しそうなつみれが、できあがりましたけどねぇ…(笑)
2、これを輪切りにした原木の年輪の上にまんべんなく敷きます。そこに輪切りにした原木でふたをします。(美味しそうなハンバーガーのできあがりになります。
3、菌の定着を良くするため、切り口をガムテープでぐるぐるに巻いて作業は終了しました。
キノコの森に散策に行くとひらたけ、なめこが少しだけ見られ、収穫体験もできました。
来年はたくさんキノコができれば、とてもうれしいんだけどなぁ…これで年内の作業は、おしまいです。

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[キノコの山プロジェクト]( なめこ、ひらたけ編)

2011-12-04 19:33:56 | 農業






雫石町の南畑のコテージ村をおとずれるのは、二週間ぶりになります。
天気は大荒れでしたが、作業はビニールハウスで行われるので安心でした。 きょうは、村長をはじめ数名が欠席で約10名ほどの参加者でした。
作業は、あらかじめ切り出し乾かした。原木にキノコの植菌をしました。
各自に原木が、あたえられ欲張りにも太いのを選びなめこ2本、しいたけ1本の原木に植菌しました。
原木にハンマーを使い手で打つ方法も試しにやって見ましたが、真っ直ぐに穴を、開けるのがむずかしかったです。
1、原木にドリルを使い25㎝間隔に互い違いになるように穴を一周にして開ける。(だいたいと言われるのが一番困り、テープで間隔を計り穴を開けました。)
2、菌のついたこまをハンマーを使い打ち込む。
3、テープに自分の名前を書いてマイキノコ原木が完成しました。
この打ち込む菌のにおいをかぐとしいたけの香りがしました。
ビニールハウスの中は外の風の音が騒々しいかったけど、暖かで上着を脱いでちょうど良かったです。
ついしん
今からしいたけのバター炒めが楽しみですねぇ…(笑)

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[世界で最も影響力のある100 人に選ばれた南相馬市長桜井勝延氏]

2011-12-04 03:50:47 | 日記



福島とともに原発の存在を問う
会場 岩手大学農学部・総合教育研究棟(生命系)1階7番講義室
内容
基調報告
[原発災害からの復興]
南相馬市・桜井 勝延市長 現地報告
[全村避難、人も牛も消えていく飯館村]
そうま農協労組書記長
渡辺勝義
市長の基調講演
福島県は、スピーディーの情報を得ていたにも関わらず南相馬市には指示を出さずに被害が広がったようです。
他県からは続々と救援の手がさしのべれている最中、福島県は県庁内で混乱があり指示待ちで情報を出せない状態にありました。
それが、マスコミから情報がもたらされ国の避難指示を知る。その前代未聞の混乱ぶりでした。
結果的に避難したは飯館村はホットスポットにあたりより汚染され場所に避難したことになり国、県の一過性のない情報に翻弄され受けなくてもよかった被爆を受けてしまったと県、国の対応を批判していました。
物資輸送の燃料供給も不足しタンクローリーは郡山まで、支援物資は避難地域に届かずに必要な物資は自ら取りに行かないともらえない現状があったようです。
やがて町から人が消えこれは取り返しのつかない状況に至ったと辛い胸の内をあかしていました。
未だに汚染の許容値を定める根拠を持たない国、そもそもその決めた数値が、ころころかわり信頼がおけない状況あるようです。
これは私達が買う食品の数値においても言えることです。
再び人々が、町に帰りにぎわいがとり戻り野馬追いをしたいと願うその気持ちにこたえようと市長は懸命に働いています。
今回の原発事故のことをすべてを人のせいにしても何もかわらないこと、自身は酪農家として歩み市長になったが、一時的なお金の誘惑に惑わされずに、心を大切にする気持ちが見られました。
話しが酪農にもおよび水より安く売られる。牛乳を農家は、だれのためにつくり今回このような仕打ちをなぜ、受けなければならかったのかその無念さがありました。
その東京電力は、責任逃れをし表からいなくなり徐洗は、自治体に任せっきりなり国は、仮置き場に30年の保管期間を決めただけで解決をただ先送りにしたに過ぎません。
渡辺勝義さんの現地報告
妻の両親を今度の震災で亡くしました。しかし原発の放射能汚染により長い間捜索ができずにいたました。それがようやく遺体が見つかり安堵していると話されていました。
しかし震災にあった農地は、未だに手がつけらない汚染、浸水地域にあり農業の再開の見通しがたたず先行きが不安でならないようです。
原発事故の当日は、情報が停電などで中々な得られず事故を知ったのは3月14日になりたの地域ですでに避難を始めていました。
この情報格差、避難誘導の遅れでやはり無用の被爆を受けたようです。
家畜を県外に避難させたり中には家畜を逃がしたりもっと酷いのは家畜を餓死させるしかない状況があったようです。
食肉のブランド化に成功したのもつかの間、飯館村から逃れ隣村で飼育する道を選べた人は、幸せな方です。多くの人は、畜産からの廃業を余儀なくされたようです。
何時になったら飯館村に戻れるかわからない現状に言葉ありませんでした。
会場には南相馬市から盛岡に避難して来た人がきていました。
ふるさと棄てて移った悲しい思いと心残りの思いがあり去るも地獄、残るも地獄のようで事故においての救いが見られませんでした。

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