比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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信濃国・・須坂・・豪商の館「田中本家」

2008-08-18 | 古民家の風景
草津白根から信州に向かい万座峠から高山村、須坂市に出ました。
ジブンドキを過ぎています。須坂の街を通っていると豪商の館「田中本家」の案内が目に入り寄ってみることにしました。駐車場から150m。
暑い!!

正面。門は長屋門、冠木門、四脚門ではないようですが乳金を打った立派なものです。
間口100m、奥行き100m、つまり10000㎡(一町歩)、四方が土蔵に囲まれています。写真は折れ曲がって見えますが直線です(写真4枚合成)。

入館料700円、正面の母屋は別料金

母屋を囲んで土蔵が、中庭もあり池もあり、納屋もあり石垣もあり、迷路のようです。

母屋を望む中庭                  母屋と裏側の土蔵との間

石垣があります。お城みたい         土蔵と母屋の間、塀があります。            

屋敷の裏側、ここでも塀ではなく土蔵です。掘りがあります。

豪商「田中家」初代田中新八が江戸中期(1733年)開業。穀物、菜種、綿、煙草、酒造業、総合商社ですな。特に菜種油は江戸中期から灯火用の油が菜種油になったことから千曲川沿岸の主力地場産業になりました。須坂藩の御用達商人であり運上金、冥加金とかも納めますがそのほかに莫大な献金もしたでしょう。別に悪いことではありません。特別税と考えればいいわけです。名字帯刀も許されます。幕末には士分に取り立てられ財政を担当します。民間出身の閣僚ですね。藩も財政逼迫で田中家の財政管理能力と資金力も必要だったかも知れません。
とうぜん大地主へと成長していきます。よくあることです。
ちなみに須坂藩1万石、豊臣家の重臣から譜代扱いに、財政改革を行い逆に財政逼迫したり、幕末には徳川慶喜を諌めて自死したり、そのあとめは官軍になって会津征伐に出兵したりして、なかなかうまく泳いで徳川時代を改易、移封することなく廃藩を迎えます。
土蔵を改修した博物館は江戸時代から昭和に至るまでの生活雑器から高級衣服、書画、文書がたいへんイイ状態で展示してあります。庶民の家にはこんなものは残っていません。貴重な文化遺産、近世の正倉院とも言われるんだそうです。

「フ~ん」と感服しきりで館内の食事処で「とろろ蕎麦」を食して、次に移動です


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