「和田兵村」
入植年:明治19年、21年、22年
入植地:根室市東和田、西和田
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「西和田兵村入植配置図」「nisiwada1.pdf」をダウンロード
出身地:東北、北陸、近畿を中心に14府県
入植戸数:440戸
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大隊長 初 代 和田正苗少佐:明治9年開拓使に出仕、西南戦争従軍、東京鎮台勤務の後、根室外9郡長拝命、明治23年から上川の大隊長
第2代 小泉正保少佐:大隊長心得として就任、屯田兵副官として司令部転出、日清戦争で4大隊長に復帰、後に初代野付牛4大隊の大隊長
第3代 栃内元吉少佐:永山武四郎本部長に同行し道内視察、後屯田司令部永山武四郎の腹心として活躍、和田では約5年間にわたって勤務し問題点を提起している。
明治19年入植
便 船:和歌の浦丸
移 動:日本海経路
入植日:6月6日
明治21年入植
便 船:兵庫丸(新琴似の屯田兵も乗船、函館で新琴似屯田兵は田子の浦丸に乗船し小樽へ)
移 動:横浜~岡山~徳島~大分~博多~境~函館
入植日:5月27日
明治22年入植
便 船:高砂丸(輪西、篠路の屯田兵も乗船。室蘭に寄港したあと根室へ)
移 動:博多~石川~室蘭~根室
入植日:7月18日
★入植が3年にわたった理由は
当初19年~20年に入植させる計画であったが、3県時代から北海道庁時代に入り屯田事務局が屯田本部となり陸軍省の所管となった。こうした中、道庁付近の屯田兵の充実と、室蘭にできた第5海軍区鎮府の警備を優先した。
給与地
宅地兼給与地:40間×125間 合計5,000坪
1次追給地:5,000坪
2次追求地:5,000坪
東和田兵村
部隊名:第2大隊第1中隊(後に第4大隊第1中隊へ改編)
中隊長:初 代:篠崎彦二大尉
第2代:
入植:明治19年入植
*出身地の特徴:鳥取県の3名以外東北、北陸出身者
西和田兵村
部隊名:第2大隊第2中隊(後に第4大隊第2中隊~3中隊へ改編)
中隊長:初 代:吉田勇蔵
第2代:太田資忠(23.12着任) 琴似屯田兵出身 後の初代旭川下兵村中隊長
入植:明治19年、21年、22年入植
*出身地の特徴:石川県、鳥取、福岡県で約90%を占める。
Ⅰ 和田兵村の特色
根室のアイヌ語の語源は「ニムオロ」(樹木の繁茂するところ)で、半島は鬱蒼とした原始林に覆われていた(現在の根室半島にその面影はない)。以外に、「蓑(ミノ)」の形をしたところいう説もある。
1 地理的特質
(1)千島列島と向かい合う北海道の最東端の半島で、今昔にかかわらず大国ロシアとの最前線。(先の大戦後、北方領土はロシアに占領されている。)
(2)根室半島は根室湾と太平洋に挟まれた狭隘な半島で、黒潮と親潮がぶつかる場所でもあり、春から秋にかけて海霧が発生し作物の成育ははなはだ悪い。
(3)屯田兵が入植した和田の台地は小河川により深い谷が刻まれ、地質は重粘土層。
2 時期的特色
(1)明治15年開拓使廃止され、3県時代に入り根室県が設置される。時の県令は湯地定基、根室郡長は和田正苗(初代屯田兵第2大隊長)
(2)和田屯田兵の配置は、3県時代の根室県からの要請に基づくもの。
(3)入植開始時の明治19年は、明治15年の開拓使廃止から4年間続いた3県時代が終わり道庁時代に入った年。同年、北海道土地払下規則が公布される。
(4)明治19年の根室は、すでに市街地化が形成されており、戸数1387戸、人口5540人を有していた。
(5)明治20年~21年にかけて屯田本部長である永山武四郎が米、露、清を視察、その中でコサックの屯田兵制を研究。
(6)永山武四郎本部長の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
(7)明治23年屯田兵条例の改正(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、同年屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他関連規則が改正され屯田兵制度が確立する。
(8)日清戦争を4年後に控え朝鮮半島では緊張が高まる。
(9)予備役として日清戦争に出征(東京待機で終戦)
(10)明治23年召募の屯田兵を最後に明治30年をもって兵役満了。
(12)後備役において日露戦争出征。
3 入植者の特色
(1)東、西和田兵村では出身地、入植年が違う。
ア 東兵村入植者の出身地は東北、北陸の日本海側の県。西兵村は石川県、鳥取県、福岡県出身者主体。
イ 入植年は東兵村が明治19年。西兵村は明治21年、22年に入植。
(2)指導者の中には札幌農学校で兵事科を卒業した者が含まれていた。
4 任務上の特色
(1)道東の重要港である根室の防衛と露国の千島列島正面からの脅威に対処。
(明治8年「樺太千島交換条約」によりロシアとの間に国境線は決定し千島列島は日本の領土になっていたが、列島の警備と開発は未だ未完で、早急に防衛・警備の処置をする必要があった。)
(2)日露戦争に出征
103名出征、戦死 名、戦傷 名
5 発展過程上の特色
(1)根室は3県時代(札幌、函館、根室)における道東の中心地で北方領土への玄関口として繁栄していた。
(2)和田屯田兵配置の目的は開拓ではなく、防衛・警備を目的とした兵員配置であったため、内陸部に入植した屯田兵村とは趣を異にした。また、和田地区は夏季間海霧に覆われ、農作物は育たず、自給自足もままならない状況であった。酪農の有望性から早期より牛馬の飼育に着手し研究を重ねた。(明治8年根室には開拓使の牧場が設置され、明治19年根室牧畜場として屯田兵本部に管理を移し、明治20年には民間に払い下げられた。)
(3)農業に適さない地であるばかりか、士官・下士官は農業技術、農業経営の知識に乏しく、経済的に自立できるまでに至らなかった。
★入植地選定の誤りを指摘
明治31年に根室に立ち寄ったニコライ主教が「北海道巡回記」の中にその惨状を記している。
3代目大隊長栃内元吉は、和田、太田屯田兵の入植地選定に関し誤りであり、当時の当事者が自己県下の繁栄・開拓を希望するがため農耕適地と説き伏したと直談している。
(4)明治28年の日清戦争への応召。明治29年和田村廃村。明治30年後備役となり大隊本部は野付牛へ移転。土地に縛られることが無くなると農作物が育たず生活に窮していたため離村する者が多数に及んだ。
(5)後備役で日露戦争出征。凱旋後、兵村を去る者が続出。離村者の土地を留まるものが買い取り規模を拡大した酪農へと転換。平成22年現在、17戸の屯田兵子孫の方が牧場を経営し大田の土地を守っている。
(6)牧畜の状況
酪農の始まりは、入植直後の明治19年からで、和田大隊長のかけ声に、酪農経営を目指していた松浦忠順(福井県出身元有馬藩藩士)が吸応。大隊本部から貸与された牛5頭をもって牛の試験育成に着手。
馬は和田屯田兵の管理となった根室牧場において飼育が始まった。(根室牧場とは開拓使の時代明治8年に開設された牧牛場で、開拓使廃止後は農商務省直営の管理となり、後に多数の人の手に渡り経営された。現在その場所は明治公園となっている)
明治26年 屯田騎兵大隊において軍馬40頭購買
(7)開墾の成果を得ることなく兵役を終える。
和田の台地は気象、地形、地質等農耕には不適の地。また、農事指導者の欠如、入植者の農事経験なしと過酷な中での開拓であった。
給与地没収者は64名。これは、屯田兵入植37兵村にあって最大の数である。因みに第2位は大田兵村(厚岸)29戸、第3位輪西兵村(室蘭)の20戸である。なお、輪西は1個中隊220戸であるので、率的には大田兵村よりも高い。
(離村の理由)
気候、土質など自然条件が農耕に適さなかった。
農業の適正化を欠いたこと。
無肥料による連作。
作物の選定、品種の誤り。
農業経験のない戸主。
森林の伐採により風霧の害の助長。
漁業が盛んなため農業に対する熱意なし。
根室市街が近くに存在し就職の受け皿あり。
(離村者は何処へ)
道内の農耕適地を求めて移動。
公職の仕事に転職。
市街地に移り職を見つける。
北見へ移動する者多数。
(8)明治39年4月1日2級町村になる。
★和田屯田兵新聞社襲撃事件(イモメシ事件)
イモ飯屯田兵とこき下ろした新聞社を屯田兵が襲撃
★村名に人物の名前がついた3個兵村
永山:永山武四郎(屯田兵制度発展の父)
太田:大田紋助(大田屯田兵の設置に功績のあった人物)
和田:和田正苗(初代大隊長)
6 和田屯田兵関係の著名人
Ⅱ 和田兵村の伝統を伝える
和田兵村史跡等配置図
○屯田兵関係の催し
○ゆかりの神社
「和田神社」
○今に残る屯田兵の踏み跡
「開拓使根室牧場跡(明治公園)」
「大隊本部跡の碑」
「グイ松」
大隊本部に植えられていた松で色丹島から植樹
「和田兵村開基100年の碑(和田神社内)」
題字は永山武四郎少将による。
○屯田兵子孫の会の紹介
もっと、深く和田屯田兵のことを知りたくなりました。
離村した人たちの、その後とかも含めて。