比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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故郷忘じがたく候・・・薩摩焼のふるさと・・・苗代川・・・沈壽官

2008-10-21 | 絵画、彫刻
                                       、
10月20日月曜日、某テレビ局の「鶴瓢の家族に乾杯」という番組、鹿児島県日置市のあたりが出ていました。この番組いつもウチのオバサンが熱心に見ていてわたしは横目で見てる程度ですが、この日は例の大河ドラマ「篤姫」の初恋の相手とかいう小松帯刀(清廉)の墓所を某華道家が訪ねたりする場面があって、そのうちに薩摩焼のふるさと苗代川の風景が出てきて、鶴瓶さんが沈寿官さんの屋敷に迷い込むという場面が映し出されました。
たいへん懐かしい風景です。ここは旅人として昨年12月に訪れました。

沈寿官邸はこんなところです。

  07.12.19のブログ 鹿児島の旅・・・薩摩焼き・・・故郷忘じがたく

ネット社会とは面白いもので今朝(10月21日)昨日のアクセス状況を見ましたらこのブログにアクセスしてくれた方々がいました。昨日のテレビの影響ですね。たいへん嬉しく思ってます。

私が南九州を訪ねたのは昨年の12月、司馬遼太郎さんの「故郷忘じがたく候」、赤羽礼子さんの「ホタル帰るを読まなかったら南九州の地を踏まなかったかもしれません。

司馬遼太郎故郷忘じがたく候
    (文藝春秋1968年刊)
小説というより歴史随想というか司馬遼太郎独特の語り節です。十四代沈寿官さんとの出会いから始まり例によって司馬流の語りが展開していきます。

1597年朝鮮全羅北道南原城の戦いで逃げ遅れた70名ばかりの男女が島津軍の捕虜となります。この時、意識して朝鮮磁器の工人を捕虜にしたかは定かではないようです。結果的に連行してきた捕虜が磁器の技術をもっていたかも知れません。
島津軍に捉えられた一行は島津軍撤退に従って日本に来ますがどうも単独で鹿児島県串木野の島平というところに上陸したようです。偶然に流れ着いたということでしょうか。数年を経て現在の土地に移住、以来曲折はあったでしょうが薩摩藩では彼らを郷士として処遇します。彼らの焼く白薩摩は藩の財源になりました。

「故郷忘じがたく候」・・・・・・・・は薩摩上陸以来200年もたったある日、尋ねてきた人の問に答えてつぶやく故老の言葉です。

沈さんはソウル大学の講演で学生達に語りかけます。

「あなた方が三十六年をいうなら・・・」
「私は三百七十年をいわねばならぬ」


新しい国家の建設のためには前へ前へと向いて欲しい。そういいたかったのでしょう。学生達の大合唱の前で身をふるわせて立ちつくします。

1597年ここに上陸、痛恨の思いで400年余を過ごしたかどうかはわたしには窺い知ることはできません。わたし的に考えて日本人以上に日本人として生きてきたように思えます。そう思いたいのです。

静かな美しい田舎の村です。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
私も観ました (菜花)
2008-10-22 11:29:07
こんにちは。

私もこの番組、観ました。司馬遼太郎さんが突然尋ねて来たのが縁だったとか…。

沈寿官がとても若々しいのに驚きました。

それにしてもヒキノさん、いろいろな本を沢山読んでらっしゃいますね。これにもいつも驚いています。
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ワタシの読書は (菜花さんへ・・ヒキノ)
2008-10-22 21:56:49
浅い読み方です。ほとんど図書館の本で何回も借りなおします。どうしても欲しいときアマゾンで買います。
自分の考え方が浅くならないために、人の意見に引きずられないために、確証するころが必要なとき読みます。

苗代川の朝鮮人一族、尊厳を持って生きてきたのではないかと思います。薩摩人らしく戊辰戦争にも西南戦争にも出兵しています。それがこの一族のプライドだったのでしょう。
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