明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

美女三人来るの続編(慈覚大師円仁)

2012-04-12 08:53:42 | Weblog
自坊の来られた三人の美女。その引率された方の話。その方によれば、3月中旬に東北に周遊されたという。東北支援は、ささやかでもお金を落とすことも大切な支援なのです。その旅行途中、山寺立石寺に遊んだと言われました。私も教員の時代に、三重県立飯野高校の修学旅行にて訪た懐かしい場所。20代前半の頃です。

寺伝では、貞観(じょうがん)2年(860年)に円仁(慈覚大師)が開山したとされていますが、ご存知の通り、山寺立石寺は宝珠山の一帯にあり、千数十段の急な階段を登り、五大堂にたてばその眺めは素晴らしいものです。その方曰く、『ご住職のブログにて、円仁さんが創建された事は知っていましたから、円仁さんのご苦労を考えて登りましたら、少しも疲れはありませんでした』と話されました。
慈覚大師円仁(じがくだいしえんにん)、この方は比叡山延暦寺の第3代座主(ざしゅ)にして、比叡山延暦寺を創建された伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)の愛弟子。事実上、天台宗の基礎を確立した人物。
暴論にもなりますが、浄土真宗でいえば本願寺中興の祖である蓮如上人に匹敵する人物、イヤそれ以上の人物と考えています。そして、なにより日本における浄土の教えの祖であることです。親鸞聖人が、生涯敬愛された師である法然上人は、その死に際して慈覚大師円仁の袈裟(けさ)をかけて往生された事がそれをなにより証明します。
あたかも、比叡山では今年の4月から2013年1月に円成する「慈覚大師円仁1150年遠忌法要」が始まります。必ず、円仁ブームが起きる筈です。時代は、円仁を求めているのです。一般書店でも扱う出版物もボチボチと出てきました。その方にも紹介しましたが、『慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼』が入門本としては最適。

慈覚大師円仁の生涯を振り返る時、二つの事に私達は気がつきます。一つは、東北を円仁(以下、円仁と略)は愛し続けたという事。東北地方で、大師といえば弘法大師空海ではなく円仁を指します。円仁没後5年にして、東北を『貞観の大地震』が襲いました。そして、今クローズアップされている『貞観の大津波』により壊滅的打撃をうけたと言われています。それから千年の歳月を経て、『東日本大震災』が襲いました。歴史は、繰り返します。『貞観の大地震』に先立ち、『出羽=山形県』では大地震があり、円仁は現地におもむき、苦しむ民衆に限りなき仏の慈悲を伝えたとされています。東北には、円仁ゆかりのお寺が多いのも私にはわかる気がするのです。
そして、二つ目は、中国は唐に渡り、10年に及ぶ求法巡礼の旅をされました。45歳での出発です。その求法巡礼は、非常に苦しい旅でした。唐の武帝による徹底した仏教弾圧です。しかし、仏の教えを求める円仁の決意は固く、不法滞在の罪まで犯しての求法でした。

円仁は、霊地である中国五台山を巡礼。そこで、竹林寺に伝わる『五会念仏作法』を比叡山に持ち帰られました。これをこそが、日本における浄土の教えに出発点となったのです。
今、思う事があります。円仁のこうした仏を求める真剣な姿勢、そして民衆とともに歩む姿勢。これがなにより必要だと思うのです。以前も書いた事がありますが、説法に二つあり。口業説法(くごうせっぽう)と身業説法(しんごうせっぽう)です。口業説法は、勉強すれば誰にでもできる説法。情けない事に私がその典型。そして、多くの僧侶の説法が口業説法に終始している現状があります。しかし、こころに残る説法であってもこころを捉える説法ではありません。なぜならば、。『仏説無量寿経』に、次のようなお言葉があります。「もつてみずから賑給(しんきゅうと読み、空腹を満たし養うこと。つまりぜいたくな生活をすること)す。酒にふけり、美しきをたしなみて、飯食(おんじき)、度なし」(浄土真宗聖典註釈版69頁)と説かれています。このような生活にふける者に身業説法などできる筈がないのです。私は、円仁こそ身業説法の優れた体現者であったと思うのです。同じく『仏説無量寿経』には、「ほとけ遊履(ゆり)したまふところの国邑(略)化(け)をこうふらざるはなし。天下和順し日月清明なり。」(浄土真宗聖典註釈版73頁)と説かれています。円仁が行くところ、その姿から発する仏力により、人々が思わず拝する姿が目に浮かぶようです。それは、民衆と共に歩む限りなき慈悲の愛と仏を求める限りなき求法のこころによりなされた説法の姿であった筈です。
このような事を、三人美女から教えていただきました。それ故に、自分なりの結論として『書を捨て、野にでよう』。これしかないと思う事です。




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