明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

宗門人別改帳の発見

2011-01-10 08:50:23 | Weblog
下の写真資料は、明治3年(1870年)4月に渡会県(昔の三重県)に提出された資料。表題は、「伊勢国員弁郡北中津原村浄土真宗人別御改帳」となっている。

中味は、一軒ごとに家族全員の名前・年齢が記され、これを所属寺が印鑑にて証明している。写真は、北中津原村(現在の三重県いなべ市北勢町中津原)の明源寺門徒の部分。明源寺の印鑑が押してあるのが判る。

これは、歴然とした宗門改帳である。江戸幕府は慶長17年(1617年)3月キリスト教禁止し、これを国策として、全国でキリスト教宣教師・信徒を徹底的に捕縛、仏教へ強制改宗させ、全国の寺院に所属させた。これをやがて寺請(てらうけ)制度と呼ぶ。改宗しないものは処刑する政策をとった。その為に作成されたのが宗門改帳である。
1665年に幕府が諸藩にも宗門改帳の作成を命じると、人別帳に宗旨を記述するという形で宗門改帳が作成されるようになり、これが宗門人別改帳となる。(上記写真の表題も、人別改帳となっている)1671年に幕府はこれを法的に整備し、宗門人別改として定期的に調査を行うように義務付ける。後年になるとキリシタン摘発の激減もあって、宗門人別改帳は戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていく。
そして、明治維新により1868年が明治1年となる。欧米列強の強い抗議を受けてキリスト教が解禁されたのはいつか?明治6年(1873年)である。
この明治3年の、「伊勢国員弁郡北中津原村浄土真宗人別御改帳」も江戸幕府以来の方針を受け継ぎ、その目的を隠れキリスタン(耶蘇教と書いている)の吟味が目的である事がかかれている。(写真参照)

いづれにしても、明治政府も江戸幕府の方針を受け継ぎ、明治3年当時は宗門人別改帳の作成を命じていたことが証明される極めて貴重な資料である。では、このような貴重な資料が何故手元にあるのか。それは、昨年度あるご家庭にての報恩講に際して、種々お願いし確認していただき、存在することが確認された。
明日(1月11日)からは、自坊でも御正忌報恩講が午前6時から始まる。





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