比企の丘

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今日は何の日・・・78年前の12月8日・・・日本がアメリカと戦争を始めた日

2019-12-08 | 語り継ぐ責任 あの戦争
今日は何の日・・・
1941年12月8日・・・いまから78年前の太平洋戦争・・・・日本がアメリカと戦争を始めた日・・・


日本国民が「忘れてはならない日・・・1941年12月8日太平洋戦争開戦の日・・・1945年6月23日沖縄戦終結の日・・・8月6日広島原爆の日、8月9日長崎原爆の日・・・8月15日太平洋戦争敗戦の日・・・5つの日のひとつ・・・です。


★開戦前・・・大日本帝国海軍連合艦隊司令長官山本五十六は近衛文麿総理大臣に「開戦か否か」の意見をもとめられ「ぜひやれと言われればはじめの半年か一年の間は暴れてご覧に入れますが、しかしながら二年三年となれば全く確信が持てませぬ」と答えたとそうです。これを後から伝え聞いた第四艦隊司令長官井上成美は「海軍はやれません。戦えば必ず負けます」と答えたほうが戦争を回避できたかも・・・といったといいます。
真珠湾攻撃は成功したが、その半年後のミッドウエイ開戦において帝国海軍は壊滅。山本五十六はその1年後ソロモン群島ブーゲンビリア塔上空において飛行中、戦死。
★海軍大将米内光政は三国同盟が結ばれたとき海軍が反対することは「ナイアガラの滝に逆行して孤独な船を漕ぐようなもの」と嘆息したといいます。「もし反対すれば殺されたでしょう」と述懐したそうです。
総力戦研究所・・・日米戦争開戦1年前の1940年9月、近衛内閣は総理直轄の研究所を開所。メンバーは行政、司法、学者、経済人、報道人の中堅エリート(いまでいう諮問委員みたいなものか)、影の内閣のようなものをメンバーで構成、「日米もし開戦すれば」の研究を始めます。1941年4月首相官邸で総理、主要閣僚の前で「机上演習(シュミレーション)研究、「開戦すれば負けは必至」の結論を発表します。
陸軍大臣東條英機は机上の理論、と一蹴、この案を握りつぶしたといいます。
☆1941年アメリカの鋼鉄の生産高7500万㌧、イギリス1250万㌧、それに対して日本の鋼鉄生産高700万㌧。
☆1941年8月アメリカから対日石油輸出の全面禁止通告。


何回かブログに掲載しました。できるだけ客観的に起きたことだけ文章にしたつもりです。
過去のブログを一編だけでも読んでいただけたらと思います。

★2015年12月8日のブログです・・・クリック→「1941年12月8日・・・74年前・・・資源のない国が・・・あの戦争をはじめた日
★2014年12月8日のブログです・・・クリック→「今日は何の日・・・今から73年前・・・日本が戦争をはじめた日
★2006年12月8日のブログです・・・クリック→「太平洋戦争開戦・真珠湾攻撃

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
どこと戦争したのでしょうか (さすらい日乗)
2019-12-10 08:33:42
以前、池上彰の番組のクイズで、
「日本が戦争した国はどこか」という問いがあり、ドイツ・イタリアとアメリカ・イギリスとなっていました。
すると後藤真季は、「ドイツ・イタリア」と答え、「だったアメリカとは仲が良いから」と答えました。
唖然としましたが、ある意味で正しいとも思えました。
過去と現在が逆ですが。
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コメントありがとうございます (さすらい日乗さんへ・・・)
2019-12-10 12:01:32
「日本は戦争をどことしたでしょうか」
テレビのバラエティ^-のクイズのお題に・・・
ディレクターがお馬鹿タレントに打ち合わせして答えさせるのでしょうか。
ありえないと思う答えですからね。
でも、おバカタレントでなくても今どきのオジサンオバサンも、政府高官も知らないかも。

コメントありがとうございました。
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有難うございます。 (こきおばさん)
2019-12-11 07:15:35
今年も書いてくださりありがとうございます。
12月8日という日のことを知らない人たちの方が多くなっていますから、有難い記事です。

 実は孫が12月8日に婚姻届を出しました。「どうしてこの日に?」と出かかった言葉をぐっと飲み込みました。
子どもにもですが、まして孫には余計なことは一切口にしないことにしていますから、何も言いませんでしたが、お式が済んでから孫に手紙を書こうと思っています。
知らないことはない孫ですから何かの事情があったことだと思います。

 中村医師を狙撃した犯人が捕まったとのニュースがありましたが、犯人が逮捕されても中村医師は帰ってきません・・・・・
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太平洋戦争 (縄文人)
2019-12-11 15:36:50

ご無沙汰しました。
これは従兄が、戦地に赴く姿を、銃後の妻となるTさんが詠んだものです。
幸い帰かんし既に2年前、銃後の妻も今年5月亡くなりました。

 ・ 残されし銃後の妻となる日近く
         征かせともなき夫に寄り添う

    昭和17年11月

出征する軍服姿に寄り添う銃後の妻の写真が中表紙に、
    綿々と書き連られた短歌集「野のすみれ」として残っています。

返信する
追伸 (縄文人)
2019-12-11 15:44:39

わがブログに画像がありました。
https://blog.goo.ne.jp/tsyouji5243_001/e/1bd198d2669b53b8e5b49afdfef742c8

          追加いたしました。
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今日は何の日 (こきおばさんへ・・・)
2019-12-12 17:15:16
5つの日・・・この日が来たらブログにのせるように・・・語り継ぎ・・・時代の人にも語り継いでいってもらいたい・・・

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戦争を始めた日 (縄文人さんへ・・・)
2019-12-12 17:23:29
さすがに覚えていません・・・幼子で・・・それがどういうことかわからなかったでしょうね。
父は日中戦争、日米戦争、二度の応召で戦争に行きました。幸いにも帰ってきました。
戦争のことはあまり語ることはありませんでした。

しばらく静養していたようですね。

しばらくぶりに秩父に行ってきました。
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/3419f72391f15c2ba4b1cb64a6c5a33a
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/b336c9fa7b2da93dac2bf3923466f833
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/b37e6ed061d9a6605994da0623896d86
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