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明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

歎異抄後序の流罪記録

2010-10-27 00:47:31 | Weblog
やりました。ついに一応完成。員弁組寺報第50号。第5面記事・第6面記事の原稿を書き終わりました。それこそ、一心不乱という言葉がありますが、この二日間寸暇を惜しんで書きました。第6面は、連載の親鸞紀行です。
今回のテーマは、承元の法難(建永の法難ともいう)。この弾圧事件により、法然教団は壊滅的打撃を受け、事実上崩壊した。死罪4人・流罪7人。法然上人は土佐国、親鸞聖人は越後に。1207年、親鸞聖人35歳の時であった。このような事を書いた訳ですが、その際に『歎異抄後序の流罪記録』もふれた。『歎異抄』は、親鸞聖人の直声(じきせい)が聞こえるがごとくに書かれ、古今(ここん)の名著とされ作者とされる唯円房の名前を不滅なものにしている。

しかし、後の「流罪記録」は余り注目を集めない。でも、何故最後の場面に「流罪記録」があるのだろうか・・・・現存する最古の『歎異抄』は,蓮如上人の手になる。では、蓮如上人が加筆したのであろうか。そうではあるまい。おそらくは、当初から有った筈。誰が書いたのか。やはり、唯円房であるだろう。これだけは、絶対に伝えなければならない記録として認識されていたのではないか。「無実の罪により」と書かれている。いわゆる冤罪(えんざい)に等しいデッチアゲにより死罪・流罪となり、法然団は崩壊した事件。それが、承元の法難の真実である。だから、「流罪記録」が残る事となった。一度、『歎異抄』後序に目を通して欲しい。
それにしても、慌しい一日であった。日中は、葬儀。夜は、百ケ日法要と報恩講。そして、原稿を書く。心底疲れました。

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