明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

白子の浜

2013-05-20 00:39:10 | Weblog
5月18日(土の午前10時頃の話です。場所は、名古屋榮のど真ん中のとある会館。抹茶の接待を受けていました。

横を見れば、結婚式に使用するブーケの見本が所狭しと並んでいます。

ここは結婚式場。しかし、私は僧侶の服装ですし、結婚式に出席するために来たのではありません。名古屋のご門徒さんの、27回忌法要と報恩講をお勤めするために早朝より来ているのです。玄関には、結婚式ではなく仏事の案内が3件程書かれていました。実は、この会館は結婚式大手グリープの会館なのですが、現在は仏事を専門に扱う施設として使用されているです。結婚式場で年忌法要。田舎者には珍しくも初めての経験でした。聞けば、都会では自宅での法要が少なくなり、需要に応じて結婚式場を仏事の会場としているのだそうです。正直、これにはビックリ・・・・時代は、私の硬直した頭では到底追いつかない程に変化しているのです。
さて、午前11時には車に飛び乗り、鈴鹿市白子の会館に向かいました。12時30分から葬儀なのです。問題は、名古屋から鈴鹿までを1時間30分でいけるのかです。最大にして困難な問題が。高速・自動車道を走れば、理論上は12時15分には到着できる筈なのです。やはりです。四日市インターから鈴鹿インターまで6キロの渋滞表示が・・内心大慌て。お葬式は、言うまでもなく時間厳守。
しかたなく、四日市インターで下車し一般道。やっとの思いで到着したのが12時25分。実にきわどい時間でした。ご迷惑をかけずに済んだことが何よりです。
葬儀式(告別式)修了後から、還骨法要・初七日まで若干の時間があります。この時間を利用して、私には是非見学したい場所がありました。タイトルの「白子の浜」です。
400年昔、この「白子の浜」はある一行を迎え、ここから三河に送り出しました。
有名な「神君家康の逃避行」です。徳川家康にとっては、人生で一番の難儀事でした。時は、1582年。天下統一を目の前にした織田信長が、明智光秀に京都本能寺にて打たれた事件。世にいう「本能寺の変」です。
徳川家康は、織田信長の招きで安土・京都・堺等を物見遊山の最中。堺滞在中に、「本能寺の変」の第一報。そして、始まったのが「神君家康の逃避行」。危機一髪を、家臣と伊賀者(忍者)の協力により乗り越え、たどり着いたのが「白子の浜」。ここから船に乗れば、伊勢湾を横切り容易に三河国へ。
この「白子の浜(現在の白子港)」を見たいのです。何しろすぐ其処なのです。車で、5分程度の距離。
港の入口より、伊勢湾が見えます。そして、遠く知多半島も。



400年昔の緊張感とは裏腹に、当日は心地よい浜風が吹く白子港でした。しかし、現地に行って初めて実感できる事も多々あるのです。

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