★このブログは2010年8月9日のブログを少しリライトしての再掲載です。
8月9日・・・今から75年前の1945年8月9日未明、満州国(現在の中国東北部)にソ連軍が進攻(侵攻ともいう)した日です。
一般的には「ソ連対日参戦」といいます(防衛省では「対ソ防衛戦」という)。
ヤルタ会談・・・第二次世界大戦末期、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄してすでにTKO状態の日本に対して対日参戦します。そのわけは・・・日ソ中立条約破棄の謎・・・1945年2月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国の米・英・ソの三国首脳がドイツの降伏後の戦後処理を決め、併せて米・ソ首脳間(ルーズベルト・スターリン)でドイツ降伏90日後にソ連が対日参戦する秘密協定を結びます・・・千島・樺太の処遇つきのオイシイ話つき・・・ということになっています。世に言うヤルタ会談です。米ソ首脳の駆引きのように思えます。戦争というものは条約なんて糞喰らえなんです。
5月7日ドイツ降伏文書調印、5月8日降伏文書批准調印(ソ連時間9日)。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。3ヶ月後が待ち遠しかったでしょうね。
8月9日、ソ連軍は150万人の兵力で満州全体に襲いかかかります。これに対して関東軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦であったといわれます。
進攻を察知して南に逃げたという人もいます・・・このためほとんどの開拓民は軍の庇護を受けられませんでした。
8月14日・・・ポツダム宣言(連合軍からの降伏勧告)を受諾・・・8月15日天皇の「終戦の詔勅」で全国民に告知・・・関東軍本部に無条件降伏が伝えられたのは8月16日、関東軍はほとんど無傷で武装解除します。ソ連軍が拘束した日本人は80万人といいます。シベリア抑留の始まりです。広い満州です。通信網もありません。そのため敗戦を知らずなおソ連軍に抵抗を続ける武装部隊もいました。
哀れをとどめたのは奥地に取り残された開拓民、老人・女・子ども(成人はほとんど現地応召)。徒歩で南に逃避行が始まります。ソ連軍ばかりか現地満州人も襲ってきます。荒地を開拓するという満蒙開拓は実は現地満州人の農地を略奪(強制買上げ)して開拓民に与えることだったようです。恨みに思わないほうが不思議です。戦争中の関東軍の現地住民に対する行為(一部の行為と思いますが)も恨みに思われた原因になったでしょう。加害が被害になって返ってきたのです。守ってくれる軍隊はいません。徹底抗戦して全滅した開拓団もあります。乳飲み子を抱えた母親は共倒れになります。中国残留孤児が生まれます。襲撃してきたのは一部の人たちでしょう。ぜんぶが襲撃してきたら逃避行の全員が死んでいます。食べ物をくれた現地の人もいたといいます。
歴史の流れや数字はWikipediaなどを参考にしました。Wikipediaは複数の執筆者が書き込んでいますから項目ごとに考え方が違うことがあります(たとえば進攻か侵攻か)。どう捉えるかはわたしの勝手にしました。Wikipediaでは8月11日新京から38000人が日本に向けて脱出したとあります。敗戦前です。その内訳は軍・官・満鉄関係の家族だったといわれます。わたしにはどう解釈していいかわかりません。
歴史に・・・If・・が許されるなら・・・ポツダム宣言(連合軍からの降伏勧告)が日本に示されたのが7月26日・・・
これを即、受け入れていたら・・・原爆もソ連参戦もなかったのでしょうか。
★もう四分の一世紀・・・75年も前のことです。遠いむかしもことです。でも戦争とは何か・・・考えてもらうためにこれを記しました。
※コメント欄オープン。
遂、考えてしまいますよね。
先日、原子爆弾3つ目の準備もしていた米国の記録もTV放映されましたが、その時、元日本兵だったと思いますが、長崎に原爆を落とす必要があったのか?という問いに、
「陸軍が強かったからね…必要だったかもしれない」
と語っていました。
戦後75年の今ではなく、もっと何十年も前の映像のようでした。
「日本の一番長い日」でも読みましたが、あのような状況になってさえ、まだ!戦争を継続しようと目論む人も居た訳で…
いずれにせよ、どの資料からも証言からも、
この先、何があっても戦争を選択肢に入れてはならない!ということだけは、感じますし、自分の心に強く刻んでいます。
父は建設会社勤め。母は専業主婦。長男の私は真珠湾攻撃の二か月あと奉天に生まれました。次男は哈爾浜、三男は新京生まれ。二年ごとに転勤があったようです。
終戦時、私は三歳半。
精確な月日は分かりませんが、我が家に闖入してきたソ連兵、夜間、徒歩で逃げているときに私だけがはぐれてしまい頭上に裸電球が光っていたこと、引き揚げ船に乗る時、乗った後の混乱、水蒸気が落ちてきたことなどを覚えています。
他の民間人同様、終戦即帰国とはいかず、しばらくのあいだ(たぶん一年くらい)一軒家に潜んでいました。食料を隣家の中国人が買ってきて塀越しに母に渡している光景も覚えています。
逃避行が始まったのは私が4歳になってから。次男・2歳を父が背負い、乳児・三男を母が胸にくくりつけて逃げたそうです。私は徒歩だったのですが、私がいないことに気づいた両親は闇の中を探しまわり、防空壕の底から聞こえてきた泣き声でみつけたそうです。気を失っていたら、中国孤児になっていたかもしれません。
両親の知人の一人は夜間、ソ連兵の女狩りが始まったので逃げている途中で転んでしまい、そのまま伏せていたところソ連兵たちが背中を踏んでいったそうです。
思い出したくなかったのでしょう、両親は当時のことをほとんど話してくれないまま、今の私の歳より何年も若くして亡くなりました。
口数の少なかった父が覚えておけと言ったことがあります。中国人は良い。朝鮮人は頭が良いが狡いから信用するな。
私より数歳上の商社マンが、この人も満州からの引揚者で、口数の少ないひとですが、何かの拍子に、(逃避行中に)朝鮮人から受けた非道を絶対許さないとポツンと言ったことがあります。
在日韓国人の友達もいる私は、ふたりの言ったことをそのまま自分の信条にするつもりはありませんが、日本におけるヘイトクライムの下地を考えるうえで参考にはなると感じています。
あれやこれや、書き散らしてすみませんでした。
我が子、孫たちにこういう話をしたことがないのでブログに書いておこうと、今、思いつきました。
新京の家の近くに領事館がありましたが、敗戦前に皆、内地(日本)に帰ってしまって建物内は人がいなかったと聞きました。
おのま@カナダ様、是非お書きください。
半藤さんは文芸春秋編集者時代に現代史、特にあの戦争を中心に丹念に証言をまとめられたそうです。
本書はその集大成、初版では大谷壮一を著者として出版しました。
ソ連の満州侵攻、アメリカのソ連に対する参戦要請があったとは。
ミッドウエイからレイテ沖で海軍は壊滅します。
あの時点で終戦の詔勅が出されていたら・・・
日本の歴史の中で最大のポイントです。
次の世代、そのまた次の世代・・・語り継いでいってもらいたい。
神道を中心に昔から言われたらしいですが、、1938年ごろから軍部を中心に言われだしたらしい。
天皇制護持のことらしいです。
天皇は1945年4月の段階で鈴木貫太郎を首相にして、終戦の方向に向かおうとします。
海軍はレイテ沖海戦で完全に戦闘能力を失っていますが、陸軍は本土決戦を主張したようです。その主張を通すためのスローガンだったのでしょうか。
ポツダム宣言には天皇制のことは明記されていません。
グズグズしてるうちに原爆、ソ連参戦が起こってしまいました。
御前会議、3:3で、最後は天皇の採決でポツダム宣言受諾が決まります。
本土決戦になったら私たちは今いなかったでしょう。
ポツダム宣言受諾。無条件降伏です。結果的に天皇制維持になりまさいた。連合国側は国を治めるには象徴天皇を必要としたのでしょうか。ワカリマセン。
このコメントをできるだけ多くの人に読んでいただけるように思います。
あの戦争はなんだのか・・・
次の世代に・・・そのまた次の世代に・・・語り継いでいってもらいたい…
戦後、占領政策の中で、修身、歴史、地理の3教科は教えては 、相成らんと。
①「軍国主義的および超国家主義的イデオロギーが、修身、日本歴史および地理の教科に執拗に織り込まれていたため、1945年12月31日、これら教科の停止、教科書の回収と廃棄・・・・・・。
②≫満蒙開拓は実は現地満州人の農地を略奪(強制買上げ)して開拓民に与えることだったようです。
知られざる昭和史の十字軍――児童虐待の全貌『満豪開拓青少年義勇軍』中公新書
をもう一度見直してみましょう。
8月15日、75、終戦の日がやって来る。
、
日ロ休戦協定を破った憎きソ連・・・ということになっていますが、ヤルタ会談でルーズベルトがソ連参戦を促した・・・ということ?
「鬼畜米英」と「ソ連」は同じ穴の貉だった。
日本はそんなこととは露知らずソ連に日米戦争の終戦の橋渡しの工作を依頼しています。
8月15日が来ます。日本民族が外国勢力に本土を制圧された日本歴史上の最大のポイントです。
こういうことはわたしたちの時代は歴史の教科書にヤルタ協定など載っていたと思いますが、そこまで授業が進まず1年が終わりになります。
ソ連が参戦する前に終戦していれば樺太、クナシリはどうなったでしょうか。
荒川村の満州開拓団慰霊碑を尋ねたことを思い出しました。