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電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

ブログと物語

2004-08-24 09:52:32 | 文芸・TV・映画
 インターネットを使って、同人誌をつくるという発想は、すぐに思いつく。もっとも、現実にうまく機能しているかどうかは、よく分からない。それに対して、blogを使って、同じような試みをしたらどうなるか。MAOさんが、「マチともの語り」というご当地文芸サイトを立ち上げて、3ヶ月経過した。とても、面白い試みだと思っていた。しかし、私は、良い読者ではなかった。面白い試みだと思いながらも、読むのが少しつらい。いちばん大きな理由は、時間がないことだ。最近、また見直してみて、MAOさんの提案を読みながら、気づいたことを少し書いておきたい。

……ウェブログという簡易CMSツールはサイト管理の煩雑さを気にせずコンテンツへ集中ができる。コメントやトラックバックというネットワーク機能も装備され、RSS生成は分散したコンテンツを集約するのに使える。つまり、これまでネットで作品を公開できる自由は得たものの、孤立していたアマチュアの文芸サイトの悩みの多くはこれで解決できるということだ。早晩、ネット小説はブログへ移行することは確かだ。

自分自身でネット作家をウェブログで目指すことも数秒考えてみたのだが、それよりも新しい「場」を創るというアイデアの方が面白く感じられた。ではどんな「場」が新しいウェブログ文芸サイトとして可能性があるのだろうか。昨年秋から試行錯誤してたどり着いたのが、「あなたのマチにはもの語りがありますか?」という問いかけであった。


 ここで、MAOさんは、物語のデータベースをつくろうとしているのだろうか。むかし、いろいろな土地で土地に結びついた物語りがあった。民話と呼ばれている。民話は、徹頭徹尾、作者を消していく作業だ。そうすることにより、物語空間を共有していくのだ。まるで、blog同士がコラボレーションをして、新しい物語を紡ぐように。たとえば「電車男」の物語。これを、物語化した作品もある。これは、一種の都市伝説であり、それを元にした小説化である。

 人は、私も含めて、blogにこだわり、なぜ毎日書くこと試みるのだろうか。まるで修行僧のような日課だ。いや、修行僧のように書き続けることができるようになる前に、挫折することのほうが多い。書き続けることは、それだけで大変なことだ。blogに書くということは、普通の日記をつけるのとはほんの少し違う。違いは、公開することとそうでないことの差だ。その差は、とても大きい。不特定多数に向けて、これほど人は、何かを書いてみたいのだろうか。「あなたのマチにはもの語りがありますか?」の中で、MAOさんは言う。

……人はなぜ、こんなにも「もの語り」が好きなのだろうか、誰もが「もの語り」が好きで好きでたまらないらしい。
わたしたちは毎日の暮らしの中で、空気のように、水のように、食べ物のように、たくさんのもの語りを消費しながら暮らしている。

……今では、もの語りはメディアの専売特許のようになっているが、もともともの語りはもっと身近なところにあったはず。ムラやマチといったコミュニティの中だけでなく、祖父母から孫へ、親から子へと語り継がれてきた口承としてのお話がもの語りの原点で、わたしたちは本来、豊かな自分たちのもの語りを持っていたのだ。しかし、近代つまり明治以降は、土地と強固に結びついていた地域社会が解体され、新たな産業という社会の中に人びとを再編成していった。旧弊を打破して、新しい思想を身につけることが奨励され、そのためには多くの国民にそれを伝えるためのメディアが必要となった。出版や放送などはそういった社会的な要請があって生まれたというルーツをもっている。


 blogとは、個人的なものなのだ。いや、今では個人的ということさえ超えているのかも知れない。それは、無数の未知の友人を作ってしまうのだ。その力は、現実の共同体をとっくに超えている。だから、「土地と強固に結びついていた地域社会」の「祖父母から孫へ、親から子へと語り継がれてきた口承としてのお話」をも、それは解体するはずだ。あるいは、解体したところで成立している。

……わたしたちが実感できる暮らしとはコミュニティの中にある。このコミュニティの豊かさというのは、誇りや希望というものでしょう。それは、コミュニティが自らの豊かなもの語りを持っているかどうかということと言えないだろうか。もの語りを持つということは、もの語りを共有するということ。与えられたもの語りではなく、失われたもの語りを取り戻すこと、さらに新しいもの語りを創りだし、共有することで形成されるコミュニティ。

 インターネットが、いや、今ではblogが新しい表現を生み出し、新しいコミュニティーを生み出すことは確かだと思う。確かにそこで新しいコミュニティーができる。しかし、そこで知り合って意気投合した二人が、実は日頃はつきあいを避けてきた隣人同士であることに気づかないということだって起こりうる。

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映画「世界の中心で、愛をさけぶ」を観る

2004-08-18 18:23:11 | 文芸・TV・映画
 突然、子どもが映画を観たいと言いだし、昼頃から入間市の「ユナイテッド・シネマ入間」に行くことになった。子どもが観たい映画は、「金色のガッシュベル!! 101番目の魔物」。妻は、丁度水曜日でレディースデーだから、子どもと一緒に映画を観ても良いということになり、私は1人で「世界の中心で、愛をさけぶ」を観ることした。

 1人で純愛映画を観ることが、妻に対してなんとなく後ろめたい気がした。さすがに、この映画のピークが過ぎていたので、館内は空いていた。私の隣には、丁度、映画の主人公(朔太郎と律子)より少し若い恋人同士がいた。その隣に座っているのも、何となく気恥ずかしい気もした。

 原作は、少し前に読み終えた。原作とはかなり異なった映画だったが、映画の主題は、朔太郎がどのように「亜紀との関係」の「後かたづけ」をするかが、テーマだったと思う。ヤフー・ジャパンの映画の紹介サイトがあるが、一応掲載期間が2004年3月19日~2004年7月30日となっているので、おそらくもうすぐ消える可能性がある。そこから、少し引用しておく。

……映画版「世界の中心で、愛をさけぶ」では、小説ではほとんど語られることのなかった、成長し大人になった主人公・朔太郎のストーリーを大幅に追加。映画のオリジナル部分である「現在の愛との対峙(たいじ)」と原作小説にある「過去のアキとの甘くせつない純愛」が織り成すアンサンブル・ストーリーとして再構築されている。

物語は、大人になった朔太郎(大沢たかお)の婚約者・律子(柴咲コウ)が失跡するところから始まる。律子の行き先が四国だと知り、そのあとを追う朔太郎だったが、そこは初恋の相手・アキ(長澤まさみ)との思い出が眠る場所でもあり、朔太郎はしだいにその思い出の中に迷い込んでしまう……。

サク(高校時代の朔太郎:森山未來)とアキの初恋は甘く淡いものだった――二人は一緒にラジオ番組に投稿したり、ウォークマンで声の交換日記のやりとりをしたり、無人島への一泊旅行をしたりと、二人にとってはすべての一瞬が永遠のように感じられた。

ところがアキが不治の病であることが発覚し、運命が急転する。懸命に生きようとするアキだが、直面する現実は避けられない。一方、サクは、アキのあこがれだったオーストラリアの神聖なる土地・ウルルにアキを連れていく計画を思いつく。しかし病院を抜け出した二人は、空港に向かうも、アキは飛行機に乗ることなくロビーで倒れてしまう……。

ところがアキが不治の病であることが発覚し、運命が急転する。懸命に生きようとするアキだが、直面する現実は避けられない。一方、サクは、アキのあこがれだったオーストラリアの神聖なる土地・ウルルにアキを連れていく計画を思いつく。しかし病院を抜け出した二人は、空港に向かうも、アキは飛行機に乗ることなくロビーで倒れてしまう……。

――現在。思い出の迷宮をさまよう朔太郎と律子は、やがて、隠れていた「真実」を手繰り寄せる。そして、かつて伝えられることのなかったアキの最期のメッセージが、十数年の時間を超えて朔太郎のもとへ届くこととなる……。

愛する人の死。未来を紡ぐ愛――
愛する人の「死」と生きていくために渇望する「愛」が織りなす、純愛タペストリーの誕生。

 原作では、かなり頻繁に朔太郎と亜紀は会っていたが、映画では、余り会えなくて、その代わり、カセットテープに声を録音して、それを近くの病室に入院している女性の子どもの小学生に届けてもらうことになっている。亜紀が、死ぬ直前に最後のテープをその少女に託すが、少女は車にはねられてしまう。そして、そのまま入院し、片足が不自由になり、テープを渡さないまま持っていることになる。その少女こそ律子であり、そのテープが律子が昔着ていた洋服のポケットに入っていた。

 朔太郎との結婚式を前に、部屋の片づけをしていた律子は、自分が小さかった頃着ていた服の中に入っていたテープを見つける。テープを聴いて、テープの中の相手が、自分の婚約者の朔太郎ではないかと考え、四国の朔太郎と亜紀が通っていた学校へ行ったのだった。やがて、朔太郎は、叔父の写真館にきた律子と連絡がとれ、律子がテープを運んでくれていた小学生だと知る。そして、二人で、オーストラリアのウルルに行く。そこで、朔太郎は亜紀の最後のテープを聴き終えてから、律子の目の前で、灰になった亜紀を風に飛ばす。

 試写会後のインタビューで、作者の片山恭二さんは、次のように語っている。

Q. 映画はいかがでしたか?

 小説の精神やエッセンスが随所に散りばめられながらも、小説とはまた違った映像世界が誕生していました。小説のなかで描かれているシーンと、小説にはない映画独自のシーンとが相互に補い合う感じで、決してぶつかっておらず理想的な感じがしました。正直、期待はしていたのですが、その期待以上の素晴らしい作品だと思います。

 私は、小説より面白い作品になっていると思った。おそらく、私がそのように思ったのは、映画では、亜紀の両親が朔太郎が秋を連れ回していたこと許していなかったことになっているし、オーストラリアへ行ったのが、両親とではなく、婚約者の律子とだったことによると思う。原作を読んでいたせいか、私は、泣かなかった。もちろん、原作でも泣かなかった。原作では、虚ろなままの朔太郎がこの先、普通に生きていけるのかどうかそちらの方が心配だった。それに対する一つの解決の仕方を、行定勲監督が出してくれた。

 なお、私の隣の二人は、しっかりと泣いていた。彼女の方がハンカチを取り出して、自分の涙と相手の涙を拭いていた。

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『葛生』という漢詩

2004-08-11 16:39:27 | 文芸・TV・映画
 片山恭一さんの『世界の中心で、愛をさけぶ』はベストセラーであり、誰でもが知っていると思う。遅ればせながら、私も最近読んだ。映画では、1986年頃という設定だが、小説では、もっと最近の設定のようだった。しかし、主人公たちの高校生活は、1970年以前の私の高校時代とそう変わらないような気がした。なんだか、とても懐かしいものに出逢ったような気持ちになった。
 
 その本の中に、主人公の松本朔太郎と彼のおじいさんの二人がおじいさんの昔の恋人の遺骨を墓場から盗んでくるところがある。そして、盗んできた骨を前にして、おじいさんが朔太郎に『葛生』という漢詩の話をする場面がある。ちょっと興味を持ったので、Googleにこの言葉を入れて、検索してみた。その結果、この漢詩は、『詩経』にあるもので、次のような詩であることを知ることができた。

葛はえ いばらをおおひ、
かずら 野にはびこる。
よが美しきひと ここにねむる。
誰とともにかせん ひとりおり。

葛はえ こなつめをおおひ、
かづら はかにはびこる。
よが美しきひと ここにねむる。
誰とともにかせん ひとりいこう。

角枕 きらめき、
錦衾 かがやく。
よが美しきひと ここにねむる。
誰とともにかせん ひとりあさす。

夏の日、
冬の夜。
百歳の後、
そのはかに 帰る。

冬の夜。
夏の日、
百歳の後、
そのはかに 帰る。


 これは、「詩詞世界」というサイトの中にある『葛生』から、読み下し文を漢字を少しひらがなにして引用したもである。こういうページがすぐに見つかったということより、こういう漢詩のページがあることに驚いた。すごいことだと思った。

 この場面については、長谷川樹さんが「朔太郎とアキのいる風景」というファンサイトの中で「主人公と祖父と忍び込んだ寺」というページを作って、紹介している。

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