比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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朝のテレビ小説「エール」を視ていて…永井隆「長崎の鐘」から「長崎の鐘は鳴る」

2020-10-23 | 語り継ぐ責任 あの戦争
今朝のNHK朝のテレビ小説「エール」を視ていて・・・
2008年8月9日のブログを自分で再読しました。
ここに再掲載しました。

8月9日・・・ナガサキ忌・・・永井隆「長崎の鐘」・・・名曲「長崎の鐘」・・・
                                                          2008年8月9日
今日は何の日・・・63年前の8月9日11時02分・・・長崎市にアメリカ軍により原爆が投下された日です。

9日未明テニアン島から出撃した米軍戦略爆撃機は9時40分第一攻撃目標地の小倉市(現北九州市)上空に到着、爆撃準備にかかりますが、さまざまな理由で断念、第二攻撃目標地の長崎市に向かいます。10時50分長崎市上空に、11時2分プルトニューム原子爆弾「ファットマン」が投下されます。
死者74000人、1発で22000㌧火薬弾相当、広島の1.5倍相当。広島より死者が少なかったのは地形上の問題。(長崎市への原子爆弾投下・・Wikipedia参照)

ここに1冊の本があります。ボロボロです。なぜか私の手元にあります。
永井隆著「長崎の鐘
永井隆(1908~1951年)長崎大学医学部教授、医学博士、クリスチャン、歌人・・・長崎原爆で奥様は爆死・・・自らも被爆、病をおして被爆者の治療にあたり病床に臥したあとに「長崎の鐘」「この子を残して」ほか数々の著書を残しました。
発行は昭和24年1月、同24年2月再版、発行所は日比谷出版社、発行人は式場俊三、製作者は畑太郎とあります。※わたくしごとですが、製作者の畑太郎さん・・・わたしがたいへんお世話になった方です。人生の恩人とも言える方です。話がそれました。
長崎の鐘・・・・被爆直後、爆心地から500mの浦上天主堂ではミサが行われていて司祭はじめ多数の信徒は一瞬のうちに全員死亡。崩れ落ちた天主堂の瓦礫の中からアンジェラスの鐘が発見されます。この鐘が再び鳴らされたのは原爆被災の1945年、12月のクリスマスの夜でした。

五月のはじめ、NHKテレビである曲が流れてきました。
サトーハチロー作詞・古関裕而作曲・藤山一郎
名曲「長崎の鐘」です。

永井博士が浦上天主堂を見下ろす丘の上のオンボロ屋「如己堂」で書きのこした「長崎の鐘」、この本をもとに親交のあった式場隆三郎(医学博士、文芸畑でも活躍、画家山下清を世に出したことで有名)がレコードをプロジュース、生まれたのが不朽の名曲「長崎の鐘」です。
本の発行者式場俊三、このかたと式場博士とどう関係があるか調べましたが不明でした。

永井博士のこととこの歌が生まれるいきさつについては二木紘三のうた物語を参考にしました。素晴らしい文章です。ぜひ一読してください。歌詞もメロディーもあります。

画像はテレビ画面の映った永井博士の歌です。アコーディオンを携えて博士の病床を訪ねた藤山一郎におくったといわれます。
藤山一郎は生涯「この歌の心」を胸に抱いて「長崎の鐘」を歌ったんだなあと思いました。


今年は永井博士生誕100年です。
この日、歌ったのは盲目のテノール歌手新垣勉さん。聖職者でもあります。
祈り」をこめた素晴らしい歌でした。




今日は「ナガサキ忌」・・・・・・・合掌

原爆という無差別大量殺戮兵器の行使・・・パンドラの箱を2度も開けてしまったアメリカ。
60有余年たった今も戦争の早期終結のためにという「免罪符」のような言葉を守るしか方法がありません。戦争というものはそういうものかも知れません。でも次にパンドラの箱が開けられたとき、何百万人どころか何千万人が野垂れ死にすることは間違いありません。東京に数発落ちたことを考えてみてください。
いま、世界のどこかで行われている戦争は国益とか権益とか、そういうもので誰かが得をしています。それがエスカレートしていくと狂気になります。
そんなことにならないために世界にどうメッセージを送るか。被爆国日本の責務です。

2006.8.9のブログ「長崎原爆落下の日 永井博士終焉の家「如己堂」
2006.9.14のブログ「長崎の鐘・・浦上天主堂・・平和祈念像
2007.8.9のブログ「今日は何の日・・・「長崎原爆の日」・・・ここに1冊の本があります・・・「長崎の鐘」

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11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは(^^)/ (hiroko)
2020-10-23 20:04:49
長崎の鐘、名曲ですよね、
何故か歌えるんです、誰に教わったのか忘れましたが
カラオケでも歌えます、
エ-ルの戦後、涙の出るシ-ンが多いです、
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Unknown (お天気ママ)
2020-10-23 21:56:36
エールで長崎の鐘を聞き良い曲だと思いました、永井博士のことも参考になりました。ありがとうございます
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これだけ書き綴る、すごい力量 (縄文人)
2020-10-24 06:15:02
昨日《エール》拝見した感想。

1,永井隆を演じた、この人誰!?
吉岡秀隆さんが、このような役を演じるのか・・・・・
「北の国から」の演じたときとは隔世の感あり・・・・・、
自分も年を重ねたものとしみじみ感じた。

2、ヒキノさんのブログを見ていて何時も感じること。
すごい力量で、理が詰んでいる、相当の時間を費やして、書き綴るのであろう?ただただ敬服です。
書き綴るのには、それ相当の下調べが・・・・・。
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おはようございます (のり)
2020-10-24 11:14:36
永井博士生誕100年に当たるのですか今年が。 その年に、この「エール」のドラマの放映がなされて本当に良かったです!! 永井博士と古関裕而氏の出会いの中から、名曲が生まれたことに感動しています。
『自分のために何かをするのではだめだ・・・』とドラマ中で永井博士が小関裕司に語っていたシーンが印象に残っていますが、自分の悲しみ、苦しみを乗り越えた先に光が見えてくる!!ことを知らされた思いでいます。
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鐘の鳴る丘、長崎の鐘 (縄文人さんへ・・・)
2020-10-24 11:17:05
小学生の時、教室で先生が紙芝居…「鐘の鳴る丘」・・・みんな泣いた、先生も泣いた。
戦災浮浪孤児なんて何のことか知らない田舎の村のことです。
それから雑音の多いラジオで「鐘の鳴る丘」のドラマを夢中になって聞いていました。

中学生のころ、学校の雨天体育場の中で巡回映画上映があり「長崎の鐘」を全校生徒が板の間に座って見ました。筋は覚えていませんが、奥さん役の津島恵子、如己堂に登る坂道を月丘夢路が歩く姿を今でも覚えています。
数十年後、その景色を見たくて長崎に旅しました。
思い入れがあるので文章も書けます。

「ああ堂々の輸送船」・・・むかし、近くの行きつけの飲み屋。酔っぱらうといつもこの歌を歌って涙ぐんでるオジサンがいました。南方で戦い生きて帰った元兵士だったのでしょうか。

歌は人生の応援歌「エール」…

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戦争協力で挫折した芸術家たち (のりさんへ・・・)
2020-10-24 11:36:12
ドラマでは・・・古関裕而が、鬱状態に。
藤田嗣二は「アッツ島玉砕」はじめ多くの戦争画を残しています。そのため戦後、非難を受け、日本国籍を捨ててフランスへ。「アッツ島玉砕」は反戦がともとれる絵です。
高村光太郎は多くの戦争賛美詩を書いて、戦後、鬱になり花巻郊外のあばら家で過ごしました。

長崎の如己堂、浦上天主堂…今から12年前に訪れました。思い出が甦ります。

コメントありがとうございました。
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コメントありがとうございます。 (お天気ママさんへ…)
2020-10-24 11:44:47
「長崎の鐘」・・・不朽の名曲ですね。
カラオケでソロで歌うのはちょっと難しいけど。
永井博士が過ごした小屋・・・12年前に訪れました。
如己堂・・・おのれのごとく人を愛せ・・・いい言葉ですね。

お天気ママさんにお願い・・・URL(アドレスコード)を入れてください。意味は説明しませんが。
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いつも絵を楽しんでいます (hirokoさんへ・・・)
2020-10-24 11:48:46
コメントありがとうございます。
朝のドラマを見ていて、昔のブログ思い出しました。
「長崎の鐘」名曲ですね。
歌い継いでください。
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長崎の鐘 (oko)
2020-10-24 21:30:42
この度も素晴らしい取材に敬意を表しますと共に多くを学ばせて頂きました。
「エール」の番組がよりわかりやすく見ることができます。
本当にありがとうございます。
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2008年長崎追悼式 (oko)
2020-10-25 00:39:23
確か、以前に永井博士の事を綴った記憶がありましたので
長崎戦没者追悼式を振り返ってみました。
2008年8月9日の式典に田上市長が永井博士の
生誕100年に当たり追悼のお言葉を述べられておりました。

お書きくださっておりますように式場病院は千葉県市川市に創設され、
有名な山下画伯を育てられました。
式場俊三様は式場先生の弟様で編集関係を行っておりました事に
山下画伯展などを千葉県で開催して頂きました。
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