明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

第18回定例法座(白骨の御文章)・・今日は、秋本番?

2013-09-26 19:09:54 | Weblog
9月26日は、第4週目の木曜日。定例法座の開催日です。昨日までの蒸し暑さがウソのような天気となりました。大陸の秋の高気圧が張り出してきたのです。風も強くTシャツでは小寒い程でした。まるで秋本番の天気。これが困るのですね。こんなに気温の温度差があります体調管理も難しくなるというものです。
それでも、第18回目となる今日の定例法座には15名の皆さんが参加していただきました。

今年の4月からは、蓮如上人の『御文章=お文(ふみ)』を味わっています。今日は、『お文』のなかでも名文中の名文とうたわれる有名な「白骨の御文章(第五帖目第16通)」でした。「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。(略)」で始まる「白骨のお文」は、東西の浄土真宗門徒であれば必ず一度は聞かれた事にある「お文」です。
それでは、いつ聞かれたのでしょうか。それは、葬儀という儀式のなかで僧侶が拝読する「白骨のお文」を聞かれた筈なのです。斎場でご遺体が荼毘(だび)にふせられお骨となられて、自宅(又は、会館)に戻られて勤められる還骨(かんこつ)法要で拝読されます。つまり、葬儀のフィナーレを飾る「お文」なのです。葬儀とは、枕経からはじまり還骨法要で終わるのです。
ところが、会館葬が主流になりますと、すっかり還骨法要が抜け落ちて、会館に戻ればそく初七日法要と勘違いされている方が圧倒的に多いのです。もとより、初七日法要と葬儀とは全くの別物です。本来、初七日法要は別の日の筈。それを無理して、葬儀の後にくっ付けたものです。何故、こんなへんてこな話がまかり通ることになったのか?犯人は、葬儀社。そして、それを許している僧侶。葬儀の後に、初七日を勤める場合が圧倒的です。その場合の差定(進行表)は、還骨法要、そしてお蝋燭を変えて、初七日法要となります。この事を、強く抗議しない僧侶の罪は重大。葬儀社に流されて、還骨法要を勤めずに初七日法要に「白骨の御文」を拝読している場合もあると聞き及んでいます。ここまでくれば、語るに落ちた話。言語道断。野となれ山となれです。
さて、「白骨の御文」です。何故に還骨法要に際して、この「御文」を拝読するのか?遺族にとって、具体的にまざまざと白骨を目撃し、実感として死別の意味、無常の意味をそれぞれに解釈する唯一の機会なのです。だからこそ、せつせつと世の無常を歌い上げる「白骨御文」は素晴らしく美しいリズムで迫ってくるのです。これ程に流麗な文章は、他の御文には見られないほどです。人が、無意識のなかで感じている事、すなわち老少不定(死には、老いも若きも順番は決まっていないという事)の理(ことわり)が、華麗な言葉で迫ってくるのです。
だからこそ、蓮如上人は「誰のひともはやく後生(ごしょう)の一大事をこころにかけて」といわれるのです。「後生の一大事」とは、一大事のなかの一大事を言います。それは「生きているこの時にこそ、帰るべき故郷である浄土に必ず往生する立場になってくださね」という切なる願いの事です。すなわち、お念仏申す者に与えられる現生(げんしょう)十種の利益(この世で与えられる十種の利益)の一つ「正定聚(しょうじょじゅ)」の位につくこと。どのような人を「正定聚」の人というのでしょうか?それは阿弥陀様の本願(大いなる願い)を信じてお念仏申す人を言います。どうすれば「正定聚」の人になれるのか。それは、何ゆえに阿弥陀様は本願をお立てになられたのかを聞き取ることです。これを「聞法(もんぽう)=法を聞きぬく事」を呼びます。だからこそ各種の法座が開かれているのです。このようなお話をしました。
ところで、本日の本堂内陣のお花ですが、シンプル・オブ・ザベストで以下の写真となりました。
写真は、ご本尊前

これが大評判となりました。高田派真宗寺院に見られる「高田の一本松」にちなんで、「明源寺の黄金比婆」です。つまり、比婆の木が一本入れてあるだけなのです。それが形良く、あたかも立華のように見えるから不思議なのです。黄金比婆、一本300円なりです。
一方、境内の隅に目をやれば彼岸花の大群落が今が盛りを咲き誇っています。


そして、秋の花の代名詞、コスモスの花も咲きだしました。

秋は、そこまで来ています。

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