三日市の寺院群を訪ねて、驚いた事があります。どのお寺、そしてご廟・お墓も、非常に掃除が行き届き美しいのです。まるで、拝観料を払って入る京都の有名禅宗寺院を訪ねた錯覚になりました。静寂ななかに気品が漂う、そんな雰囲気の寺院群なのです。各お寺のご住職等の掃除の賜物だと頭が下がりました。顕智(けんち)上人以来700年、伝統のなさせる技なのでしょうか?
これは、私の持論なのですが、お寺に寄らせていただくと、私は先ずは本堂の縁板(えんいた)を見せていただきます。本堂の大小は関係ありません。肝心なのは縁板なのです。いつ寄せていただいても、お掃除が行き届いピカピカの縁板のお寺もあります。また、逆に縁板の上を歩けば足跡がつくようなお寺もあります。いつでも誰でもどなたでも自由にお参りができるお寺、それが浄土真宗のお寺の筈。その原則に立てば、おのずから答えは一つの筈なのですが・・・・
住職道(じゅうしょくどう)という道(みち)があるならば、「掃除に追われ、掃除に果てる」これが住職道。説法(せっぽう)に、口業(くごう)説法と身業(しんごう)説法あり。口業説法は、口で話すお話。身業説法とは、その行為そのものが説法になることを言います。どうちらが難しいかは、お分かりの通り。住職道の理想は、身業説法にありと思います。しかしです。現実的には難しいのです。山里の自坊では、杉花粉の花盛り。油断すれば、本堂の縁板は黄色い幕が・・歩けば足跡がくっきり。4月に入れば黄砂によりこれまたアウト・・・そんな日々のなかでの住職道。本当に難しい。これが現実。
さて、パンプレットによれば嘉禎元年(1235年)、関東から帰洛途中の親鸞聖人がこの地に立ち寄られ道俗に他力念仏をご教化されたとあります。歴史的事実として、親鸞聖人は20年に及ぶ関東教化を終えられ、聖人62歳(60歳という説もあり)のときに関東を後にされ、京都にお帰りになったとされています。
写真は、関東教化の中心地となった常陸国(ひたちのくに)稲田の禅坊(現、西念寺)
帰洛ルートは、東海道を関東から京都に。これも事実でしょう。本願寺第3代宗主・覚如上人が著された『親鸞伝絵(でんね)』にも、下巻第4段に「箱根権現の話」(浄土真宗聖典註釈版1055頁から1056頁)が出てきます。
また、関東で盛んに制作された親鸞聖人の関東ご教化を示した関東絵伝も、最有力の弟子であった性信(しょうしん)房が聖人と箱根でお別れしたと記されています。
写真は、聖人を別れを告げる性信房が描かれています。背後には、箱根権現(はこねごんげん)の赤い鳥居と遠くに富士山が描かれ、箱根である事が分ります。
そこから先が問題なのです。東海道のどのルートを歩まれたのか、また何年かかって京都にお帰りになったのか、それも判らないのが実情。だから、東海道の各地に親鸞聖人ご教化の伝説が数多く残ることになりました。最有力なのが、岡崎桑子の柳堂(現・・妙源寺(真宗高田派))にて説法されたという伝説。伝説によれば文暦2年(1235年)親鸞聖人が関東からの帰洛の途中、柳堂にて他力念仏を説法。正嘉2年(1258年)に一宇を建立し、明眼寺(現在は、妙源寺と書きます)と称したとあります
写真は、現在の柳堂。太子堂であったといわれています。堂内の棟礼には、正和3年(1314年)にこの堂を再建した事が書かれています。
愛知県岡崎を出て、聖人一行はどこを歩まれたのか?諸説紛々の状態。私は、三日市の親鸞伝説は、結構正解ではないかと思います。説法する場合の大原則があります。大原則とは、「説法は、人が集まる場所でしかできない」という事です。あたり前の事なのですが、結構これが忘れがちなのです。三日市は、市がたち人が集合離散する格好の場所です。市の多くの人は、商人と手工業者です。聖徳太子を信仰する人々でもありました(理由は、後程)。そんなところなら、三日市の如来堂・太子堂が聖徳太子開基という話になったかも知れません。おそらく、聖徳太子像を安置する太子堂が存在し、そこに親鸞聖人が足を止められ説法されたと考える事が可能です。桑子の柳堂(太子堂)を例にあげるまでもなく、関東において念仏布教の拠点となったのは太子堂でもあったといわれています。そして、親鸞聖人の後を受けられた顕智上人・善然上人の時代に如来堂ができ、現在の両堂形式の原型ができたのではと思います。
続く・・・最終回
これは、私の持論なのですが、お寺に寄らせていただくと、私は先ずは本堂の縁板(えんいた)を見せていただきます。本堂の大小は関係ありません。肝心なのは縁板なのです。いつ寄せていただいても、お掃除が行き届いピカピカの縁板のお寺もあります。また、逆に縁板の上を歩けば足跡がつくようなお寺もあります。いつでも誰でもどなたでも自由にお参りができるお寺、それが浄土真宗のお寺の筈。その原則に立てば、おのずから答えは一つの筈なのですが・・・・
住職道(じゅうしょくどう)という道(みち)があるならば、「掃除に追われ、掃除に果てる」これが住職道。説法(せっぽう)に、口業(くごう)説法と身業(しんごう)説法あり。口業説法は、口で話すお話。身業説法とは、その行為そのものが説法になることを言います。どうちらが難しいかは、お分かりの通り。住職道の理想は、身業説法にありと思います。しかしです。現実的には難しいのです。山里の自坊では、杉花粉の花盛り。油断すれば、本堂の縁板は黄色い幕が・・歩けば足跡がくっきり。4月に入れば黄砂によりこれまたアウト・・・そんな日々のなかでの住職道。本当に難しい。これが現実。
さて、パンプレットによれば嘉禎元年(1235年)、関東から帰洛途中の親鸞聖人がこの地に立ち寄られ道俗に他力念仏をご教化されたとあります。歴史的事実として、親鸞聖人は20年に及ぶ関東教化を終えられ、聖人62歳(60歳という説もあり)のときに関東を後にされ、京都にお帰りになったとされています。
写真は、関東教化の中心地となった常陸国(ひたちのくに)稲田の禅坊(現、西念寺)
帰洛ルートは、東海道を関東から京都に。これも事実でしょう。本願寺第3代宗主・覚如上人が著された『親鸞伝絵(でんね)』にも、下巻第4段に「箱根権現の話」(浄土真宗聖典註釈版1055頁から1056頁)が出てきます。
また、関東で盛んに制作された親鸞聖人の関東ご教化を示した関東絵伝も、最有力の弟子であった性信(しょうしん)房が聖人と箱根でお別れしたと記されています。
写真は、聖人を別れを告げる性信房が描かれています。背後には、箱根権現(はこねごんげん)の赤い鳥居と遠くに富士山が描かれ、箱根である事が分ります。
そこから先が問題なのです。東海道のどのルートを歩まれたのか、また何年かかって京都にお帰りになったのか、それも判らないのが実情。だから、東海道の各地に親鸞聖人ご教化の伝説が数多く残ることになりました。最有力なのが、岡崎桑子の柳堂(現・・妙源寺(真宗高田派))にて説法されたという伝説。伝説によれば文暦2年(1235年)親鸞聖人が関東からの帰洛の途中、柳堂にて他力念仏を説法。正嘉2年(1258年)に一宇を建立し、明眼寺(現在は、妙源寺と書きます)と称したとあります
写真は、現在の柳堂。太子堂であったといわれています。堂内の棟礼には、正和3年(1314年)にこの堂を再建した事が書かれています。
愛知県岡崎を出て、聖人一行はどこを歩まれたのか?諸説紛々の状態。私は、三日市の親鸞伝説は、結構正解ではないかと思います。説法する場合の大原則があります。大原則とは、「説法は、人が集まる場所でしかできない」という事です。あたり前の事なのですが、結構これが忘れがちなのです。三日市は、市がたち人が集合離散する格好の場所です。市の多くの人は、商人と手工業者です。聖徳太子を信仰する人々でもありました(理由は、後程)。そんなところなら、三日市の如来堂・太子堂が聖徳太子開基という話になったかも知れません。おそらく、聖徳太子像を安置する太子堂が存在し、そこに親鸞聖人が足を止められ説法されたと考える事が可能です。桑子の柳堂(太子堂)を例にあげるまでもなく、関東において念仏布教の拠点となったのは太子堂でもあったといわれています。そして、親鸞聖人の後を受けられた顕智上人・善然上人の時代に如来堂ができ、現在の両堂形式の原型ができたのではと思います。
続く・・・最終回
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