ブログ de なんで屋 @東京

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食糧自給率を考える~大豆の自給率5%!?~

2009-04-29 17:43:03 | 路上の声~社会~
■戦前の大豆  
大豆油のお話
日本の大豆の消費量は,466万トン(1998年)うち362万トンが製油原料として使われ,約67万トンの大豆油が生産されています。これは,油の全消費量の 36%を占めます。(略)大豆油は,他の油と調合され,サラダ油や,天ぷら油という名前で使用されています。中でも菜種油,コーン油,綿実油などと調合される事が多いようです。

油と歴史の話
大豆搾油が始まるのは日清戦争後の明治30年代以降のことだ。わが国における豆粕製造(大豆油は当時副産物だった)は明治34年から始まった。豆粕は肥料として使われた。(略)日清戦争での勝利により,中国大陸への進出の足がかりを得たわが国政府は,大豆の産地である満州,大連などへの企業誘致を積極的に推進した。(略)(株)ホーネンコーポレーションは,満鉄中央試験所製油試験工場から始まった。満鉄はドイツからベンゼン抽出法の特許を得て抽出工場を建設した。大正5年に製油工場を民間の鈴木商店に払い下げ,鈴木商店製油部は大連工場に続き内地において清水,鳴尾,横浜に相次いで大豆抽出工場を建設した。その後,第一次大戦後の不況の波に抗することができず,鈴木商店は製油事業の分離独立を決め,豊年製油(株)が設立された。このように大豆を原料とする製油工場のほとんどは,中国から輸入される大豆を原料にスタートしている。

大豆油を伸ばした豊年と館野のカ
(略)関東における大豆油の販売は思うように運ばなかった。(略)そうした苦境を救ったのが9月1日に起きた関東大震災であった。(略)東京中の問屋と仲買いが札束を抱えて芝浦に押し寄せたといわれるぐらい,油を求める多くの人が集まり,面白いように売れた。 財閥と帝国主義 坂本雅子著このように三井物産は、軍事的侵略、満鉄、横浜正金銀行などと相補いつつ、満州での取引を急速に拡大したのであるが、同社にとって満州の意義を不動にしたものが大豆三品すなわち大豆、大豆粕、大豆油の扱いであった。大豆は三井物産が1908(明治41)年にヨーロッパ向け輸出を開拓して以来、世界商品としての価値を高めた。搾油用として当時ヨーロッパで使用されていた棉実や亜麻仁代わるものとして迎えられたからである。大豆油の絞り粕・大豆粕は家畜の飼料として利用され、或いは肥料として日露戦争後の農村に急速に普及した。大豆油は特に第一次世界大戦期、アメリカに大量に輸出された。 満州経済にとって大豆の持つ意義は大きく、日露戦争後の南満州の移・輸出品において全体の5~6割が大豆、大豆粕、大豆油の三品によって占められていた。(略) 大豆粕は満州の総輸出高の八割が日本向けであり日本商社間の競争も激しかったが、ほぼ2割前後を同社が扱っていたと考えて良いだろう。大豆は国際商品でもあり、外国商社との競争も激しかったし、日本の大商社から中小業者まで入り乱れて競争していたが、三井物産は日本の商社の中では一位であり、世界的にもロシアのワッサルドなどと覇を競った。(略)1907年に三井物産は大連に三奏油房を設立し自ら大豆油、大豆粕の製造に乗り出した。

陸海軍における脚気の問題
脚気は白米を主食とすることによる病気で江戸時代からあらわれ、明治になって増加した。(略)明治13年に高木がイギリス留学から帰国したとき、海軍では総兵員数4500名ほどのうち3分の1が脚気の患者であり、年に30名以上が死んでいた。高木はイギリスに脚気患者がいないこと、また艦艇の遠洋航海記録を調べると外国の港に停泊中は脚気が発生しないこと、士官より兵士に重症者が多いことなどから、兵士の食事に原因があると考えた。そして兵食を分析した結果、タンパク質が少なく含水炭素が多い場合に脚気が発生すると結論し、予防策として兵食をパンや肉食中心の洋食に変えることを提案した。高木は「脚気病調査委員会」の設置を進言し、(略)この委員会を足掛かりにして海軍内の兵食に関する制度をやつぎばやに改革した。

肉用牛の歴史
日清、日露の両大戦により牛肉消費は著しく拡大したが、大正時代には第一次大戦後の好況により一層消費が拡大し、国産牛肉の不足が問題となった。大正6年から10年にかけては、年間の平均で6,400tの青島牛肉等が輸入され、30,400頭もの朝鮮牛が輸入されるようになり、大正7年からこれらに対する免税措置が講じられた。役肉用牛の肥育は各地に広まり、ワラと米糠、くず穀物及び醤油粕などを用いた肥育が行われ、大正末期には満州大豆粕の利用法が研究されて使われるようになった。 明治期に始まった(定かでないものもある)肉系の洋食 ①カツレツ 1860年福沢諭吉の著書に記述 ②牛鍋1862(文久2)年横浜で開業。外国人向けに東京・芝に屠牛場 1868明治元)年③ライスカレー1877年(明治10)年東京の洋食食堂「風月堂」。洋食屋 煉瓦亭 1895(明治28)年 ④コロッケ 1903(明治36)年レシピ本 ⑤とんかつ 1924(大正13)年

■戦後の物資調達

三井物産
復興の第一歩に貢献焦土からの復興で日本が一番必要としていたものは、食糧の確保、生活物資の調達、そして戦争によって荒廃した生産設備の刷新だった。1947年の財閥解体後、現在の三井物産の前身である第一物産は、戦地から引き上げて来た2名の商社経験者が代表取締役となりスタート。小じんまりとした陣容だったが「総合商社」の看板を堂々と掲げ、まずは急務として衣食住の輸入に取り組んだ。当時、わが国の貿易はGHQの統制の下、政府・公団が取り仕切っていた。第一物産はここに積極的に働きかけ、業務代行委託契約を取り付ける。以後、リン鉱石の輸入とシイタケの輸出を皮切りに木材・瓶詰め食品・水産物・油脂・医薬品・ガラスなど、徐々に取り扱い品目を拡大して「総合商社」としての体裁を整えていった。

外務省 ODAちょっといい話サイト名
第二話戦後の灰燼からの脱却 

その1 ガリオア・エロア資金なかりせば
(略)混乱と疲弊から立ち直り、経済大国への道を歩む上で、アメリカからの資金援助である「ガリオア・エロア資金」の果たした役割は計り知れないものがあった。1946年から51年にかけて、約6年間にわたり日本が受けたガリオア・エロア援助の総額は、約18億ドルであり、そのうちの13億ドルは無償援助(贈与)であった。現在の価値に換算すれば、約12兆円(無償は9.5兆円)となる膨大な 援助であった。

その3 国際NGOからの大きな贈物
戦後、食料品や医薬品そして日用品など、いろいろ不足していた時代に、腹を空かせ病に苦しむ日本の子供たちをはじめ多くの人々を救ってくれた救援物資である。まず、“ララ物資”である。英語でLARA(Licensed Agencies for Relief of Asia:公認アジア救済連盟)という。(略) 次に“ケア物資”である。1945年の終戦直後、戦後のヨ-ロッパを救済するために、アメリカで設立されたNGOの一つに「ケア」(CARE:Cooperative for Assistance and ReliefEverywhere)があった。「ケア」は1948年にヨ-ロッパ以外ではじめて日本に事務所を開設し、救援活動を開始した。(略)その内容は、食料品、菓子、コーヒー、紅茶、砂糖、および石鹸など日用品も含め多岐にわたるものであった。

ガリオア資金Wikipedia
占領地域救済政府資金のこと。第二次大戦後、アメリカ軍占領地の疾病や飢餓による社会不安を防止し、占領行政の円滑を図るためアメリカ政府がオーストラリア等の占領地、そして旧敵国の占領地である日本と西側ドイツに対して陸軍省の軍事予算から支出した援助資金である。(略)日本向けには脱脂粉乳、雑穀類を食料として送った。

フジ産経ビジネス1 090114
■もはや国益 
安定調達 大手商社が海外で食糧の安定調達に力を入れ始めた。米国や南米の穀物取引は穀物メジャーと呼ばれる米カーギルやADMなどひと握りの穀物商社が事実上、牛耳っている。日本の商社はこれらの穀物メジャーから買い付けてきたが、例えば穀物輸入の拡大によって力をつけている中国企業とカーギルなどの穀物メジャーが手を組めば、日本は「買い負け」どころか、安定供給そのものが揺らぎかねないためだ。穀物ビジネスで収益をあげると同時に、日本の食糧安定調達にも資することを狙った動きだ。

「マスコミに出ない政治経済の裏話」サイト名
カーギル兄弟は、生粋のアメリカ人、すなわちWASPと見られている。だが、カーギル社が一九四七年(昭和二十二)、ネルソン・ロックフェラーとブラジルで事業提携を締結したことをキッカケにロックフェラー財閥との密接な関係が築かれた。そのロックフェラー財閥が、ロスチャイルド財閥との間で人材や資金を交流させ、「ユダヤ化」していることから、カーギル社もユダヤ系列に加えられるようになっている。

日本の「食」もアメリカに支配されている

纏めると、


①江戸時代末期の黒船来襲で日本に不平等な通商条約を強制、日本国内に肉系洋食を持ち込み大豆油や肉食牛飼育のための大豆粕の需要が高まる。
②明治、大正、昭和と日本は台湾、朝鮮、満州に進出。大豆を現地生産し欧米に輸出する他大豆油、大豆粕は国内向けに供給する。
③敗戦後の物資不足に際して三井物産の生き残りが国際貿易に活躍。又米陸軍から資金援助による物資輸入が活発化。更に穀物メジャーが牛耳る輸入食品の消費市場が形成される。


江戸の開国圧力→政府転覆→西洋文明化→植民地競争に参入→敗戦で輸入食糧の大量流入→自給率▽が見えてきます。

この間凡そ100年の間の出来事ですが、これらが全て西欧金融資本の日本支配の「戦略」で、まんまと「市場化」されているのだとしたら・・・。政治家や軍人や商人に任せているとこうなってしまうという見本のようです。

もう一度日本はどうすべきかの議論が必要だと思います。

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1 コメント

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Unknown (タコ)
2009-05-01 23:33:56
資本主義は、自由主義とも習いました。自由主義は、自由競争を基に商品流通が決められるので、消費者にとって有利のような気がして生きてきました。
しかしながら、加工貿易などという言葉が産まれたように、日本は工業製品をアメリカに売ることによって経済発展してきたように思いますが、アメリカの不況とともに、すぐに景気がおかしくなる。鎖国をして、自国内で全ての食料をまかなって、決して裕福ではなかった頃の国家の方が、実は豊かになっていたのかなぁ、などとふと考えてしまう今日この頃です。
もっとも、黒船来航→開国→黙っていたら植民地にされてしまう→自国経済壊滅の危機→だから富国強兵→しかし、強くなるとアメリカに目をつけられる→戦争→敗戦→植民地にならなかった背景に、東西冷戦→アメリカは自陣に日本を加えるために、西側諸国として独立させる→アメリカ相手に経済発展→しかし、小麦大豆など、日本人の食卓はアメリカの植民地に→日本はアメリカの52番目の州なのか・・・??
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