屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ 旭川兵村の今(平成23年)

2011-06-22 07:38:27 | 旭川屯田兵村

<ルポ:現在の旭川兵村(平成23年6月取材)>

 「ここを見て はじめて 北海道がわかった」。これは、旭川兵村記念館のしおりに書かれている来館者の言葉である。
 

 旭山動物園を知らない人はいないと言っても良いほど有名になってしまったが、この動物園のすぐ西側に旭川兵村があったことを知る人は殆どいない。
 旭川兵村は、旭川市の中心から約5km東側に進んだ位置にある。通称東旭川町呼ばれている地区である。本通沿いは割合早く開けた様で、旭川市の中心から町並みが中隊本部のあった旭川神社付近まで続く。

「旭川の遠景、後方、鉄塔のある付近の手前が旭川兵村」

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「旭川兵村から旭山動物園を眺める」

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 旭川兵村で是非紹介をしたいのは。冒頭に紹介した「旭川兵村記念館」財団法人/博物館相当施設と、「上川100万石」由来の地であることである。
 旭川屯田記念館についてであるが、何故これがすごいかというと、東旭川町に住む人たちの手によって一億円あまりもの資金を集め作り上げたということである。「思いがあればかなえることができる」。まさにその通りに実現をしてしまった。現在の姿になるまで並々ならぬご苦労があったと思われるが、しかし、この兵村にしかない大変貴重な資料が残されていた。それは、147冊にも上る中隊本部記録資料である。それと、北海道の稲作において主導的な役割を果たした人物を多く排出したことにもある。これらは、博物館を建てることに対する必然性が前提条件として存在したことでもある。

「旭川兵村記念館」

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「中隊本部資料147点」

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 この館には何度かお邪魔し見学をさせていただいているが、その度に研究心を駆り立てる。陳列されている資料の一つ一つが貴重で、その展示物の先には奥深く広がる歴史の重みがある。 
 「伝えよう」。「伝えたい」。と思う人の心、熱意は来館者に通じる。それが「これを見て 北海道のことが分かった」。に代弁される。この館には道外からこの館を見るために来る人が大勢いると聞いた。そして、感銘を受け、帰って行かれる人が多いそうである。資料はそれほど多くあるというものではないが、一枚一枚の写真に明治20~30年代当時の北海道での生活の姿が映し出され、困難な開拓にあっても力強く生きる人々の姿がある。

 旭山動物園の駐車場右手にある旭山寺脇の道路を上って行くと、幾つかの碑が建っている。その中に苔むした一本の碑がある。その碑が、旭川での稲作に貢献のあった藤田貞元、末武安次郎、中山久蔵を顕彰する碑である。

「稲作功労者を顕彰する碑」

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 中山久蔵とは、札幌から千歳方向へ20kmほど下ったところにある島松で駅逓業を営む傍ら稲の栽培に着手。北海道で初めて米作りを成功させた先駆者で北海道稲作の父と称せられる。
 末武安次郎とは、屯田兵家族として旭川兵村に入植し、明治38年に直播機「たこ足」を発明した人物。
 藤田貞元という名をはじめて聞くという人が殆どであると思うが、この人こそ、「上川100万石生みの親である」。というのは記念館館長の弁であり、大変な人であったという。  
この人の調査はこれから進むものと思うが、屯田兵戸主の兄として津軽から入村。その一年前には永山兵村を視察し、この地で米は絶対に採れると確信し、米を作るため、旭川兵村に戸主の弟とともに入植したという。時の中隊長井田光承を説得し、和田正苗大隊長をも動かし試作にこぎつけた。入植1年後の明治27年には中隊で灌漑溝の掘削を行わせしめている。
 これがあって、旭川兵村で本格的な稲作が行われるようになる。その後発明される、「たこ足」、「猫足」、「カラカサ馬回し機」等は、そんな、藤田の情熱に後押しされ生み出されたものであるといっても過言で無いかも知れない。

「タコ足」

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「カラカサ馬回し機」

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「中山久蔵が勤めた島松駅逓」

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 公開はされていないが、旭川兵村記念館に明治33年旧第七師団司令部が記録した『迅速図』というものがある。そこには、旭川兵村の区割りに合わせるかのように用水路が張り廻らされている。旭川兵村で本格的な稲作が行われていたのは間違いがないようである。
旭川兵村での成功が、永山、当麻兵村の稲作に勢いをつけ、上川盆地全体に広まって行った。そして、後に入植する、野付牛、士別・剣淵の稲作へと発展していった。
 

 平成23年の6月記念館にうかがったとき、旭川兵村記念館友の会を設立したと聞いた。また、「旭川屯田会」は屯田兵子孫の方だけの集まりではなく、旭川屯田兵と郷土開拓の歴史を伝える活動に賛同する人であれば入会を拒まないと聞いた。平成23年現在で200名の会員がおり増加傾向にあるという。
 「旭川屯田記念館」を建設したときの勢いは今も衰えない。日々進化するニーズに対応する活動。これが、変化する時代の中にあって、郷土の伝統と文化を継承するために必要なことであると思う。旭川屯田記念館から発した郷土旭川の歴史を学び、伝える活動の輪が東旭川の人たちだけでなく、旭川を巣立った人たちとともに全道の輪、全国の輪へと広まっていくことに期待をしたい。

 旭川滞在最後の日は、倉沼川沿いを走ってきた。この川は藤田貞元の提言により上兵村の中隊全員で灌漑溝を掘削したときに水を取り入れた川だという。取水口は、旭山動物園のある旭山の南裾に位置する。この場所から雪渓を頂いた大雪山の峰々を真正面に拝むことができた。
大雪山に降り積もった雪は雪解け水となり、また、岩盤の間を地に浸透し、長い年月をかけ伏流水となって地表に現れ川の流れとなる。清き水。これが米どころ「上川100万石」を育む水である。

「倉沼川」

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「お世話になった子孫会副会長のお店 石蔵」

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12 コメント

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はじめまして。ブログを立ち上げてくださってあり... (萩原久三(はぎわらくみ))
2012-03-21 03:02:04
はじめまして。ブログを立ち上げてくださってありがとうございます。当方、藤田貞元の子孫です。現在米国に在住しております。藤田貞元には、”志穂”と”たね”(名前からも米に対する情熱があると思いますが)という2人の娘がおり、私は姉の志穂さん方の血を引いています。私にとっては曽祖母になります。また、たねさんは北海道内の医者と結婚し、その後、実は民間女性として唯一、第二次大戦の激戦地であるビルマに入り従軍看護婦として従軍されました。それを称えて書かれた本が出版されています。今では絶版されており古本でしか見つからないかもしれませんが、東京の靖国神社に同書が祭られています。本の名前は『孤高の華 : ビルマ従軍特志看護婦の足跡』です。また同書は実は昭和天皇に謙譲本として渡された唯一の本です。文中には北海道や旭川のことが諸所にでてきますとともにたねさんの写真などもあります。
ちなみに貞元は”ていげん”と読みます。(上記本の中の字が定元になっていますが、間違いです)
残念ながら藤田の血を引くものは、ほとんどが東京にでてきてしまい、北海道では旭川の駅の近くでハンコ屋を営んでいたご家族が唯一だと思いますが、現在は連絡も取れていません。ちなみに藤田系の血を引くものは私をはじめ、皆、頑固ものです(笑)。
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萩原様 (屯田太郎)
2012-03-21 05:49:15
萩原様
お礼の言葉を下さってありがとうございます。
藤田貞元の子孫の方から書き込みがあるなんて感激の極みです。
旭川兵村記念館の館長とは親しく、記念館へ行くたびに藤田貞元、稲作の話しになります。
もし差し支えが無ければ、萩原様から書き込みがあったことを伝えたいと思います。びっくりする顔が目に浮かびます。
私は、屯田兵の子孫ではありませんが、あることことから屯田兵の歴史に興味を持ち、道内各地の屯田兵入植地を訪ね歩きながら調査をはじめました。そうすると、地方において、屯田兵の歴史だけではなく、北海道開拓の歴史全体が埋もれかけているように感じました。屯田兵子孫の方の多くは入植した地を離れ、札幌をはじめ道内の各地に、全国の各地に、萩原様の様に海外に移住された方も多くおられるようです。過疎化の進む地元の人だけでは「郷里の歴史を伝えるのは難しい」。 何とかしなければと思い、このブログを立ち上げました。まだまだ、掲載したいこと、しなければならないことが一杯あり、一歩踏み出したばかりの所です。
私は縁があって「北海道屯田倶楽部」という会の理事をさせてもらっています。
会の活動と、このブログ、これから作り上げるHPを通じ、郷土の歴史を伝えようとする方の繋がりが持てればと思っています。
ちょっと自分のことを書かせてもらいました。
私も頑固者です。
よろしく。
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屯田太郎様 (萩原久三)
2012-03-24 02:42:28
屯田太郎様

お返事ありがとうございます。

屯田様のウェブを知るきっかけとなったのは、私の住む米国の地に所在する日本語補習校(日本人学校の小規模版)へ文科省の派遣により、北海道札幌から校長先生が派遣されてきたことに始まります。
”あさひかわ”という小学校の教科書の社会の副読本に藤田氏のことが記載されているページがあると聞いていたので、この教科書のことを尋ねてみたのです。先生は大変ご親切にもご友人にお願いしてくださり使用済みの教科書をくださりました。また一時帰国の際には貞元氏の石碑の写真も撮ってきてくださりました。
それからもう少し藤田氏について私なりに知りたくなったのです。ですのでウェブページを見つけて大変うれしく思いました。

旭川兵村記念館の館長殿にも宜しくお伝えください。私も近いうちに是非訪れたいと思います。

また、たねさんの本はなかなか見つからないと思いますので、同館宛に今度寄贈いたします(家族で1冊しかありませんが、同館で保存していただければ幸いです。)

なお、本の中にありますが、貞元氏はいつも”仕事に追われるな、仕事追え”と教えていたようです。仕事に大変熱心だったようです。
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屯田様 (萩原久三)
2012-03-24 08:08:31
屯田様

読み返してみましたら、皆様への御礼の言葉もなく失礼いたしました。屯田様にはこのような素晴らしいブログを立ち上げていただき、また、旭川の皆様の暖かいお心に深く感謝申し上げます。
私は米国に在住しておりますが、日本語補修校の先生を勤めさせていただいたり、日本のことを伝えるべくイベントなどにも参加し、日本の伝統を少しでも残せていけたらよいなあ思っております。
ところで米国の家には、鮭をくわえた熊の木彫りがあります。旭川の伝統の熊ですね。母が私に持たせてくれたものです。大切にしたいと思います。皆様ごきげんよう。
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萩原様 (屯田太郎)
2012-03-24 17:28:32
萩原様
今日、旭川兵村記念館の館長様に電話を入れ萩原様のことを話しました。
そして、このブログの書き込みを見てほしいと言っておきました。
大変喜んで下さったことをお伝えします。

もし、直接旭川兵村記念館の館長様に連絡を取る必要があるようでしたら、取り次ぎをいたしますのでおっしゃって下さい。

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屯田様 (吉田 貢)
2014-05-24 22:17:42
屯田様
はじめまして。
本日、旭川の叔父からこのブログを教えられ拝見させて頂きました。私は藤田貞元の末裔になりますが、曾祖母の藤田はるは藤田貞元の長女?になります。藤田貞元には娘三人がいたようです。曾祖母は藤田の名を残すため、四国出身の池田淳二を婿に迎えました。旭川のハンコ屋が藤田なのはそのためです。子供の頃ハンコ屋の藤田へ良く遊びに行き、曾祖母に会っていました。祖母から祖父である藤田貞元の事は良く聞かされました。祖母が旭山の石碑へ連れて行ってやると言っていましたが、ついに行かず仕舞いでした。札幌在住ですがこのブログを拝見させていただき、是非今度行って見ようと思っています。たねさんの事を母や叔父達が兵隊ばあさんと呼んでいた事が同じ末裔の方が投稿されたのを拝見して理由が分かりました。祖先の偉業をこのブログを通じて子供に教えてやりたいと思っています。
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吉田 様 (屯田太郎)
2014-05-26 04:25:53
吉田 様
書き込み有難うございます。
このブログが藤田貞元の御子孫の方に御先祖の踏み跡に触れる機会を作れるとは感激の極みです。
藤田貞元から4代、5代目の方々がご活躍する時代になっています。アメリカ在住の子孫の方からも書き込みをいただきましたが、何かつながりを持てるといいですね。
私もそうなのですが、旭川兵村記念館の館長さんは藤田貞元に大変な関心を持たれています。
北海道の稲作の父と呼ばれる中山久蔵に関しては、御子孫の方が今でもご当地に住んでおられるということで多くの資料が遺され、その功績が明らかになっていますが、藤田貞元に関しての資料が殆どなく残念に思っているところです。
もし、縁者の皆様で何か資料等がありましたらお知らせ願えればと思います。
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はじめまして。 (佐伯尚子)
2014-06-05 16:41:46
はじめまして。
私も藤田貞元の子孫になります。私の曽祖母にあたる「藤田はる」は、藤田貞元の最初の妻の娘(長女)だと母から聞きました。その妻(きえさん?)が早くに亡くなったため、母違いの妹たちが「タネさん」と「シホさん」なのだと聞いております。こちらのブログのおかげで、祖先である藤田貞元のことを知ることができました。また、萩原久三さんの紹介してくださった本『孤高の華 : ビルマ従軍特志看護婦の足跡』を母と読むことができ、母の「戦争ばあさん(タネさん)」の思い出話も聞くことができました。母も高齢ですので、このような機会をつくってくださったこと、感謝しております。おじが送ってくれた「藤田はる」の娘が書き残した「家系図(メモ)」を見ますと、「藤田貞元」の父の名前は、「藤田五郎兵エ」(五郎兵衛か?)となっていました。私もアメリカに住んでいたことがあり、同じ親族の方とこのようにつながれる不思議を感じております。ありがとうございます。
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佐伯 様 (屯田太郎)
2014-06-05 22:33:54
佐伯 様
訪問有難うございます。
また、ご丁寧なお言葉恐れ入ります。
何度も旭川に足を運ぶことにより、藤田貞元という人物に大変興味を持つようになりました。
殆ど記録が残っていませんが、上川に稲作を定着させた中心人物であったようで、その功績をもっと調べたいと思っております。
私も『孤高の華 ビルマ従軍特志看護婦の足跡』をネットで購入し読ませていただき、大変感動を致しました。
藤田貞元の御子孫の皆様におかれましては、このように素晴らしいご御先祖様の記録を次世代へとお伝えいただきたく思います。

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大変光栄です。 (萩原久三)
2014-12-06 11:19:43
久しぶりにお邪魔してみましたら、その後”はる”さん方のご子息の皆様からご連絡をいただき驚きました!!はじめまして、大変光栄に存じます。血がつながっているとは本当に不思議なものです。”はる”さんの存在について母に聞いたところ、幼い頃に聞いたことがあるようです!!

さて、今年はまた面白いことがありました、実はおたねおばさんの詩集を2006年に自費出版してくださった方がいらっしゃいまして、今夏に母とその方が会いました。詩集を出してくださった方は石澤さんという方で、御年齢90歳になられます。ビルマでお世話になり、戦後靖国神社でおばさんを見かけた時に、自身のことなどとっくに忘れているかと思っていたら”石澤さん!”と声を掛けて近くに来てくれたとことがとても嬉しかったとのことでした。詩はおばさんが戦時中?に作成したものを編纂したとのことです。石澤さんはとても立派な紳士な方で背筋もぴんとしており、とてもその年齢とは思えない方だったそうです。母はおたねさんが戦争から戻ってきた後、一緒にしばらく住んでいたことがあるので、石澤さんと話が盛り上がったようです。

さて、母も高齢になってきましたので、貞元さんのことで知っていることを教えてもらいました。貞元さんは米作りに苦労していることを知った津軽藩のお殿様の命令により旭川兵村に入ったそうです。その際に、お殿様より、備前長船の刀を授かったそうです。その刀はどこへ??

また、本当かどうかわかりませんが、貞元さんが青森の城下町を歩くときに、咳払いやくしゃみをすると、その家が翌日、家来によって取り壊されてしまうので、咳などをこらえなけれならないと言っていたそうです(真偽はわかりませんが、一応母は二人から聞いたから本当だといいますが。。。)

最後になりますが、お詫びです。実はおたねさんの本を寄贈しようと思っておりましたら、その後、親戚、友人の家を渡り歩いており、現在も私の手元にありません。皆、当時の様子を興味深く読んでくださっているようです。しばしお待ちください。

屯田太郎様はご自身で本を入手していただいたとのこと心より感謝申し上げます。ありがとうございます。まだ購入可能なのでしょうか。おばさんの行動は当時家族や親戚からは受け入れがたく、白い目で見られていたそうです。今となっては、このように本まで書いていただいて、感謝してくださる方がいることに、家族はおばさんに謝らないといけませんね。

どうぞ皆様良い新年をお迎えください。
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