明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

員弁組伝道研究会北信・上越の旅・・・・新井別院(願生寺前史)③

2011-12-17 21:16:30 | Weblog
信州、つまり長野県に浄土真宗が入ったのはどのようなルートなのでしょうか?『講座蓮如第6巻』(平凡社)「甲信越における本願寺教団の展開」を執筆された故千葉乗隆先生によれば、4つのルートからと述べられています。
一つは、南信州(飯田)の寂円(じゃくえん)の教団。三河の和田道場と深い繋がりがある教団ですが、現在は不明。
二つは、常陸北部の法善(ほうぜん)の系列。信州北部の康楽寺(更科郡塩崎)を中心に発展。
写真は、康楽寺(こうらくじ)

三つは,下総飯沼の善性の系列。浄興寺(現在は、新潟県上越市)と磯辺(いそべ)6ヶ寺を中心に発展。
写真は、浄興寺(じょうこうじ)

四つは、奥州の是信系の系列。本誓寺が中心に発展。
4つのルートの中で、南信州の寂円の教団は不明となり、法善の系列・善性の系列・是信の系列が発展し、長野県北部の長野市・飯山市・須坂市・中野市周辺に浄土真宗は強力な地盤を築き現在に至っています。
さて、話の中心は磯辺6ヶ寺の話。これを磯辺門流(いそべもんりゅう)と呼びます。何れも、親鸞聖人の弟子である善性・明性開基である下総国勝願寺(しょうがんんじ)の系列から発展したとします。つまり、下総国勝願寺を根源とする教線が信州北部で繁栄し、有力な6ヶ寺が信州北部に成立したという事になります。普願寺・西くぼ勝善寺・西厳寺・願生寺・中俣勝善寺・笠原本誓寺です。現在、新潟県上越市にある浄興寺も、16世紀後半まで長野市長沼にありました。現在、長沼はリンゴ畑が続く(アップルライン)土地柄。個人的感想として長沼の地が信州における磯辺門流の発祥地ではないかと思っています。現在は、磯辺6ヶ寺の一つ西厳寺があります。何れも大きな寺院です。写真にて一部紹介。
写真は、須坂の普願寺

写真は、長沼の西厳寺

この信州北部に根を張った磯辺門流有力寺院は、16世紀後半からあいつで越後の上越地方に本拠を移すのです。その理由は、上杉謙信と武田信玄の5次に及ぶ川中島の戦いの影響とか、上杉謙信の招きで等種々の理由があげられていますが、結論は信州北部の教線が飽和状態となり、まだまだ開拓の余地があった越後に雪崩を打って移転したというのが本当のところではないでしょうか。ここらへんについては、『川中島合戦再考』(新人物往来社)の「信濃にとっての川中島合戦」の項目を読むと面白い。
ですから、磯辺6ヶ寺の一つであった願生寺も信州平出から越後新井に移転したのでろうと思われます。それにしてもです。江戸初期に越後上越・中越三条市から北信にかけて東派の触れ頭の地位にあり絶大な権力をもっていた願生寺が、一夜にして廃寺・没収・ところばらいとなった浄興寺との「小児往生」の争論とは一体どのようなものであったのでしょうか。浄興寺も願生寺も善性の系列で、いわば同系列の内ゲバです。ですから、この争論が単純なものではなく東本願寺の思惑・幕府の思惑も複雑にからんだ政治的な争論であった事が推察されます。この「小児往生の争論」については、新井市史編修委員会(編)『新井市史 上巻』新井市、草野顕之氏の「大谷大学図書館蔵『願生寺事件記録』が詳しい。この願生寺追放の決定は、深刻な動揺をもたらしたようです。この決定を不服として、磯辺6ヶ寺のなかで複数の寺院が真宗仏光寺派に転派している事実があります(現在は、東派に戻っています)。また、旧願生寺末寺・道場でも真宗仏光寺派に転派した寺院も三条市を中心にでました。このような上越・中越・信州北部の東派門信徒の深刻な動揺を抑えるべく設置されたのが、新井別院であるいともうせましょう。しかし、本当の歴史を知っているのは、新井別院本堂前の2本の大イチョウのみです。

次回は、恵信尼廟所です。・・・・続く



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