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森繁久弥さん~天国へ1

2009年11月10日 | ヨット
写真はどんがめ8のセーリング


今日~森繁久弥さんがお亡くなりました 96歳でした。

つい~最近~KEN ちゃんが「ふじやま丸」の話を書いて下さったばかり~

何だか、身近な人を亡くしたようでとても寂しい気持ちでいっぱいです。

ご冥福をお祈り致します。




先日~白崎謙太郎さんが書いて下さった B面~、森繁久弥さんとおじいちゃんのお話です。



ちょっと提督の他のヨットのことを書いてみましょう。
まず設計した一番大きなヨット「ふじやま丸」。森繁久弥さんの依頼で設計した73フィートスチール製ケッチです。1964年に進水しました。この大型ヨットの設計の依頼を受け、提督は世界の外洋レースを荒らしまわる当時の「ストームフォーゲル」のような簡素で軽く速いヨットを想定しました。
しかし船主の森繁さんはレースのことはあまり考えずに、専従のクルー数人と若い訓練生10人ほどで南太平洋を初め、世界を就航することが夢でした。設計家は軽く簡素にとがんばるのに船主は初めての大型ヨットを大枚はたいて建造するので、畳の日本間、ヒノキの風呂桶まで持ち込んで、提督を悩ませまた。
当時60フィートから上の大きさの船は鉄が建造費で有利だったのでそうなりました。錆しろを入れて6ミリで作りました。ちょっと厚かった。全部国産でやろうと決め、船体は戦時中潜水艦を作っていて、当時はおそらく遠洋漁船を作っていたらしい横須賀の光造船所、マストブームなどのスパーは「天城」を造った加藤ボート、セールは当時一番実績があった横浜本牧の大原弘山製帆所、金物は桜木町駅前の中村船具、特に金物はこんな大きなヨットのものは無く、ウィンチの大型コーヒーグラインダーはアメリカのメリマン社から輸入すれば簡単なのに、提督は図面を引き、鋳型を作らせ、ブロンズで立派なものを作りました。協力業者の全てが超人気俳優の森繁さんが船主で渡辺さんの設計と言うことで粋に感じ、採算どがえしで、このとてつもない艇を作り上げました。

前稿中、船体を鉄と書いたのは超強力鋼とします。鉄と鋼との違いは熱処理やモリブデンなどの合金素材を伴うかの違いですが、鋼は機械的強度がずっと強いとご理解ください。
「ふじやま丸」建造に携わった唯一の知人はどんがめ先輩の山下さんです。さっき電話で話しました。船の全体は光工業で作り、加藤ボートで作ったマストなどの円材を提督が技術部長だった東造船に持ち込み、あの巨大な雲突くようなクレーンでマストを吊り下げ、取り付けました。その時山下先輩は作業に携わったそうです。山下さんは当時提督の信頼厚い原図引きの腕っこきの職人でした。
当時普通のヨットは免許も要らない。船舶検査もいらない。いわば公園の池の貸しボートと同じでした。その後メル父さんの康夫君が委員をしてりるJCが出来、小型船舶操縦士の免許制度が出来ました。
しかし「ふじやま丸」は大きいので一般船舶です。それ故にプロの船長、機関長、通信士を常雇しておかなくてはなりません。それらの人件費だけでも当時の物価水準でも2千万から3千万円くらいいったでしょう。
それに定期的な安全検査でドック入りする費用は私は想像も出来ません。
有名な言葉があります「ヨットとは金を海に捨てる穴ぼこなのだ」
さあいよいよ船出です。

進水後日をおかずに「ふじやま丸」は関西に向かい確か西宮の港に着いた。ここで台風に遭い、港内で岸壁に吹き上げられ大破してしまった。この時の様子は森繁さんの著作「アッパさん船長」に書かれているのだが、今この本が見つからないので、記憶による記述とさせていただく。係留中しだいに強まる風に、錨は引け危険が迫る。ご子息の泉さん(メル父さんと親しかった)が決死の覚悟でボートを降ろし、風上に係留索をとる作業に行くのだが、ボートは転覆、泉さんの姿が見えない。森繁さんは最愛の長男をあきらめる決心をする。泉さんは水面に姿を現し九死に一生を得た。この時の森繁さんの思いは感動的な見事な文章で書かれています。
風上に岸壁に係留された太いロープは切れなかったのだが、なんと岸壁のコンクリートに取り
付けられた太いピット(鋳鉄製のくい)がコンクリートの根元ごともげてしまったのだ。その後艇は岸壁に吹き寄せられ、吹き上げられ、クレーンか何かの陸上構造物に激突し、あの太いマストも損傷、キャビンはひしゃげ変形し、船体も中央部が大きく陥没してしまった。
森繁さんは息子の命が失われなかったのを幸いとし、「ふじやま丸」についてはあまりの損傷ぶりを目の当たりにして、あきらめてしまったのだ。役者風情が身の程もわきまえず、こんな大きなヨットを作ってしまい大それたことをしてしまったと、謙虚な発言だったはずだ。
直後私は御爺ちゃんに「もう廃船でしょうねえ」と言うと「なあに、元通りに直るよ」とこともなげに言っていたのを思い出す。

森繁さんのこの艇への思いも変わったに違いない。
メル父さんのお爺ちゃん提督のご尊父の下田での通夜の席で私は泉さんと隣席になり、いろいろ話をした。「ふじやま丸」の保守管理の大変さをかたり、「親父は本当にセーリングが好きなので、30フィートちょっと位のクルーザーを買って、気軽にセーリングさせたいのですよ」と言っていたのを思い出しました。
その後パーティーで何度かお会いすると、あちらから声をかけていただいた謙虚なハンサムな泉さんも10年ほど前亡くなった。その後森繁さんは奥様も無くし、ご家族の金銭トラブルで、あの世田谷千歳船橋の広大な家屋敷も失ってしまった。
しかし最近はちょっとぼけちゃったらしいのは幸いだ。晩年になって次々に襲った身の回りの不幸を頭脳明晰で受け止めるのはあまりにも辛すぎるではないか。
「ふじやま丸」は以前と全く同じ姿に修理を終え、再び美しい姿を海に浮かべた。
この稿は池川さんの「天城修復」のB面とご承知ください

森繁さんのこと、前稿訂正、お住まいは等価交換でマンションにして、そのワンフロアーに住んでいるとのこと。マンションを作り、そのワンフローの住んでいるのは私と同じ、違うのはスケールが一桁以上あちらが大きい。
 さて森繁さん、戦前早稲田で演劇に夢中になり卒業後役者を志した後、日本放送教会(NHK)のアナウンサーになり、大陸勤務になた。そこに慰問団で志ん生と円生が来た。特にのんべいの志ん生は演芸会に遅刻する。司会の森繁さんは時間つなぎで即興のスピーチ、これが絶妙のうまさ。志ん生はある日円生に聞こえないように「お前さん、落語家におなりよ、あたしほどにはなれないが、円生程度にはなれるよ」。
戦後役者になり瞬く間に大スター。
「ふじやま丸」を作ったときは50歳くらい。提督は40代半ばくらいだった。
 私は熱海後楽園ホテルのオープニングパーティーのことを思い出す。後に社長になる支配人の田辺栄蔵さんは提督の信奉者で自身も渡辺設計のヨットを作り舵」の常連執筆家、近在のヨットを招待して下さったのだ。
もちろん「どんがめ」も参加し「ふじやま丸」も熱海の入江に勇姿を現した。
 楽屋で余興で森繁さんの作詞の海の歌を合唱することとなり、巻紙に毛筆でさらさらと歌詞を書く森繁さんの達筆なこと、下手うまではなく、楷書の達筆!!
豪華なバイキングをホテルから振舞われ、いなせなはっぴをお土産にいただき、帰路、先行した「ふじやま丸」はどんがめを接舷するように拡声器で誘う。提督は「いいよこのまま行こう」と無視する。私たちクルーが「行きましょう」と強く勧め舷を接する。森繁さんはしきりに「ふじやま丸」に上がるように進めるが、提督は行かない。森繁さんもあきらめクルーに「渡辺さんにビールを持ってきなさい」、私は渡される数本のビールを受け取ろうとしたら、なんとビンビール一箱、24本、緊張し海に落とさないように受け取った。渡辺さんはトローイングで釣ったばかりの鯖数本をお礼に渡した。
森繁さんはそれでもあきらめきれず「漁師はすぐ行ってしまう。」と残念そう。提督漁師にさせられた
この時私がビールをもらう写真が残っているはず。
さて森繁さんは「ふじやま丸」を係留していた佐島にヨットハーバーを作ると言い出した。これには提督は地形の悪さから目一杯反対し、一時は反目しあうほどだったそうだ。
あっと思えばぱっとやる森繁さん、作ってしまったのが佐島マリーナ。後を任されたのが泉ご子息、大変なご苦労の連続だったらしい。やがて個人でハーバーを持ち続ける限界に達し、マリン事業に手を染め始めた日産自動車が資本参加するようになったが泉さん無くては成り立たず、ハーバーマスターとしてお残りになった。
この頃全国のマリーナの集合体として日本マリーナ協会が出来、葉山マリーナに幹部候補生として奉職し始めたメルパパとの交流はさらに深まったはずだ。
その後の「ふじやま丸」は森繁さんの夢の航海は道半ばで、手放すこととなり、田辺栄蔵さんの熱海後楽園に嫁入りしたのだ。日本中のヨット乗りは、父親のような「ふじやま丸」がまた航海を続けると思っていたのだが、陸上に上げられてしまった。もはや船舶ではなく、住宅でもなく、コンテナーかプレハブ物置のようなもの、わずかな入場料をとって客に見せる、見世物になってしまったのだ。
「ふじやま丸」は1960年代に稀代の役者と
40代前半の男盛りの設計者の提督のjコラボレーションで現れた、わが国では桁外れのヨットだった、しかし船舶職員法や船舶検査法が本船並みに適用され、固定費がかかりすぎたのがもちきれなくなった最大の原因だった。
森繁さんはその後ヨットでは無い大型のモーターヨットでじっくり時間をかけて日本一周の航海を無しし遂げたのだ。
本当に良かった。!!!









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4 コメント

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ハマナスの花 (メル)
2009-11-11 09:39:53
シトリンさん~初めまして・・

美しいハマナスの写真と「知床旅情」の歌詞・・・・
改めて、しみじみとした思いが 致します。

森繁久弥さんのご冥福をお祈り致したいと思います。
返信する
Unknown (ken)
2009-11-11 14:15:03
再掲載、感謝です。私は今やっと雑誌{J・セーリング」の故大儀見薫さんの追悼文、4000字弱を脱稿して一息入れています。今日は一日雨でパン屋は臨時休業。まだ二時ですが、これから日本酒一杯カーッと引っ掛けて一寝入りです。
返信する
後楽園ホテル (troupers)
2009-12-24 13:29:57
私は幼少の頃、毎年夏には熱海後楽園ホテルに家族旅行で出かけ、そこで毎年ふじやま丸の船内を見学してました。一度行ったら5回以上、通算では30回は見学したでしょうか?ふじやま丸の豪華な船内に感動し、いつかは自分も!と、その後の人生の励みになったものです。25歳で小型ボートを手に入れ、そこから数艇乗継ぎ、今では40フィートとなった自艇で、マリンライフを楽しんでみます。ふじやま丸は、当時小学生だった私の人生を方向付けたといっても過言ではありません。あのような、夢のあるストーリーが最近の日本にはなくてさみしいですね。森繁久弥さんのご冥福をお祈りいたします。
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初めまして・・ (メル)
2009-12-24 20:48:11
初めてのコメント~ありがとうございます。
大きなヨットにお乗りなんですね。幼少の頃の夢が叶って良かったですね。

現在~天城のレストア進行中です。
夢をもう1度・・

42年前設計の木造船のレストアをお楽しみ下さい。
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