明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

承元の法難(弾圧)・・①

2012-02-28 19:22:18 | Weblog
2月26日午前10時から、名古屋別院にて中央仏教学院通信制東海支部の皆さんに講義です。一応資料を35部用意して来ましたが、自分の予想を上回る皆さんが受講。係りの方が大慌てで20部?程コピー。講義が始まる前は、50名以上が受講されたように思いました。
で、今日のテーマは『承元(じょうげん)の法難(弾圧)』。
この大事件は、鎌倉初期の承元元年(1207年)に起こった専修(せんじゅ)念仏運動に対する大弾圧事件です。この弾圧事件により、4人の僧侶が打ち首による死罪。法然上人(76歳)を始めとして7人が流罪。(法然上人は、土佐国(とさのくに=高知県)幡多に流罪(るざい)。親鸞聖人は、越後国(えちごのくに=新潟県)国府に流罪。)という前代未聞の過酷な大弾圧事件でした。この弾圧により、専修念仏運動の拠点であった吉水禅坊は放棄され、誕生まもない専修念仏運動は崩壊の危機に直面したのです。お念仏の流れを頂戴する私達にとっては、知らずにすませる事はできない大弾圧事件なのです。
写真は、吉水禅房に集う念仏者達。左の人物が法然上人。別冊太陽『法然(ほうねん)』53頁より複写。

写真は、吉水禅房(よしみずのぜんぼう)跡と推定される安養寺。(現在は、時宗寺院である)

安養寺前に立つ往時の吉水禅房想像図。これで判断する限り、吉水禅房という専修念仏者達が集う建物は、今の円山公園一帯に広がっていた事が判ります。

では、この大弾圧事件である「承元の法難」を親鸞聖人はどのように捕らえておられるのか。その根本資料として、親鸞聖人は『教行信証』の末尾に詳しく書いておられる。ここは古来有名な箇所。「主上(しゅじょう)臣下(しんか)、法に背(そむ)き義に違(い)し、忿(いか)りを成し怨(むら)みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師(法然上人の事)ならびに門徒数輩(すはい)、罪科(ざいか)を考へず、猥(みだ)りがはしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀(そうぎ)を改めて姓名(しょうみょう)を賜うて遠流(流罪の事)に処す。予はその一つなり。 」(浄土真宗聖典註釈版471頁)と書かれています。つまり、いわれのない罪によりおこされたデッチアゲ事件であり、私親鸞はこの事を決して許す事はできないと書かれているのです。
また、親鸞聖人が直接書かれた本ではありませんが、弟子の唯円が書いたという『歎異抄』の後序でも、この「承元の法難」の事が書かれています。すなわち、「無実の風聞(ふうぶん)によりて」(浄土真宗聖典註釈版855頁)と書かれているのです。無実の風聞とは、事実無根の風評という事であり、この「承元の法難」は専修念仏運動を押しつぶすという明確な意図を根底にもったデッチアゲ事件の可能性が大なのです。では、次回から何故にこのような事件がおこったのかを見ていきましょう。


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