昨日(12月2日)の午後は、近くのお寺に報恩講がご修行。その講師として、お取次ぎをしました。報恩講は、浄土真宗寺院にとって最も大切な法要です。でも、最近の事情はこの大切な報恩講が、自坊の属するグループでは日にちが縮小気味。極めて残念なのです。せめて、報恩講だけは持てる力の全てを出して立派に勤めたいものです。何しろ、親鸞聖人の御絵伝も四幅かけるのですから・・・・
写真は、自坊の御絵伝(親鸞聖人のご一生を絵で描いたもの)

さて、お取次ぎでは次のようなお話をしました。核心部分は、以下の通りです。それは、聞くという事について。何をひたすら聞くのか?「南無阿弥陀仏のおいわれ」を聞くのです。「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、私達が阿弥陀仏に「おまかせる事」を意味します。それを、蓮如上人は『ご文章=お文』にて「たすけたまえとたのむ」と表現されました。「阿弥陀仏」は、「汝をすくうぞとの呼び声」です。つまり、私が阿弥陀仏に南無(おまかせする心)し、「阿弥陀仏」が「南無」する私を救うのです。先哲は、ここを「弥陀の呼び声を聞け」とお示しになりました。ですから、お念仏は自ずから「有難うございます」の感謝のお念仏となります。
分るような分らない文章です。勿論、1時間20分の持ち時間です。その他色々とお話していますが、要約すればこうなりますというお話でした。
写真は、自坊の御絵伝(親鸞聖人のご一生を絵で描いたもの)

さて、お取次ぎでは次のようなお話をしました。核心部分は、以下の通りです。それは、聞くという事について。何をひたすら聞くのか?「南無阿弥陀仏のおいわれ」を聞くのです。「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、私達が阿弥陀仏に「おまかせる事」を意味します。それを、蓮如上人は『ご文章=お文』にて「たすけたまえとたのむ」と表現されました。「阿弥陀仏」は、「汝をすくうぞとの呼び声」です。つまり、私が阿弥陀仏に南無(おまかせする心)し、「阿弥陀仏」が「南無」する私を救うのです。先哲は、ここを「弥陀の呼び声を聞け」とお示しになりました。ですから、お念仏は自ずから「有難うございます」の感謝のお念仏となります。
分るような分らない文章です。勿論、1時間20分の持ち時間です。その他色々とお話していますが、要約すればこうなりますというお話でした。
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