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電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

陰山校長の選択

2005-10-16 23:22:13 | 子ども・教育
 陰山学級物語の中で、陰山さんが、立命館大学附属小学校の副校長への移籍という話について、15日付けの掲示板で自分の思いを語っている。結論から言えば、地元の小学校にもまた全国の小学校にも仕事として関わることができる立場を選んだことになる。立命館大学教育開発支援センター教授になることにより、もし土堂小学校が陰山さんを必要とするなら、永続的に土堂小学校に関わることができるというわけだ。単に土堂小学校の校長という立場では、他の学校に関わることができないだけでなく、土堂小学校にもいつまでいられるか分からない。それを解決する見事な解というべきかも知れない。
 これは、現在の学校制度の問題の一つかも知れないと思う。勿論、学校には校長がいるのであり、校長の裁量で色々なことができるが、その校長が替わればまた別の校長の裁量が働く。勿論、校長も地域の人たちの要望を聞きながら自分の方針を立てるのだろうが、人が変われば変わらざるを得ない。「特色のある学校づくり」というのがこれからの課題だと文部科学省は言っているが、その学校の伝統を造ると言うことだとしたら単に校長の個性ということではダメだと思う。土堂小学校は、学力向上のために、「生活習慣の改善」と「基礎・基本の徹底反復練習」を基本に様々な工夫をしてきた学校だ。それを地域の人たちが要求する限り、続けていくためにはどうしたらよいか。

 いずれにせよ、土堂小学校の校長として、あと何年か勤務するとしても、そう遠くない時期に退くとすると、いずれ保護者の要望にこたえられなくなります。しかし、土堂小学校は地域運営学校になっていますので、地域の願い、つまり保護者の願いがあれば、学校運営に研究者としてかかわり続けることができるのです。
 同様に、もし他の学校の保護者の方が、土堂小学校と同じような指導を望まれるなら、教育委員会に申請し、地域運営学校にすれば、立命館大学教育開発支援センタ-から支援できるようになるわけです。(陰山さんの発言より)


 現在、「ゆとり教育」というわりには教師は暇ではなさそうだ。昔は、国語教育の研究会というとかなり盛況で、幾つかの大会があり、それらに先生方は校費などで参加していた。私も大きな国語教育の全国大会で教育書の販売の手伝いをしたことがあるのでよく分かるが、私がやっていたときは、先生方は領収書を必ずもらっていた。しかし、いまでは自腹で買っているらしい。大会への参加の交通費も自腹だそうだ。つまり、それだけ、自分の学校のことだけに専念すればよいという風潮になっているらしい。

 しかし、色々な学校と交流したり、研究発表をしたり、公開授業をしたり、陰山さんのように本を書いたり、時には教科書の編集に参加したり、また教材を作ったりすることことにより教育の技術を身につけたり、教材開発の力を身につけたりして、つぎの授業に生かすことができる。そういうことができにくくなっているらしいのが気になる。陰山さんが言うように、「研究職」にならなければ、休日や年休をとって手弁当で勉強したり、協力したりしなければならないというのは、寂しい。「学力向上」というかけ声に、もっぱら自分の教室の子どもたちだけを追いつめていく先生が増えることにはなって欲しくないと思う。
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『学力の新しいルール』

2005-10-10 21:49:03 | 子ども・教育
 広島県尾道市立土堂小学校校長の陰山英男さんのサイト『陰山学級物語』を見ていて、来春から立命館小学校の副校長になるという新聞記事を巡り、ちょっとしたフレームがあり、気になった。そこでは、陰山さんは、特別ないいわけはしていないし、言うべき時が来たら正式にお話ししますという答弁と近著『学力の新しいルール』(文藝春秋刊/2005.9.10)を読んで欲しいということが書かれていた。土堂小学校の父兄は、途中で投げ出すような行為はおかしいという意見だし、ほかの陰山支持者は、陰山さんは尾道市だけの存在ではないので、立命館大学へ移って全国の父兄や教師を相手にするのは、次の発展段階としては当然ではないかという意見が出ていた。私は、とりあえず上記の本を早速読んでみた。
 陰山さんによれば、現在の学力問題の要因は、1981年と1993年にあるという。この二つの時期は、色々な教育統計を見て陰山さんが発見したようであるが、1981年は子どもたちの体力テストの調査で体力が大きく下がり始めた年であり、1993年はもう一度大きく下がった年である。つまり、2段階で子どもたちの体力が落ちていったという。

 多少のタイムラグがありますが、1981年度にピークだった校内暴力の発生件数は、1986年に底を打つのですが、1993年くらいから再び急上昇していきます。
 50メートル走、ソフトボール投げ、不登校生徒の数の推移、校内暴力発生件数、四つのことなった事柄について調べたグラフが、傾向においてぴたりと一致しているのです。
 すなわち、1981年と1993年にがくんと体力が落ち、そして不登校と校内暴力が増加している。(『学力の新しいルール』・p26)


 それでは、最初の1981年に何が起きたかというと「子どもたちが眠らなくなった」ということだという。1981年というのは陰山さんが教師になった年であるそうだが、この辺りから子どもたちの生活を変える社会的な幾つかの変化があった。一つは、テレビが「一家に一台」から「一人に一台」になったこと。そして、二つめが82年に登場したファミコンである。そして、三つめが81年に増加のピークに達したコンビニエンスストア。この三つが、子どもを夜型に変え、次第に深夜遅くまで眠らなくなっていったという。つまり、早寝、早起きで、朝食をしっかり取り、適度に運動をする子どもの学力は次第に伸びて行くという統計があるのに、子どもたちは眠らなくなり、夜型になり、次第に体力まで落ちてきたという。これが、1981年から始まった社会的な変化だという。

 次の1993年ごろには何があったか。実は、1981年から始まった、学校の荒廃に対して、「画一的な管理教育」「詰め込み教育」が悪いという世論が起こり、そこで1992年に「新・学力観」が打ち出され、それにもとづいて新学習指導要領が施行されたのが1992年4月だった。この「新・学力観」は、1981年以降の社会構造の変化による子どもたちの知力・体力の衰えを、それまでの指導要領の詰め込み主義が原因だ都勘違いしたところに大きな問題があるという。

 「新・学力観」では、これまで日本の教育の水準を支えていた、小学校段階における読み・書き・計算の基礎の反復練習を、「新しい社会には役には立たないもの」としてばっさりと削り、「問題解決型」の授業をすることが奨励されました。
 これが今日の「総合学習」のもとになるもので、調査をして、まとめて、自ら意見を発表するということを子どもたちに求めていったのです。(同上・p59)

 「新・学力観」の結果、「個性の尊重」「考える力育成」という口当たりのいいキャッチフレーズのもと、基礎基本の反復練習・生活指導を軸としたそれまでの日本の教育の基盤が切り捨てられていったという。こうしたことから、陰山さんは、1981年問題の解決としての「学力の新しいルール」として生活習慣の改善を提案し、1993年問題の解決策として「基礎基本の反復練習をおろそかにしない」ということを提案しているわけだ。

 少なくとも、陰山さんは尾道市立土堂小学校でそれを実践して成果を上げていることは確かだ。土堂小学校では、いわゆる陰山メソッドとして有名な100ます計算ばかりではなく、漢字の前倒し学習、1年生からのそろばん、手書き入力によるコンピュータでの学習などに挑戦し、さらに生活習慣の改善をして、朝型に生活を切り換えさせている。土堂小学校を訪れた時、東北大学の川島隆太教授は「家族と対話しているとき、子どもの脳はもっとも活性化する」といったそうだ。

 さて、ほかにも幾つか面白い実践と提案をして、「学力の新しいルール」を提案しているが、私が気になったのは、「陰山先生は土堂小学校の校長をいつまで続けるのですか」という問いかけに対して次のように答えているところだ。

 これは、教育プランの実践が、私がいなくなることによって終了してしまうことを意味します。校長の個人的な指導力に頼った実践では、校長がいなくなれば実践は終了してしまいます。つまり、校長公募では、限界があるのです。私の在職が三年か、五年か、六年か。いずれにせよ、いずれ実践の継続の問題は発生します。
 それから、もう一つ問題があります。それはプランの立案者が校長では、確かに実践を具現化するには最高ですが、他の学校や地域の方々にこのプランを提供できないというデメリットがあるのです。(同上・p185)


 これに対する解決策として、「教育シンクタンクの設立」を提案している。教育シンクタンクは、一定の教育プランを作り、教材とともに学校や教育委員会に提案をする組織だ。「教育シンクタンクはカリキュラムと教材、そして現場の指導と、これらを一貫して責任を持つ組織であることが望ましい」という。これは、現場で実践をし、校長となり現場で指導してきた陰山さんの現段階の一つの結論かも知れない。そして、次のステップが、立命館大学の教授であり、立命館小学校の副校長ということかも知れない。もちろん、そうでないかも知れない。それは、いずれ、陰山さん本人の口から語られるだろうと思う。
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「女王の教室」が終わった!

2005-09-18 21:46:31 | 子ども・教育
 日本テレビの「女王の教室」の最終回を観た。今までとは違った学園ドラマで、久しぶりに感動した。小学校生活とは何かといえば、それは通過すべき何かである。阿久津先生は、いずれ中学そして、社会に出て行くべき子どもたちを、徹底してしごく。勿論、アフターケアもしっかりしながら、ぎりぎりのところで、子どもたちを通過させていく。教師の側から見れば、子どもたちは出会い、そして通過していく何者かだということになる。教育とは何かということは、とても難しい問題だと思うが、自分の体験からも、義務教育段階というのは、とにかく通過するところだと思う。そして、通過することに意義があると思われる。
 勿論、通過するところだけれども、色々な体験はするわけで、その中で人間としての基礎作りをしていると思う。つまり、小学校や中学校というのは、擬似的な社会でもあるわけだ。昔、子どもが大人になるときにあった通過儀礼。それがいわば、今の義務教育の学校ということになるのではないかと思われる。しかし、今では、その通過儀礼としての役割がだんだん薄れ、今や、より上級の学校へ行くためにステップになっているような気がする。阿久津先生が演じて見せたのは、その通過儀礼の意味だと思う。もし、義務教育に通過儀礼としての意味がなかったら、多分ほとんど教育としての意味などないんだと阿久津先生は言っているように思われた。

 脳科学者の小泉英明さんが『脳は出会いで育つ』(青灯社刊/2005.8.15)の中で、次のように述べている。

 では、「学習」を、脳の神経回路が外部からの刺激によって形成される活動と捉えた場合に、「教育」はどういうふうに捉えたらいいのでしょうか。この点について、まだ仮説の段階ですが、私自身の考えを述べますと、脳神経系の構築という視点から見て、「教育」とは、外部からの刺激を制御する活動といえるのではないかということです。と同時に、外部刺激による脳神経回路の構築という「学習」行為を鼓舞(インスパイア)する活動とも捉えることができるのではないかと考えます。(同上p71)
 

 脳の基礎的な神経回路は、多分、乳幼児期の段階でかなりの段階に達していると思われるが、小学校生の段階でもまだ発達しているに違いない。脳神経系の構築についてはかなり老年期になってもそれなりに発達するとはいえ、20歳くらいがピークだと考えれば、この時期はとても大事な時期に違いない。考えたり、感じたり、思いやったりする心というのは、脳の働きである。そしてそれは、考えたり、感じたり、思いやったりする経験をしない限り脳のそれらの働きを司る神経系は正常に発達しないに違いない。阿久津先生のやっていることは、かなり強引なところがあるが、ある意味では正しいことだと思う。今は、そういうことが避けられているだけだ。

 しかし、少なくとも、我が家の子どもや彼の友だちの話を聞いていると、必ずしもそれを避けようとしているわけではなさそうだ。むしろ、社会のほうが無難な方向に流れているような気がする。学校は、疑似社会であるが、一応安全が確保された場である。今、学校で起きる色々な事件のために、この安全が危機にさらされているように見えるが、外部からの侵入者が子どもたちに危害を加えることはできるだけ避けられなければならないが、それより危険なことは、子ども同士の諍いや自殺などがエスカレートすることだと思う。もう一度、学校は何をなすべきところが、考えてみるべきかも知れない。案外と、教育内容がどう変わろうがあまり関係ないところに問題があるのかも知れない。
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「女王の教室」を見た!

2005-07-31 21:57:20 | 子ども・教育
 息子がどうしても見たいドラマがあるというので一緒に見たのが、「女王の教室」だった。一応、聞いたところでは、毎週見ているらしい。そのために、土曜日だけ10時までテレビを見ることになる。どうも、子供達の間ではやっているらしい。先週につづいて、私は、今回が2度目だ。昨日は、プロ野球の「巨人×中日」戦が延びたために、ドラマは9時半からになった。悪魔のような女王教師「阿久津真矢」(天海祐希)に翻弄される6年3組の子供達の世界だ。
 毎回物語が始まる前に、「この物語は、悪魔のような鬼教師に小学6年生のこどもたちが戦いを挑んだ1年間の記録」というナレーションが流れる。そして、HPには「目覚めなさい、迷える子羊たち。」という挑戦的なセリフが書かれている。私は、天海祐希というのは「てんかいゆき」と読むのだと思っていたが、「あまみゆうき」と読むのだと初めて知った。過去のストーリーを見ると、映像と言葉をうまくアレンジしして、独特な雰囲気をうまく伝えている。ただ、過去のストーリーとしては、多少わかりにくい。

 私は、この物語の展開をわくわくどきどきしながら見ているようだ。そして、どこかでとても不安な気持ちも抱いている。この不安はどこから来るかと考えてみると、どうも話の展開が、あまりに現実的な気がして不安になるらしい。つまり、どこでもありそうなことが、そこには集中して描かれているのだ。どうも、人間関係の核のようなものがこの物語の幾つかの場面で痛烈に批判されているようで、それがどうも私を不安にさせるらしい。

 普段私たちは、心の中で思っていても、そのことを口には出さない思いというものを持っている。それを言ったらおしまいだということなのかも知れない。そうしたことが、これでもかと真矢先生や子どもたちの口から出てくる。そのことが、私を不安にさせるらしい。その意味では、それを見て、もうドラマを止めて欲しいという人たちの気持ちがわからないではない。先生と先生の関係、子どもと子どもの関係、家庭での親子の関係がとても不安定な状況になっている。今という現実を象徴させようとしているからかも知れない。今にも崩壊しそうなところで話が進んでいき、現実の危うさのようなものをそのまま表現していて、そのことが観るものを不安にさせているのだと思う。

 昨日は我が息子といとこが泊まりに来ていて、隣で、普通のドラマのように見ている。「ハリー・ポッター」を見ている子どもたちにとって、子どもをまるでいじめているような教師や、人種差別をしているような友だちを知っている。そして、おそらくは、学校でもそれに類したことを多少はやっているはずだ。また、教師は、多分この真矢先生のような不気味な存在であるに違いない。少なくとも私の子どもの頃は、教師はそんな神秘さと恐ろしさを持っていたように思う。子どもたちもそのような気持ちで見ているらしい。

 このドラマが今後どのような展開をするのか私にはわからない。今のところは、もう一人の主人公と思われる、神田和美が多少盛り返してきたので、これからが楽しみと言うところかもしれない。HPの掲示板の意見では、神田和美が最後にクラスの団結を取り戻し、それが真矢先生のねらいだったというようなうがった結末を予想している人たちがかなりいるが、そうかも知れないし、そうでないかも知れない。ここに登場する、6年3組の24人の子どもたちのその時々の心理的な変容は、それなりに興味深いものがある。我が家の子どもたちの見解によれば、それらはあり得ることのようだ。

 これほど、賛否両論が激しいドラマも珍しいが、それだけ面白のかも知れない。HPの掲示板が日本テレビの方で多少校閲されているので、それぞれの意見のぶつかり合いがとぎれていて、わかりにくいのが残念だ。1年間のドラマだということだが、現在7月で、丁度夏休みになったところなので、ほぼ3分の1ほどが過ぎたことになる。演技はとても誇張されたところがあるが、よくよく見ていると、彼らはとても演技が上手いと思った。時々は、子どもと話しながら、今後の展開を見守りたいと思う。

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『いつもいいことさがし』

2005-07-03 23:16:22 | 子ども・教育
 最近、私も含めて、私の周囲の人間たちが多少いらいらすることが多く、そんなときは大抵、誰かの言動のあら探しをしていたりする。そして、それを暴くことで多少ストレスの解消をしたりしている。しかし、本当は、いつも、どんなときでも、いいことさがしをしていたほうがいいに決まっている。まず、精神的に気持ちがいい。勿論、細谷亮太先生が書く『いつもいいことさがし』(暮らしの手帖社)は、とてもいい話ではあるが、悲しくて辛い話でもある。
 細谷亮太先生は、1948年生まれで、私と同じ団塊の世代に属する小児科医である。1972年に東北大学医学部を卒業後、聖路加国際病院小児科に勤務し、途中1978年から1980年までアメリカのテキサス大学M.D.アンダーソン病院癌研究所に勤務し、その後日本に戻り、聖路加国際病院に復職している。細谷先生の専門は、小児血液・腫瘍学、小児保健などであるが、この本にも何人もの小児がんの子どもたちが登場する。彼らの中に死んでしまった子どもたちもいれば、助かった子どもたちもいる。1970年頃までは、小児がん、特に小児白血病は、直らない病気の代表だったが、今では、8割以上の人たちが助かっている。そんな治療の進歩に陰には、細谷先生たちの努力があることがよくわかる。

 この本のサブタイトルに「小児科医が見た日本の子どもたちと大人たち」とあるが、日本の子どもたちと大人たちの心の様子が変わって来ていることが幾つか取り上げられている。細谷先生は、俳人でもあり、そのせいか文章は的確で、客観的である。

 「いくつまで先生のところにつれてきていいですか」
 外来でよく聞かれます。そんな時、私は「孵化始めたらもうだめ。内科へ行ってもらいます」
 と答えることにしています。老化は、小児科の医者の扱わない領域です。生まれたての赤ちゃんは、お母さんのおなかの中の環境と全く違った大気の中で、生活を始め、体は急激な変化をとげます。その後、乳児は幼児となり、そして小学校から中学校へと進学するうちに、徐々に思春期に入り、やがて成人していきます。結局、小児科から内科へと移行する時期というのは、その子の発達の程度によるといえるでしょう。アメリカの小児科学会は二十五歳ぐらいまでを思春期と考え、小児科の主部範囲としているようです。(『いつもいいことさがし』p8)

 私は、小児科というのは小学生までかと思っていたが、そうでもないらしい。まあ、でも、だいたいはせいぜい小学生ぐらいまでだと思う。勿論、細谷先生の患者さんたちは中学生もいる。その子の発達段階や、何時病気が発病したかにもよるようだ。というわけで、この本には、聖路加国際病院の小児科にやってきた子どもたちの話は、その父母の話が中心になる。とても悲しい話もあり、とても辛い話もある。

 これは、細谷先生が別の本で書いていたことだが、もう回復の可能性もなくなり、自宅でできるだけ楽しい最後の時を過ごしてもらうようにしていたとき、子どもが先生に「先生、どうしても痛くて我慢ができなくなったらどうしたらいいの」と言った。先生は「大丈夫だよ。そのときは、神様がもいいよといってくれるから」という答えたという話がある。私は、愕然とした。しかし、とても悲しくて、とても辛いことをよく理解している言葉だと思った。おそらく、それは、それ以外に言いようがないのだ。残された親にとっても、どうしようもできないことだと思う。

 「物語る」とは、生きること・死ぬことについて、腹におさまるように話をつくることだという。
 たとえば、わが子が障害を背負ってしまったとき、医師がいくら医学的に障害の原因を背つめしても、苦悩する親は腹におさまらないだろう。「なぜわが子に」という問いへの答えにならないからだ。「この子のおかげで弱い人々を見る眼が変わりました。この子は私の生き方を変えてくれた宝物です」と「物語る」ことができるようになったとき、はじめて腑に落ちるというわけだ。(柳田邦男著『読むことは生きること』新潮社の抜き書き・同上p86)

 おそらく、長い時間かけて、残された人々は自分の物語を紡ぐほかないのだろう。そういうことへの行き届いた配慮は、細谷先生らしい。細谷先生は、死んでいく子どもを前にして、その子のご両親と一緒に号泣してしまうという。おそらく、それ以外に方法がない。しかし、この本には、そうした悲しい話ばかりではなく、そんな絶望の中でも、「いつもいいことさがし」をしていれば、楽しいこともまたあるのがよくわかる。そのために、病院中で協力し合う姿がとてもすがすがしいものだと思った。
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