都市と楽しみ

都市計画と経済学を京都で考えています。論文や講演も。楽しみは食べ歩き、テニス、庭園絵画作成・鑑賞、オーディオと自転車

2024年度 御所・離宮庭園セミナー①(川瀬昇作)に参加する

2024-04-25 02:55:50 | 趣味

 前日の三宮散歩と午前中のテニスで足が疲れ自転車ではなく地下鉄で北山の歴彩館まで。2年目は修学院離宮に関するもの3回を予定、今回は参加者が少ない。

 歴史の語り部として、

①明治17年(1884年):お馬車道の造営にともなう表総門から下離宮御幸門、東門(東のばん(盤?))の道路新設・土盛りとお馬車道(前はあぜ道)と600本の赤松(現在は200本)の植栽(一部は御所に移設)→図面はないとのこと

②昭和49年(74年):3年間、1千万円/年の多額の予算、雄滝の周りの修復など

③修学院は上・中・下の3本の流れがある庭:明治以降の流れの庭園を先んずる、音羽川の白川石をうまく使っている

下離宮

・東・北・西は土盛りがなされ、寿月観から本山の右に出る月が見えなくなった、もともと寿月観の名前から月を見る館

・昭和の工事にて、湾曲閣の礎石は発見できなかった( https://3dkyoto.blog.fc2.com/blog-entry-216.html  https://blog-imgs-96.fc2.com/3/d/k/3dkyoto/2016100600070304d.jpg )

・3段の池は地盤が300㎜上がったために、2段(橋の下の滝が無くなった)、橋は滝が無くなったためレベルを下げた(詳細不明)

・流れは漆喰の床

・東側は民地を買収してS字のお馬車道を作った、井戸も当時の方の設備→その前には「下茶屋」( https://blog-imgs-96.fc2.com/3/d/k/3dkyoto/201610051825503f9.jpg )があったようだ。

中離宮

・笠松は二代目→昔は御殿があったとある一部は林丘寺に移築( https://blog-imgs-96.fc2.com/3/d/k/3dkyoto/20161005182248081.jpg )

・直線的な流れは石張り(流速が速いため)→建物があり直線でコンパクトにしたのでは

・中門左の台形の石積みは昔の四ツ目垣の名残とのこと→それにしてはいかつい、昔と中門の位置が変わったため、両側に土塁を作ったのか。また、お馬車道のS字の横にも同様の台形が見られる

上離宮

・雄滝は音羽川から、これは昭和の整備、滝の裏は石の段組み、橋の先には流れ蹲踞

・一二三石は鹿の足跡を模すという

・無くなったお茶屋は東向き、止々斎( https://blog-imgs-96.fc2.com/3/d/k/3dkyoto/20161005181858212.jpg )は視点が低いため南向きと池を眺める施設だったのだろう。

 ここで気がついたのは、隣雲亭は北西(夏の日の入り方向)、窮邃亭は南西(冬の日の入り方向)となっている。季節で使い分けをしたのだろうか。隣雲亭からは北山が邪魔をするから高くないと西日が見えない、窮邃亭は洛中を望むため低くても良いという違いもある

 ブルーノ・タウトの「目が観る」といったのは修学院離宮が対象。なお、修学院図屏風などの紹介もあった( https://www.okada-museum.com/collection/japanese_painting/japanese_painting25.html )

探してみると色々ある( https://cultural.jp/item/tokyo-R100000086_I000040709_00 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013859#?c=0&m=0&s=0&cv=9&r=0&xywh=-1061%2C0%2C5193%2C2047 )

 松の剪定の実演もあったが、芽を摘み、残す葉を決め、下に枝ぶりを下げるのが要点のようだ


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