村上春樹の『1Q84』BOOK3を読み終える。多分、これで「川奈天吾」と「青豆雅美」の物語は、終わった。村上春樹は、この作品の予告で、「恋愛小説」を書くと言っていたが、まさしくこれは恋愛小説だと思う。これまで、いつも登場人分たちがこちら側とあちら側に引き裂かれていく村上ワールドの中で初めて成就した恋愛を村上春樹が書いたということになる。そういう意味では、私の予測とはかなり違った展開になった。ただ、村上春樹の書いている世界は、ただ、こちら側とあちら側の二つだけではなく、もっと多重化された世界へ拡大されようとしていることだけは確かなようだ。
私は、昨年の5月に発売されたBOOK1・2を読んでから、村上春樹の長編だけをもう一度読み直してみた。『風の歌を聴け』(1979年)、『1973年のピンボール』(1980年)、『羊をめぐる冒険』(1982年)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 (1985年)、『ノルウェイの森 』(1987年)、『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)『国境の南、太陽の西』(1992年)、『ねじまき鳥クロニクル』 (1992年~1995年)、『スプートニクの恋人』 (1999年)、『海辺のカフカ』(2002年)、『アフターダーク』(2004年)。ここまで、来るのにおよそ半年かかった。そして、いま、『1Q84』BOOK3を読んだ。
そして、今回、BOOK3は、ベートーベンの交響曲第1番から第9番までを聴きながら2日間で読み終えた。もちろん、私は、ほとんど流れてくるベートーベンの曲を意識してはいなかった。ふと、本から目を外したときに、ベートーベンの交響曲が聞こえてくる。そして、まるでベートーベンの交響曲が前の曲の主題を引き継ぎながら、発展し変形していくのと同じように、村上春樹のこれまでの作品を引き継ぎ、発展させ、変形させていきながら、まるで、第9番の『喜びの歌』のような展開で終わったことに驚いた。そう、私は、読み終わって本当に驚いた。多分、ベートーベンの交響曲がそうであるように、この物語も物語として、堪能すれば良いのだと思う。
私は誰かの意思に巻き込まれ、心ならずもここに運び込まれたただの受動的な存在ではない。たしかにそいういう部分もあるだろう。でも同時に、私はここにいることを自ら選び取ってもいる。
ここにいることは私自身の主体的な意思でもあるのだ。
彼女はそう確信する。
そして私がここにいる理由ははっきりしている。理由はたったひとつしかない。天吾と巡り合、結びつくこと。それが私がこの世界に存在する理由だ。いや、逆の見方をすれば、それがこの世界が私の中に存在している唯一の理由だ。あるいはそれは合わせ鏡のようにどこまでも反復されていくパラドックスなのかもしれない。この世界の中に私が含まれ、私自身の中にこの世界が含まれている。(『1Q84』BOOK3・p475・476より)
とても不思議な文章だ。あたかも物語の登場人物(青豆)が、自分が登場人物にされた理由を語っているかのようにも読める。青豆と天吾は、1984年の世界から、1Q84年の世界に紛れ込み、そして、そこからまた、未知の世界に移動していく。それは、あたかも、青豆や天吾の世界に終わりがあるのではなく、小説という物語形式自体に終わりがなければ、私たちがこの本を読むことさえできない世界のことだから仕方がないと言っているかのようだ。それにしても、このBOOK3は、いままでの村上春樹の作品の中で、いちばん読みやすい本だと思えた。そして、ベートーベンの交響曲が「凄い」と思えると同じように、村上春樹の作品は「凄い」と思った。(久しぶりにこの記事を書いてみたが、粗筋が分からないように書くのは、なかなか難しいものだ)
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