屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

野幌兵村の紹介

2011-11-16 18:44:35 | 野幌屯田兵村

 工 事 中
「野幌兵村」
入植年:18年、19年
入植地:江別市1~4番通、6丁目~11丁目通

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   野幌兵村入植配置図(PDF)「nopporo1.pdf」をダウンロード

出身地:中国、九州を中心に7県
入植戸数:225戸
   
   野幌兵村入植者名簿(PDF)「noppro2.pdf」をダウンロード

●明治18年7月の入植(江別・篠津、野幌屯田兵)
 便 船:佐渡丸
 移 動:小樽から江別まで汽車で移動し徒歩で江別、野幌兵村へはいる。
     篠津兵村へは、さらに石狩川を渡河し分け入る。
 入植日:7月1日

●明治19年5月の入植(江別、野幌屯田兵)
 便 船:和歌浦丸
 移 動:小樽から江別まで汽車で移動し徒歩で江別、野幌へ入る。
 入植日:5月27日
  
給与地
  給与地:4,000坪(100間×40間)
  追給地:10,000坪

部隊名
 第1大隊第4中隊~第3大隊第2中隊(明治20年5月)~第2大隊第2中隊(明治24年4月)

大隊長
  第1代(1大隊長):本田親秀少佐(明治18年~     )
  第2代(同  上):野崎貞次少佐(明治20年10月~  )
  第3代(3大隊長):和田正苗中佐(明治23年12月~  )
  第4代(2大隊長):吉田清憲少佐(明治25年年2月2日~)
  第5代(同  上):菊池節蔵少佐(明治27年1月26日~) 日清戦争時の大隊長
  第6代(同  上):佐藤當司少佐(明治28年7月23日~明治32年の大隊廃止まで)

中隊長
  第1代:吉田清徳大尉
  第2代:篠崎彦二大尉
  第3代:

「野幌兵村出身県別入植者数」
 石川県  29
 鳥取県  64
 広島県  37
 山口県  20
 佐賀県  24
 熊本県  21
 鹿児島県 30
   計 225名

Ⅰ 野幌兵村の特色
  野幌とはアイヌ語の「ヌプポロ」大いなる平野が語源と言われている。
1 地理的特質
(1)その源を大雪山、夕張山系、暑寒別、千歳・恵庭の山々とする北海道一の大河石狩川が悠々と流れる石狩平野のほぼ中心に位置し、隣接する江別太は松前藩の時代から太平洋側の勇払と日本海側の石狩を結ぶ水上交通の要衝であった。また、太古の昔、この付近が海峡であったともいわれており、江別、恵庭には縄文時代の遺物が出土されている。
(2)野幌は江別川(現千歳川)の左岸、恵庭~北広島から上野幌~野幌~江別太へ連なる台地上にあり、その台地から幾筋もの沢が旧豊平川に向け走っていた。野幌兵村が配置された地域は火山灰土で、追給地として与えられた石狩川流域は沖積土、さらに低地には泥炭地が広がっていた。
(3)隣接する江別兵村地域は石狩川と江別川(現千歳川)、旧豊平川が合流する地で、エベツブト(江別太)、ツイイシカリ(対雁)は鮭をはじめ川魚の豊富な場所であるとともに、鹿の生息地でもあった。故に、この付近はアイヌの人達が住み着き、松前藩はそれらアイヌの人達を相手に上ツイシカリ場所と下ツイシカリ場所を設け交易を行っていた。野幌の西側は大麻地区で、更に進むと白石へと続き道都札幌に近接している。
(4)南・北からの風が吹き抜ける地で、夏季は割合温暖である反面、冬は北からの季節風が吹き抜け地吹雪になることも多く、札幌の中心から15km程しか離れていないにもかかわらず、冬の最低気温は5度ほど低い。
(5)植生は鬱蒼とした樹林地帯であった。 

2 時期的特色
(1)屯田兵以前の入植
 ○明治4年伊達支藩の涌谷から24戸が対雁(ツイイシカリ)に入植したが、過酷な環境で夫夫撤退していった。
 ○明治8年ロシアとの間に樺太千島交換条約が調印され。翌明治9年、南樺太に住んでいたアイヌの人達が本人の意志に反して対雁に移住させられた。この移住は悲劇を伴い、後に蔓延した伝染病等で多数の犠牲者を出した。(日露戦争の後、日本の領土となった南樺太に再移住した時には半分以下に減じていた。)

(2)屯田兵関連
 ○明治7年屯田憲兵例則制定。明治8年最初の屯田兵として琴似(札幌)、続く明治9年に山鼻(札幌)に、それぞれ240戸が入植し1個大隊を編成。
 ○明治10年に西南戦争が勃発し、別働第2旅団第1大隊として琴似・山鼻屯田兵が出動。それらの屯田兵の出身は伊達の支藩である亘理、会津、庄内等戊辰戦争で敗者となった東北諸藩の士族が中心で、仇敵を討ち怨念を晴らすべく勇猛果敢に戦った。
 ○西南戦争の勃発により中断していた屯田兵の入植は明治11年から再開したが、予算不足から制限された中でとなった。
 ○明治12年屯田事務局長永山武四郎中佐はロシアのコルサコフ(大泊)を視察しコサック制度、寒冷地の住宅などを研究。(明治14年に入植した篠津の兵屋はコサック式)
 ○屯田兵設置の根拠として明治7年に制定された「屯田憲兵条例」が廃止となり、代わって明治18年「屯田兵条例」が制定された。屯田兵は「憲兵」から「陸軍兵の一部」と位置づけられた。
 ○明治11年、明治14年、明治17年にかけて、野幌兵村と隣接する江別太付近及び篠津に江別屯田兵の第1陣・第2陣が入植していた。

(3)開拓使による農業指導
 ○明治4年、開拓使顧問としてケプロンが来日。その他、米国を中心に多くの技術者が来日した。その中に草本培養方のルイス・べーマーが明治4年に、農業方としてエドウィン・ダンが明治6年(両者が札幌に来たのは明治9年)に来日し、西洋型の農業を指導していた。また、明治9年に札幌農学校が開校し西洋式の近代的農業の教育が行われた。
 ○明治9年、桑が自生している篠津太に養蚕の拠点を築くべく養蚕施設を設置し、琴似・山鼻屯田兵家族に技術伝授を行いつつ作業に当たらせていた。

(4)地域の発展と交通運輸
 ○明治12年からはじめられた幌内炭鉱の採掘に併せ、明治15年幌内炭鉱鉄道が開通。明治22年北海道炭鉱鉄道株式会社設立により沿線の開発が急激に進められ人口が増加した。
 ○明治14年、札幌~月形間に就航した2隻の監獄汽船から発展し、明治22年に石狩川汽船会社が設立され石狩川の水運が栄えた。昭和9年に廃止されるまでの石狩川の汽船は就航。

(5)明治14年に樺戸集冶監、明治15年に空知集冶監が開設。
(6)明治15年、開拓使制度が廃止、三県一局時代となる。屯田兵の所掌は開拓使から陸軍省へ移管。三県一局時代は4年で終わり、その後、明治19年から北海道庁時代に入る。
(7)明治19年「北海道土地払下規則」が制定(これは、無償貸し付け・一定期間後有償払下げの形で入植を奨励し国有未開地の開墾を目指すもの)。これに基づき、北越植民社(新潟)等が入植。

3 入植者の特色
(1)18年の入植者は鹿児島、熊本、佐賀等九州出身者中心の中に石川、島根県からの士族が混じる。明治19年の入植者は島根、広島、山口県等中国地方からの入植者であった。
(2)この時期の入植者の中に西南戦争に巻き込まれた旧士族が多くいた。

4 任務上の特色
(1)札幌の4兵村(琴似、山鼻、新琴似、篠路)とともに道都札幌の防衛及び周辺地区の治安維持。樺戸(月形)、空知(三笠)両集治監の脱獄者、逃亡者からの危害防止。
(2)日露戦争に村岸中尉以下71名が充員召集され、満州軍第三軍歩兵二六聯隊補充大隊に編入。戦死者16名。天徳寺に戦死者を祀る木像が安置されている。

5 発展過程上の特色
(1)野幌兵村は、当初、篠津に1個中隊を配置する計画であったものを、毎年のように水害の被害を受けることから取りやめ、変更・配置された兵村である。
(2)明治11年に入植した隣村である江別屯田兵の第一陣10戸(後に分家し12戸)は、エドウィン・ダンをはじめ札幌農学校教師の営農指導を受けた先進的な西洋型の農業を行っていたほか、明治14年篠津地区に入植した江別屯田兵の第二陣19戸(後に分家し20戸)は、開拓使の指導のもとに明治9年から篠津太で行われていた養蚕事業を引き継ぎ、蚕の飼育を行っていた。野幌屯田兵はこれらの経験を取り入れることが出来た。

(3)野幌における営農
 ○他の兵村と同様、作った作物を売る販路がなく、値段も安く生活は苦しかった。屯田兵本部の指導もあり、換金作物として有利な養蚕、大麻の栽培を入植の初期から行った。
 ○酪農の始まりは明治26年頃からであるが、当時は一般家庭で牛乳を飲む習慣もなく、経営としては成り立たないものであったが、屎尿が肥料となり地力を増すという面からは成果があった。本格的な酪農経営が始まるのは大正の末期に入ってからで、転機となったのは振興会の結成による区有地(屯田兵村の共有地)の開発、そりにより得た収益による畜牛の開始であり、野幌は北海道の大酪農地帯へと発展していった。

(4)明治19年以降、鉄道をはさみ野幌兵村の入植した南側の地域に北越植民社115戸が入植し、東野幌地区の開拓に乗り出したほか多数の開拓移民が入植した。
(5)明治31年に北海道炭鉱鉄道株式会社が野幌煉瓦製造所を開設したほか、多数の会社や個人が野幌に煉瓦工場を建てた。代表的な工場だけでも15社余りにも上り、北海道における煉瓦生産の一大拠点として君臨した。それに伴い、野幌駅周辺には関連する商業施設が建ち並び活気を帯びだした。
(6)隣村である江別兵村地区では、明治39年富士製紙会社(現王子特殊紙)が開業、兵村内に火力発電所も建設された。時代が進み大東亜戦争の時代、王子製紙工場は木製飛行機製作所として軍事工場に変換。江別兵村の多くの給与地が軍に徴用され、同工場の滑走路・訓練場になり居住者は町内外に移転することとなった。
(7)明治24年の屯田兵条例の改正により明治24年から予備役に、明治28年後備役に編入。
(8)屯田兵の離村
   酪農が軌道にのるまで兵村での生活は厳しく、転職を禁止しされていた予備役の時代には歌志内・夕張炭鉱、鉄道工夫等へ収入を得るため出稼ぎに行く者も発生した。兵役の満了とともに離村者が増え、明治末期には野幌に残る戸数97戸にまで減少した。江別の富士製紙工場、野幌の煉瓦産業の勃興は多くの雇用を生み出し離農に拍車をかけた。特徴のあるところとして、近隣に同郷人が入植した山口、広島、鳥取県人の定着率は高く、また、隣村である白石村との人員交流がさかんであった。
(9)江別村の変遷
   明治13年に戸町役場設置
   明治39年に江別、対雁、篠津3村が合併し江別村に
   大正4年江別町に
   昭和29年江別市となる。
(10)江別市にあって野幌地区は、酪農のメッカである酪農学園大学をはじめ4つの大学、2つの短期大学が設置され、北海道立図書館を有する文教の地である。また、札幌に近接するという立地条件から高層の住宅、商業施設も建ち並び札幌のベットタウンとなっている。

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「酪農学園大学」

6 野幌兵村の著名人

Ⅱ 野幌兵村の伝統を伝える
○資料館等

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「江別市郷土資料館分館(野幌中隊本部)」道指定有形文化財(建造物)

○屯田兵関係の催し

○屯田兵ゆかりの神社

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「錦山天満宮」

○屯田兵がつくった学校

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「江別第二小学校」
                                                        
○今に残る屯田兵の踏み跡(史跡等の紹介)

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「野幌開村紀念碑」
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「練兵場跡」
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「被服庫」
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「天徳寺の屯田兵人形」
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「屯田兵屋」(湯川公園内兵屋番号186湯川千代吉)

○屯田兵子孫の会の紹介
「      」
 設立時期:
 目  的:
 会  員:
 行  事:開村記念祭7月1日


3 コメント

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御返信ありがとうございます (原みゆきです)
2013-11-21 23:32:20
御返信ありがとうございます
また更に 色々と読み進むなか…、
このページに至りました。

江部乙の北屯田兵として
在籍していた 右田絞市さんと 右田千代吉さんという 二人の名前が出てきて

しかも年齢が近い為(近いと推測でき)
この二人は、兄弟なのか?同一人物なのか?分からなくなってしまいました。

主人の、お祖父さんに当たる人は
右田千代吉さんという事は
戸籍謄本、除籍謄本から
確認が出来ました。

江部乙~野幌に移ったということでしょうか

謎と、知りたいことは深まるばかりです。

返信する
原 様 (屯田太郎)
2013-11-25 05:18:32
原 様

私には分かりませんが、
江部乙屯田兵の入植は明治27年で、野幌屯田兵の入植は明治18~19年です。
これから考えるとありえない話ですが、
現在、公になっている屯田兵名簿はいつのものかというと、まちまちで、必ずしも入植時のものとは限りません。後の時代に役場で作られたものがありますので、江部乙から近親者が野幌へ移住し、相続したということも考えられます。

逆に謎が生まれると探求心がわいてくる。
これからも色々と調査をされてください。

私も会員になっているのですが、任意団体として北海道屯田倶楽部という会があります。
もし宜しければ、こちらのホームページも覗いてみてください。

http://tonden.org/Home/Home.html
返信する
屯田太郎さま (原みゆきです)
2013-12-01 04:27:36
屯田太郎さま
ありがとうございます。

入植年数に十年もの 違いがあるのなら
野幌は違うようですね、

ちなみに 私は、サイトをスマートフォン画面から見ており、画面が小さい故に
見謝ったようです。

先に、ご解答下さったように
江部乙支所を訪ねて会員の方を紹介していただこうかと思います。

せっかく、ご先祖さまの名前を
知ることが出来たのですから
先人の御苦労を思えば そのくらい頑張らなくては! そして私達が 屯田兵屋を訪ねてみたり 知ろうとすることをきっと喜んで下さっているものと信じて!

挫けずにチャレンジしてみます。

屯田兵倶楽部のホームページも見てみます。
ありがとうございます。
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