わたしの趣味&道楽  久保田 良雄 JA3MVS

ようこそ当ブログへ・・・ 令和2年10月1日

鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング

今回は「京都市電北野線」の車輌が「堀川」へ転落した事故についてUPしたいと思います この事故の翌日に小生は学校から帰ると直ぐに現場(堀川中立売り)へ駆けつけた 事故が起ったのは昭和21年2月8日の最終電車の事であったが、小生が見に走ったのは翌日の2月9日の午後2時頃であった 新聞記事として載ったのは翌ゝ日の2月10日付の朝刊であった この事件の真相は当時 暗黙の箝口令のようなムードの中 何となく時が過ぎていき74年が経過した現在も あまり知られてないようなのでUPさせて頂きます この事件をUPするのは来年の2月75年の区切りでUPしたかったが 小生がそれまで当ブログが続けられるかどうか不安なためUPします 恐らくリアルタイムで転落してバラバラになった現場を目撃したのは今となっては小生だけではないのでは・・・ 終戦直後駐留軍に一切文句が言えなかった時代 当時「北野上七軒」の歌舞練場であった「北野歌舞練場」が接収され駐留軍専用の「北野キャバレー」となり毎夜GI達の娯楽場になっていた そこで酔っ払ったGI達が「北野」発の最終電車で京都駅付近の現「関西電力京都ビル」が接収され(ラクヨーホテル)となり駐留軍の宿舎まで帰る途中 運転手を唆し中立売通りを暴走 途中ポールが外れそのポールが暴れ架線に触れたり離れたりする度 炎がでたりスパークが発生したり それを目撃した人が火を吹いて走っていたと云う事で車輌故障と結論されていた   話が後先になったが現場の転覆した車輌は木っ端微塵になり ハンドブレーキのハンドル等は少し離れた川の底にピカッと光っていたり 車体はペシャンコになって中央には「N123」の文字が冬の薄い日差しに映えていた 運転手は女性だったと云う話も出ていた 終戦直後の男性不足で二十歳そこそこの女性がハンドルを握っていた また車輌・架線等のメンテナンスも不十分な時代であった そのため小生は酷い目に遭った事もあった また女性にハンドブレーキの操作は危険で手が滑るとスプリングの勢いで女性の胸部に当たるため剣道具で胸をカバーして訓練した話も残っている ダブルポール時代 終点でのポール回しで女性の運転手と車掌がポールコード(紐)を一本ずつ持って操作していたのを思い出す 転落したこの「N123」号車は「京都電気鉄道株式会社」時代は「123」号車で京都市に買収後「N123」になった これは京都市電1形に同じ車番車輌があり 狭軌車輌と広軌車輌を区別するため「元京電」に狭軌(ナローゲージ)の車番前に「N」の文字が付けられた その後広軌1形が全廃になった為「N電」が改番され 当時の在籍車輌28輌に1から28が附与された  こゝまで断片的に思いつくまゝ挙げてきたが まだまだ載せたい事はあるが 当時亡くなった方 また負傷された方について当局から何の情報もなく ご家族も無言のまゝ過ぎていき今日まできた 更に戦後二条城前(西堀川通り)の(丸太町通り)から(御池通り)まで間を米軍の飛行場として接収されていたのをご存知方は少ないのでは・・・ これは(京都)は大学生が多く大学のグラウンド等に集団で集まる事にGHQが非常に神経を尖らせていて空からパトロールをしていたからである 当時は妙な光景であった 西側から お城があり・お堀があり・滑走路があり・堀川が流れていて・N電が走っており・東堀川通りがあり・一番東側に民家が並んでいたのである  写真は「京都市電」開業70周年時のポスターである
          写真:小生保管       文責:小生        016-001


鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング

「中立売通り」から市電では珍しい専用鉄橋を渡り「堀川通り」へ入ったところに「堀川中立売り」の電停があった 転落事故後普通の信号が設けられ一旦停止・最徐行が義務付けられた 戦中まで写真左側から「堀川京極」が「丸太町通り」まで続いて日常の買い物客で賑わっていて映画館もあった 左側の不気味な建物は「旧川勝銀行」の建物跡である 小生はこの鉄橋を渡った電停「堀川中立売り」から毎日通勤で昭和30年から昭和36年7月31日の「N電」廃止までの間「京都駅」まで利用していた 翌日昭和36年8月1日から市バス新系統(50号)が新車輌で走り出した 京都市バスでの「ワンマンカー」はこの系統が初めてであった 走り出した時は廃止された「北野線」と同じコース(東堀川通りは西堀川通りに)を運行していたが 「千本中立売り」以西は道幅が狭く「千中」を北上「千本今出川」を西へ「西大路通り」北行「立命館大衣笠キャンパス」までに変更されているが現在も(50号)系統は運行が続けられている 元々この付近はプロ野球の「松竹ロビンス」球団の球場があったり 現「KBS京都放送」ラジオの無人送信所があったところである 戦時中はコンクリーの3・4階以上のビルは全て敵から目立たぬように真っ黒に塗らされていたが戦後数年間費用が掛かるためそのまゝ放置されていた しかし黒色がハゲチョロケで放置されていた また夜は(灯火管制)で真っ暗なため月夜の晩は見えるが 闇夜の晩は見えないため地面から1m位の高さに(縦10cm・横25cm)位の白いペンキを塗るか白い紙を1m間隔位に貼ってそれを頼りに歩いていた時代であった そんな話を少し若い人に話すと「あんさん 今時のお人や おへんなぁ〜」と云われるのである そんなこんなで余計な事までUPさせてもらったが 各写真は(京電)時代からの「堀川中立売り」ばかりをUPさせてもらった
(追記)先日の「京都新聞」に「平安神宮」神苑の庭園片隅に展示されている「N電」2号車を (文部科学省)に「重要文化財」として答申された記事が載っていたのは喜ばしい限りである この 車両は「京電」時代車番は(52号)で・買収後(N52号)となり・後の改番で(2号車)となった この車両が廃止時そのまゝの姿であったからである
        写真:小生保管       文責:小生       016-002


鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング

戦前の一番美しい頃の「N123」号車で まさか自分(車輌)が堀川に転落するとは夢にも思ってなかったであろう 当時の「堀川高等女学校」付近を南行中の「京都駅」行きである 戦前の(系統板)「ろ」を掲示しているが当時「北野線」には「ろ」と「わ」の系統があったが「ろ」は(北野~京都駅)間 「わ」は(北野~四条西洞院)間折り返しの2系統があった この系統は(月給取り)サラリーマンが(四条線)に乗り換えのため 朝・夕のラッシュ時を主に運行されていた この「堀川高等女学校」の西南角に「旧本能寺跡」の碑が建っていた 現在の「本能寺」は豊臣秀吉の命で(寺町通御池下がる)に移動させられた 余談であるが「堀川高等女学校」が戦後の学制改革で 新生「堀川高等学校」に変更時 男子トイレが無いと新聞二ュースになっていたのを思い出す
                写真:小生保管         文責:小生       016-003


鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング

この事故の新聞記事であるが 当時はこのような事件でも二日後の朝刊に載る時代であった 判りにくい画面ですが新聞の写真も解像度の悪い時代であった 記事では車輌故障となっていた
            写真:小生保管          文責:小生        016-004


鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング
 
            
    
              小生の自費出版粗本を購入された方々の感想が掲載されていた「京都新聞」の記事である
           資料:小生保管          文責:小生        016-007

鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング

 

 

 

 

 

                                                                                                                   


現在の「堀川中立売り」転落現場 前方から走
って来た電車が当時は無かった左端の歩道橋付
近から転落した
                            「堀川中立売り」転落現場 東側から西側の画
                             像でレンガ部分に鉄橋が架かっていた跡
                                                                      

 

 

 

 

 

                                                                                                                   「堀川中立売り」転落現場 西側から東側を見る                                                                                                                        石垣部分に 竹梯子が掛けられ 血糊がいっぱ
                                                                                         い付着して いた
         写真:小生撮影        文責:小生        016-008 


鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング

同じく「堀中」の鉄橋を渡り「北野」方面へ進行中の「N電」である  堀川端から鉄橋へのカーブが一番の急カーブで補助レールに車輪フランジ内側を抉られながら運行していて とても通常のレールだけでは脱線するような急カーブであった またこの「堀川中立売り」電停から「四条堀川」まで堀川沿いの電停は川の上へ幅60cm位の板をはみ出しただけの物で細い鉄柵のみの代物であったの為 酔っぱらいが川へ転落し大怪我した事故もあった またこの区間は架線の釣果がセンターポール方式のため 他府県からの修学旅行生が腕等を窓から出して大怪我をする事もあった
           写真:小生保管         文責:小生        016-009


鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング

昭和28年頃の「堀川中立売り」の画面で鉄橋上は「北野」行き「N電」で転落したのは前方の円形橋(堀川第一中立売橋)とこの鉄橋の間に落下した 写真では判りにくいがこの円形橋の一つ上流の橋が有名な「戻り橋」であり戦中出征兵士を見送る時は無事戻って来る事を願い「戻り橋」を渡ってこの「堀川中立売り」まで送り「N電」で京都駅へ出征されるのを日の丸の小旗を振って見送ったものである また嫁入り道具を運ぶトラックは 戻っこない事を願いこの橋を避けて運送していた
           写真:小生保管          文責:小生       016-010


鉄道ファン

2020年04月01日 | 京都市電N電堀川へ ダイビング

「京電」時代(堀川中立売り)にあった 人力転車台 堀川通りを北上してきた電車が 転車台で方向転換 北野方面へ向かう「京電」車輌  余談ではあるが 北野方面から来た車輌がこの転車台に乗って停まりきれず 看板のある民家に飛び込む事故が再々あり「京電」として申訳けないと云う事で この家に「全線フリーパス」を渡していた話が残っている
           写真:小生保管        文責:小生       016-014